2003年4月第3週 4月15日 「俺、名古屋に行って来るから後を頼むぞ!」と斉藤に言い捨て塾を後にした。いつしか塾に残る大学生はこ奴一人、孤軍奮闘の体でパソコンでリクナビ相手にネットサーフしている。思えばこ奴、高校入試合格発表の目撃者の一人に名前を連ねている。つまりはあれからほぼひと月、怠惰の権化だったのはずが、お情けで進級できたのをこれ幸いにと、ウチの塾をベースキャンプに就職活動に勤しんできたってわけだ。 東名阪が6kmの渋滞、俺は最近つながった伊勢湾岸自動車道へとシフト。名古屋中央インターで降りて北上する。名古屋港を右に見るあたりで後ろから「昔はこの辺り,一面の焼け野原やったのになあ」とつぶやくのはオフクロ。それまでの気が滅入るネタから解放されて俺はやっと運転に集中できる。それまではずっと叔母、すなわちオククロにとっては一番下の妹のこれからの話が続いていたのだ。これからの話、具体的には葬式の時期、場所、いい写真はないか・・・。この手の類の話は死が日常茶飯事になっている豪放磊落な70代にとっては平気なんだろうが、年に一度の定期検診すら何がしかの理由でエスケープするのを常としている40代の俺にとっては刺激がありすぎた。 叔母の様態がここ数日が峠になると連絡が入ったのは昨日のこと。子宮癌で名古屋大学病院に入院した去年から、延々と続いてきた過酷な抗癌剤治療。生命保健会社で支店長代理まで務めただけあり、強靭な体力、さらには癌の克服へ前向きだったことが裏目に出たという。 国内で使用されている抗癌剤のなか、最も威力のあるはずの抗癌剤が叔母の治療に使われた。しかし叔母の身体を覆い尽くす癌細胞はそれ以上にタフだった。同時に傷つくおばの身体。抗癌剤の威力は叔母の脳の血管に発揮された。脳梗塞で叔母が自宅で倒れたのは3日前。その日から予断を許さぬ状況が続くことになる。 俺にすれば半年ぶりの再会、しかしそこにいた叔母はかつてミス竹中工務店ともてはやされた面影はなかった。病室に入った俺とオフクロ、それに奥さんに視線を這わせた叔母の唇が少し震えた。何か言いかけたようだった。しかし言葉はなかった。脳梗塞が引き起こした痙攣のため、しゃべることはできないと聞かされている。つまり俺たちはベッドに横たわるだけの、意識も覚醒していない叔母を看取ることを覚悟してやってきたのだ。しかし叔母の表情には意志が宿っていた。その刹那、突如オフクロが病室を揺るがすような嗚咽を発しイスに身体をあずけた。それに反応するかのように、叔母の表情がゆがんだ。布を引き裂くような声を出しながら涙がベッドのシーツを濡らした。「泣いた!」「初めて母さんが泣いた!」 ベッドの周りの3人の息子たちの声がした。俺は叔母の手を握った。枯れ木のような手だった。 叔母とオフクロの実家は名古屋郊外の新川の堤防沿いの長屋だった。空襲でそれまで住んでいた錦から移り住み、終戦後はそのままそこに住み続けた。昔のことだから兄弟は多かった。なにしろオフクロと叔母は20歳から離れていた。俺が小学校にあがったころは叔母はまだ高校生。器量が良いだけでなく、成績も良くクラス役員を務めていた。そして竹中工務店に就職。会社の近くまで遊びに行った俺に、納屋橋あたりで抹茶のソフトクリームを奢ってくれたのを覚えている。あの頃には、俺は叔母をお嫁さんにしようと決めていた。しかし俺の淡い恋心は、わざわざ波瀬の田舎にまでめっぽう背の高い男の人を伴って叔母がやって来たことで気泡に帰した。叔母の結婚式での記念写真には、この上なくふてくされた表情の俺が写っている。 叔母の新婚生活は安城で始まった。男の子が生まれた。名前は俺から取ったと後から聞かされた。字は違うが読みは同じ・・・コウジ。そして二人目が生まれた。夏になると叔母は子供を連れて久居にやってきた。そして俺たちは海へ行った。場所は決まって御殿場、海の家もいつも同じだった。叔母の子供たちはオフクロのことを”海のおばさん”と呼んだ。俺にはどう呼んでいたのか忘れた。優しく接した記憶はない。まだ失恋の痛手から回復していなかったのだろう。 岡崎に新居を構えたのも束の間、旦那の転勤で広島に住むことになった。俺は社会人になっていた。出張で広島に行くことがあるといつもやっかいになった。「今でも自分が何をしたいんか分からんねん」 子供が寝静まった後で酒を飲みながら俺はグチッた。