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Gazing At " Promised Land "

2003年度 7月第一週


 7月1日

今日で久居中が終了。これで少しは教室に空席が・・・と思うものの、東中と付属と南郊中とで埋め尽くされ小学生は怪訝な顔をしながら隣りの高2の部屋へと移動。
隣りの部屋、世界中の地図が貼ってある部屋だ。ここにはウチの大学生が土産で買ってきた地図が壁一面に貼られている。この部屋の住人は少し前まで高1、しかし先週から高2に代わった。叩き直し! それしかない。それが嫌なら塾をやめればいい。どちらにしろ2年前の栄光はすでに地に落ちている。今から必死に地べたを這いずり回ってやっと姿が見えるかどうか・・・。くだらない実力試験とやらが終わったら、毎日が最後の授業のつもりで授業をするつもりだ。

今夜も允(あたる)と深夜の英語の授業。
4月の頃の允の脆弱な英語はいつしか影を潜めた。允が浪人の1年間をウチの塾で過ごす以上、現役の連中とタイマンを張らせるつもりでいた。現役とのシノギ合いの中でただでさえ自己満足に陥りそうな浪人生活にギラギラした緊張感を与えたかったからだ。しかし允の英語の実力、正直言ってウチの現役の方が凌いでいた。まあ、ウチの現役が允を凌いだところで凌いだ方にさえ不安全開。つまりは允の実力、げにげに恐ろしき現実に直面していた。
あのまま允と現役をぶつけては華々しい勝負など期待できなかった。ゆえに允には一人で勉強させ、暇があると俺がマンツーマンで教えた。4月にはターゲット1900の800〜1500クラスの単語がからっきしだった允だが、第一回全国統一模試の頃には庄屋仕立てながらも、なあんとか見れるレベルにまでは持ち込んでいた。そして返却された英語の偏差値59。
なんとか允の陣容も整った。そして今夜、急遽先週購入した黒本をぶつける。去年の全国統一模試の第一回・・・「菊山のアホウ、194点やで」「えっ!マジっすか、・・・きっついなあ」「200点満点取らな勝てへんからな。じゃあ満点取れよ!」 そして允、184点・・・。満点は取れなかったが、これで菊山を射程距離に追い詰めた。逆下克上発言でもしてもらおうか。
今夜で允、完全にスタンバイOK! これでやっと現役とのシノギ合い、名勝負の予感・・・。今週末、津西の期末終了次第、ただちに大森参入。古い塾から新しい塾までアート引越しセンターに電話してやろうか? 大森の兄貴の話では大森、なんと国体出場を蹴ったとか。これで立命館までノンスタップ!!!

浪人している健太から電話。明日から允と同じようにウチの塾で勉強したいとか・・・。ここに来て大学受験の渦、一挙に風雲急!

7月2日

塾の掃除に来てくれた親父から、今日オフクロが叔母の見舞いに行ったことを聞かされた。「午後3時頃には帰っているだろうから電話してやってくれ」 親父には珍しく最後には命令口調で言い放った。
あまりいい予感はしなかった。叔母のその後の経緯のことも頭にちらついた。

「奇跡的な回復」という言葉を担当医は使ったという。・・・脳腫瘍からの生還、確かに叔母は俺が行くたびに覚醒し続けていた。まるで幼児と話すようだった4月、それがひと月あまりで大人に成長していく。結婚式の披露宴で新婦の成長ビデオを眺めているような気にさせられたのも事実。しかし現実世界への回帰とリンクするように叔母の心の中で膨れ上がる疑念・・・なぜ私はこの病院にいる? 幾度と周りの人々に発せられる問いかけ、「どうして癌の摘出手術をしてくれないの?」「どうして抗癌剤治療をしてくれないの?」 叔母の意識の回復は、同時に癌の告知をたった一人で聞き、会社での引継ぎ業務も一人で処理し、癌との闘いを決意し入院先の病院をやはり一人で探し、全ての段取りを終えてから家族へ伝え入院した時の意識をも覚醒させた。
旦那さんにも、三人の子供達にも、看護師達にも、担当医にも、毎日のように際限なく問いかけたという。「いつになったら手術してくれるんですか?」「いつになったら抗癌治療を始めるんですか?」 闘う意志は旺盛だった。しかし脳梗塞に倒れてふた月、体力がどうしようもないほどに衰えていた。水が溜まったと見まがうほどに癌細胞は増殖を続けていた。到底叔母の願う手術の目はなかった。担当医と家族の話し合いのなか、患者には体力が回復してから手術を行うということを伝えた。もちろん口実にすぎなかった。しかし叔母は納得した様子もなく、問いかけは執拗に続いた。そこには痛ましいほどの生への渇望があった。
そして事態は急転する。
新たに病室に出入りするようになったインターンのドクターに叔母はすがるように尋ねた。「いつになったら私は手術をしてもらえるんですか?」 仔細を聞かせれていなかったインターンは答えたという、「あなたにはもう手術ができないんです」 この日から叔母は言葉を失い抜け殻となった。

このような経緯があり、俺はここしばらく病院を訪ねるのを控えていた。情けないことだが俺には叔母と会話をする勇気がなかったのだ。
午後3時、俺はヘコミが治ったばかりのエスティマを走らせ実家へと出向いた。
「今日、鈴木のおばさんと見舞いに行ってきたんやけどな、もう歩けへんようなんや。4月の頃は無断で病院抜け出して喫茶店でコーヒー飲んでるくらい元気やったのにな。やっぱりインターンの言葉がこたえたんかな・・・まあ、病院側は謝ったらしいんやけど」 入院時の病院側の対応ミスから息子さんの脳に障害を残しても「生きててくれただけでも良かった」と言ったドクターの姿を想った。「もうアカンのかな・・・」「うん・・・でも、今日からまた抗癌剤治療が始まったけどな」「えっ、また脳腫瘍を起こすんとちがうの」「今までの抗癌剤と比べたらはるかに軽いやつなんやって」「おためごかしみたいやな」「でも旦那さん言うてた、最近では3人の子供達の区別がつかんようになったって・・・でも、私が今日病室に入っていったら“ごめんな節っちゃん、抗癌剤治療が始まったからいっしょにコーヒー飲みに行けへん”って・・・」 しばしの沈黙に視線を移すと、言葉の先を飲み込みながら嗚咽しているオフクロがいた。 

塾には期末最終日の試験勉強のため多くの中学生達がつめかけていた。早く塾に戻って質問を受けてやらなければ・・・それは分かっていた、重々分かってはいた。車を走らせながら自分の子供が認識できなくなった叔母を想った。それでも手術をせがむ叔母の姿を想った。走り慣れた道を、あてどもなく、俺はおんぼろエスティマを走らせていた。

塾に戻ると、あすかが数学の苦手な高3の女の子相手に怒鳴り散らしていた。その怒りようが今の俺の心を優しく愛でた。

深夜、允が全国統一模試の第一回記述の成績表を持ってくる。頭を掻きながらテレ笑い? 英語の偏差値は54.5、これはマーク中心の私立大学の勉強しているから順当ともいえる。日本史は70.0、こりゃスゲエ。しかし国語が急転直下、偏差値50を大きく切る。私立型の勉強ゆえに、とはさすがに言えない。まあ、なんとか立命館アジア太平洋がCってのがご愛嬌だが・・・。
「アンタの点数の取り方は日本史70、英語は65、あとは国語出たとこ勝負ってタイプや。横山(津高から同志社、現在は花王勤務)と同じやね」「その先輩はどこへ入ったんですか?」 俺の悪いところが出た。ついつい同じタイプの先輩になぞらえて事を運ぼうとする。考えてみれば横山は4期で允は14期、10年もオッサンのこと言うても説得力がない? 「横山は国語苦手でさ、同志社で英語9割、日本史9割、そして国語5割弱で合格してきたよ」
さて明日からは現役の連中の成績表を拝見できるってわけだ。慰める言葉をたくさん準備しなくっちゃ・・・。

7月3日

さっそく響平(大検から受験)、成績表持っての登場。
英語の偏差値が53.0、世界史が60.2、そして国語が56.8.内訳を見ると、英語と国語の最後の問題がほとんど点がない。「時間が足らんかった?」「ええ」 まだまだ試験に慣れてないってわけだ。本来なら大西君の薫陶を一番受けているはずの国語、偏差値60を切るはずがない。それは英語にしても同様。この夏休みは毎日が実戦形式。時間に追われるような調練を繰り返せば光明が見えるはず。
響平には志望大学がなく、志望学部がある・・・社会学部。関西地区の社会学部が並ぶ。ある意味で最も理にかなった選択方法である。その中で一際異彩を放つ大学・・・このあたりの俺の思考が学歴社会で培われたアカやろね・・・関西学院大学社会学部にC判定が点灯した!
京都で修行僧のような学究生活に勤しんでいる大西君! 君がウチの塾に誘ってくれた響平が、君が直接家まで行って説得した響平が、やっと関西学院大学社会学部でC判定を叩き出すところまできた。響平を誉めてやってくれよ。

しかし、允も響平もまだまだ旅の途中・・・。

7月5日

奥さんが尋ねる、「いくらいるの?」 新潟ツアーの費用のことだ。「7万円くらいでいいんちゃう」「もう! で、お風呂はいつ入るの」「なんで」「だってホームページのBBSにも書いてたじゃない。風呂に入ってから来い!って」「ええんとちゃう」「絶対にダメ!」「じゃあ、出発前にでも・・・」「嘘つくといけないから7万円は風呂に入ってからよ」

菊山が一日千秋、全国統一模試の成績表持参で姿を見せる。
英語の偏差値は63.7、数学(記述ゆえにVC)が67.1、物理が57.6、化学が55.7・・・。
今の時期を考えると、英語は多少落ちるものの祐輔(早稲田大学1年)の成績とどっこいどっこいかな。菊山の志望は京都にシフトしたが、それまでの志望大学である大阪大学はC判定、祐輔を意識しての?早稲田大学はD判定、とりあえず書いた?上智と東京理科はともにA判定。
「津高として考えると英語は去年より悪いちゃう?」「先生が数学はよくやってるって言ってましたけど」「誉めるとこないんやろな。物理と化学の校内平均点、2教科とも全国平均と比べて1点ちょっと上だけや。これひどいよ」「ハハッ・・・」「オマエはこの夏で物理と化学、ピシッとやってよ。ところで俺さ、今夜から新潟へ行くから。明日とあさってでターゲット1501から1686まで覚えといてや」 菊山、うつろな表情でうなずく。

小世古から連絡が入る。「お久しぶりです」ときたもんだ。「ほんま、お久しぶり」と俺。「先生、気をつけて来てよ」「まかせといて! 俺ってゴールドなんや」「なんでなん! 昔に一度先生に送ってもらった時、ほんま先生ベロベロに酔っぱらっててホンマ泣きそうになったわ!」「今でも泣いてる奴よおけおるわ」「とにかく安全運転やに!」
これでもう一つの一日千秋がかなったわけだ。あとは新潟で売っているかどうか?ハイライトマイルドを買い込むだけでいい。

7月6日

深夜1時、塾を出発。慣れ親しんだ国道23号を北上する。
中村の住む新潟県上越市までは高速ではなく下の道を走るつもりだった。名古屋から国道19号線に入り鳥居峠を越え、松本に入る。その先どうするかは決めてなかった。

1時間で19号線の始発、鶴舞公園を通過。右手に名古屋大学病院がそびえ立つ。意気消沈気味の叔母を想像した、想像したくなかった。
やはり名古屋市内を脱出するまでは信号につかまるなどで少々時間をロスするものの、岐阜県に入るあたりから前後の車、高速顔負けで飛ばす飛ばす。

国道18号は俺が高校生の時、自転車でよく走った道。さすがに今ではバイパスなどができ様子も変わってしまった。しかしその場所、中津川の市街を抜け南木曾との境界にある坂道の頂上は、今も昔の面影を残していた。いつだって旅の初日の夜はここにテントを張った。目覚めると眼下に中津川の市街が広がり、旅行一日目の疲れを癒してくれた。そして久居・中津川間125kmを走破したことで、これからも続く旅の行程に不安を抱きがちな俺を鼓舞した。サイクラーにとり中部日本最大の難所と言われる鳥居峠もその高揚感で一挙に駆け上った。

かつて汗だくで一日の行程を要した中津川までを2時間少々で通過。南木曾の駅を通過したのが午前3時25分。2年前、信州大学の推薦試験を受けた仁志(立命館2年)をこの駅まで迎えに行った。馬篭の宿場を散策して蕎麦を食った。

国道19号線、恐ろしいほどコンビニがない。中津川から鳥居峠までタイムリーという地元密着のコンビニ?がたった2軒のみ。ついつい缶コーヒーすら買いそびれままに鳥居峠を抜ける。この鳥居トンネルは新しくできたもの。昔はもっと不安になるようなトンネルで、トンネルを抜けるとそれまでの鬱憤をはらすがごとく奈良井の宿場町まで一挙に駆け下りた。前を行く乗用車を抜かした時の運転手のギョッとした表情を今でも思い出す。俺は新しいトンネルを迂回、懐かしい旧道沿いに奈良井宿まで駆け下りた。あの頃の俺は大学受験に背を向けた高校生だった。

午前5時、松本市内に入った。高速道路とさほど代わらぬタイムに微笑んだ。考えてみれば、くだらないプライドだった。

松本から更埴方面には出ず、国道19号で長野へ向かう。途中、突如として睡魔が降臨。目についた駐車場で1時間ほど仮眠。そして長野市内でやっと朝食バイキング1000円にありつく。人ごこちついたところで店員に、近くにあるサウナを尋ねる。「サウナは分からないけど、小布施に温泉がありますよ。ここの湯はほんとうに良質なんですよ」のひと言から19号線からシフト、千曲川を渡り小布施温泉を目指す。
小布施温泉は志賀高原のふもとにあった。入浴料が500円と格安! さらに毎日午前6時半から朝風呂もやっている。そうと知ってたら断固睡魔と闘ってたのにと悔やむ。露天風呂からは飛騨山脈が一望できた。天気予報では雨とのことだったが俺の普段の心がけの勝利だろう。さっそく中村に連絡、呼び出し音2回で「先生、今どこ」「長野の近くの小布施ってとこで温泉につかってるよ」「温泉!余裕やな」「だって小世古、俺が風呂に入らんかったら泊めたらんて言ってたやん」

温泉で時間をロスした分を取り返そうと上信越自動車道に乗る。時速150kmで野尻湖・妙高高原を横目にすっ飛ばす。午後12時半、上越高田インターを降りる。中村の誘導が巧み、「今は2車線やね、じゃあすぐに1車線になる。そしてまた2車線になったら左手にガソリンスタンド、右前に本屋がある交差点がある。その本屋の隣りに回転寿司があるから、そこを右折」 名ナビのおかげでなんら苦労することなく中村の下宿に到着。
中村の下宿には彼女の匂いがプンプンした。二人で撮った写真が壁のいたるところに貼ってある。二人で書いてもらった似顔絵もある。「軟弱な部屋やな」と俺。余裕の笑みは中村。中村の彼女については細かいことを聞いてなかった。かわいいタイプだが、さりげなくジャブを。「彼女って同じ年?」

上越インターから新潟へ向かう。ダッシュボードには今しがた中村がくれた土産が置いてある。「中学生に半導体はこんなんやって見せてやれば」とくれたCDの親戚みたいな円盤がひとつ。中村は新潟の松下で毎日これと格闘しているという。

新潟市内をぶらぶらと車で流す。そろそろいいかなと小世古の携帯に連絡。携帯のやり取りで中村の時ほどにはスムーズにいかなかったが、第四銀行の駐車場で久しぶりの遭遇。「先生、まだこの車に乗ってんの!」「悪かったな、ウチの塾の血と汗の涙の歴史や。簡単に手放せんわい」 
中村の持論では新潟にはおいしいラーメン屋はないとのこと。さらに「あんな太麺ではうまいラーメンは作れない」とまで断罪する。なにしろこ奴、炉端の厨房生活が長かった。こと食べ物にかけては批判精神旺盛である。「じゃあ、おいしいラーメンを食べさせたるわ」と小世古。案内された店のラーメン、俺はうまかったね。今年和歌山で橋本や大輔(ともに近畿大学1年)と食べた井出商店のラーメン。あそこまでの麺と汁の一体感はなかったけど、麺も汁もお互いをたてていた。ところが中村の感想は「なんやこれ、ダシが薄いわ」のひと言。

「今から飲みに行く」と聞いた立体駐車場のオッチャン、いろいろと丁寧なアドバイスをくれる。中村が新潟に向かう車の中で入っていた言葉が蘇る・・・こっちの人ってのんびりしてて親切なんや。「悪いこと言わないから駅前のホテルを取ってそこの駐車場に入れなさいよ。ここだと警察の目が光ってるからね。今はね、万代橋のこっちより対岸の駅の周辺の方が賑やかなの。ビジネスホテルもたくさんあるしね。この車は平面駐車場しかだめだから、駅近くのビジネスホテルの駐車場、平面駐車場持ってるから。そこにしなさい、この辺りの平面駐車場? そりゃあるけど、酒を飲むんでしょ? 後ろの人達はお父さんの子供さん達? そうなの、へえ就職祝。そりゃおめでとう。でもね、この辺りの平面駐車場はやめなさい。警察いるからね。駅前のホテル開いてるかって? そりゃ開いてる。ええ、確かに今日は土曜日だけどね、不景気だしね。昔のようじゃないから・・・お父さんも覚えてるでしょ? 昔は高度成長っていう時代があってさ。私もね、そこそこまでは出世してね。まあ、今はこんなとこで働いてるけど・・・あの時代はね、接待費だって10万程度じゃ接待するって言わなかったですよ。100万使ってもいい、100万使っても1000万の仕事を取れればね良かったですよ・・・」 まだまだ話は続き、日本が戦争に負けたのは山本五十六が死んだからだというところで、なんとか駅前のホテルに行ってみるからと礼を言って退散した。「新潟の人って何かというと山本五十六を出すよ」と小世古。「山本五十六ってこっちの人か?」「なんや枕崎の出身だって」「へえ、俺日本史教えてるけど知らんかったわ」 

俺達の飲む場所は「案山子」と決めていた。「案山子」は鳥羽のオッサンとの旅で見つけた店。越の寒梅を始め、三重県では到底手に入りそうにない地酒を安価で揃えていた。なにしろ目的が目的、俺は駐車場のオッチャンに心の中で手を合わせ、近くの平面駐車場に車を入れた。警察は怖かった。携帯の時計を見た。午後6時・・・今夜は深夜の3時くらいまで飲んでやる! 勢いだけでそう想った。俺は小世古と中村を伴い、久しぶりの新潟の飲み屋街に足を踏み入れた。

いつのまにか、イトーヨーカドーのビルが建っている。記憶にはない。でもここいらあたりだ・・・周囲を見まわす。記憶の断片からアーケードの隅に忘れ去られたように建つ鳥居・・・確かこの近くだ。付近を行きつ戻りつ・・・そんな俺を不安げに見守る小瀬古と中村。立ちんぼのオバチャンが微笑みながら俺を見る。仕方ないか、時間もないしと思いつつ、「このあたりに案山子って飲み屋あったと思うんやけど、もう潰れた?」「案山子?まだあるよ。あそこや」と指を差す。「飲んでからどう、いい子いるよ」と商売が始まる。俺の視線の先、中村と小瀬古を見やり「なんや子供連れ?」「まあね、今日は親子水入らずで勘弁してや」

しかし案山子には暖簾が出ていない。「本日休業」との張り紙・・・「今日は土曜日やで!」と毒づく俺。「今度、来ようっと」と小瀬古。他に当てもなく、さりとてオバチャンの視界で動くことも憚られ、逆の筋に出る。そこに一軒だけ赤暖簾、「ここにしよや。中村が注文して値段と料理が釣り合わなかったら他の店に行こや」 志望大学に落とされやむなく本意でない大学に進学した俺達を迎えたのは「昔は別嬪だったんでしょ」と言うと歯が浮いてしまうようなオバアチャン二人。

まずは生ビールを注文。付出しにお吸い物が出てくるという異常な展開。料理は小瀬古がホッケ、中村がハタハタ、俺がタコの刺身。ところがお先真っ暗な予想に反して、いっちょかみの中村からは恒例のブツクサ文句が出ない。ついつい日本酒へ駒を進めるものの、越の寒梅の大徳利に始まりお品書きにある日本酒の銘柄総出演となる。あげく久保田が大好きだという小瀬古に日本酒一升瓶をキープ。高速を使わずに下を走ってきたから高速料金が浮いている。久居・長野中野間9.200円、久保田のキープ料6000円で釣りがくる。このあたりから俺は泥酔モードに突入したという。

深夜1時半頃に赤提灯を後にしたとのこと。中村とヘベレケの小瀬古が二人して俺をかついで店を出たわけだ。そして飲んでたはずの中村が運転した・・・んやろな。
小瀬古が言うには、オバアチャンの二人組、駐車場のオッチャンと同じく、家族で飲みに来たと誤解してたらしい。つまり俺は小世古と中村の親父ってか!

朝、中村に起こされた。「先生、もう行かな」 中村が今日野球の試合があるのは聞いていた。せっかくの同窓会なのでゆっくりしたいとの目論みがはずれる。仕方ないか、中村には新潟での中村の場がある。
起き上がると小瀬古のベッドの上。感激してしまった、こんな待遇を受けたのははるか昔、東北大学の章貴(中部電力勤務)んとこに泊まって以来だ。小瀬古の顔色が悪い。二日酔いか? 俺は・・・珍しい、あんだけ飲んだのに気分はまずまず。運転できそうだ。
午前8時30分、新潟を出発。一路、上越へ吹っ飛ばす。中村があわてて「先生、急がんでもいいよ」「だって午前10時から試合だろ」「迎えがそのあたりってこと」「なんや・・・そういや、昨日の飲み代だれが払ったんや」「ああ、俺が払っといたよ」「俺が潰れちまったからな、そりゃすまんかった。で、いくらやった?」「いや・・・せっかく新潟まで来てもらったからいいっすよ」「おっ!社会人やん。ラッキー! ところでさ、昨日のラーメンの味、小瀬古にはあんな風に言ってたけど本当はどうだった?」「いやあ、うまかったよ・・・」 そう言って中村は笑った。

中村は本当に世話になった。飲み代も久保田のキープ入れたら大変だったはず。ラッキーの一言でチャラにするような先生の塾に入ったアンタが悪い? あげく泥酔の俺を抱えて小瀬古のベッドまで運んだり、夜半には小瀬古が飲み過ぎで吐いたのを看病したり・・・。極めつけは今日の野球の試合。先発ではないものの、リリーフで登板予定とか。これでシャッタウトしようものなら化け物やな。

急に思い立ち、五箇山の合掌造りを見学。白川郷に比べると観光地としての完成度には欠けてはいるが、それはそれで趣がある。五平もちをほおばりながらの散策、楽しい時間を過ごした。午後4時30分に荘川インターに入るものの、さすがに日曜日の夕方、家族連れの車のラッシュに巻き込まれる。塾にたどり着いたのが午後8時、さっそく中3の英語が始まる。今日は長文が安易な大分県。英語基本文の試験をするはずの高2の出席者、小林と松原と中野の3人だけ・・・。今の状況で神戸大・大阪大・横浜国大などの志望大学は到底不可能。仕方ない、一軍とファームに分けようか。とりあえずは松原と中野が一軍・・・。

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