その頃の俺は何を考えることもなく仕事に明け暮れていた。将来の展望なんて無縁だった。やりたいこともなかった。しかし現状に満足していない自分が確かにいた。そんな俺にとって、叔母はこの世で唯一俺のグチを聞いてくれる人だった。叔母は微笑みながらいつも言ってくれた。「ゆっくり考えればいいじゃないの。人生って長いから」 仕事に倦むと俺は広島出張をでっち上げた。呉の片岡自動車の片岡社長と広島の叔母に会うのがあの頃の俺の唯一の慰安だったと思う。 叔母の息子たちから聞いた話では峠は越えたとのこと。しかし、それでも後10日だった。別れ際に俺は叔母の手をきつくきつく握った。「元気になって、また津の海へ行こう!御殿場へ行こう!」 叔母の頬を涙が伝った。その日、二度目の人間らしい感情の発露だった。 塾にもどると斉藤が小学生相手に何かを教えていた。その小学生にすれば厄日としか言いようがなかった。 4月16日 斉藤(北大経済)が北海道へ帰っていった。しかし20日あたりに再び戻ってくるという。とりあえず就職戦線の前半戦は終了した。赤福から始まり、中部電力、百五銀行から三重銀行、第三相互、三重交通など、地場産業を軒並み、言いかえれば節操なく受けまくった全面戦争ごっこは終わった。こヤツは特技の欄に以下のように書いた・・・山の中や川の中を素早く移動できる。 森下(立命館国際関係)も東京や大阪で精力的に活動している。今週末もまた帰って来ないかもしれない。 奥さんが言った。「れいがね、岡崎のおばさん(叔母のこと)に何かあったの?って聞くのよ」「なんで分かったんかな」「多分、最近おばあちゃんから頻繁に電話がかかってくるから・・・」「ふ〜ん、察しがいいな。こりゃあ、マージャン教えるのが楽しみだ」「・・・叔母さんのこと、教えたほうがいいかしら」「分からねえな、まあそのうちにな・・・」 深夜3時、高3の怜美の英文試験が終了。怜美は伊勢女子という進学校ではない高校から大学を目指す。一度は無理だと突き放した俺だったが、4月よりこのかた毎晩午前3時近くまでなれない英文と格闘している。熱意にほだされてきている自分を感じている。月曜日にはあすか(星城大学作業療法)と顔合わせ。あすかが数学と場合によっては生物を担当する。怜美が自転車で帰って行く後姿を眺めてから、地理の参考書と夢枕獏の「安倍晴明伝」を手に取った。時刻は3時30分。俺はエスティマに乗り込んだ。どちらにしても叔母の残された日は限られている。時間が許す限りそばにいてやりたい。昔話をしていたい。あの頃に言えなかった感謝の気持ちを伝えたい。国道23号を北上した。いつものようにトラックとのランデブーだ。 4月17日 名古屋中央病院の近くのガストに車を止めたのが午前5時。地理の参考書を手に奥まった席に座る。窓際には眠りこけているカップルが3組、夜通し酒でも飲んでここに辿りついたんだろう。 今年から高橋君(三重大学医学部)がいなくなる。地理の講師がいなくなる。デンちゃんに頼むことも考えたが、相手はイカのようなウナギのような直嗣と菊山。間の合った俺が担当すべきだろう。久しぶりに目にする地名に自分の記憶力のなさを嘆きながら朝を迎える。モーニングを頼む客があたりをおおい尽くしていく。ざわめきの中で勘定を済ましエスティマに戻る。この車にはどこででも寝れるようにシュラフが積み込んである。シュラフの中にもぐり込んで仮眠を取る。 午前9時、病室のドアを開けると朝食の時間だった。俺は外の廊下に腰を下ろして地理の復習をし始めた。エルティニエンテ・・・あったよな、こんな地名、クソッ! しばらくするとドアが開いて「親戚の方ですか?」と看護士さん。食事が終わったようだ。「甥です」 「なかなか食が進まなくって・・・食べるように薦めてあげてくださいね」 納屋橋近くで食べた抹茶のアイスクリームがこの世のものとも思えぬ味であったこと。叔母に連れられて風呂に行った後で食べたクシカツのおいしかったこと。しかし反応はなかった。折に触れて示す笑顔だけが昔のままだった。何日も風呂に入らずただひたすらに自転車をこぐだけの自転車旅行の帰途に寄った安城の住宅の話にも関心はなかったようだ。ネタを最近の話に変えてみた。塾の生活が楽しいこと、いつか自分の好きな職業にめぐり合えると言ってくれた叔母の言葉が正しかったこと、しかし塾にいついてしまい滅多に家に帰らないこと・・・ふと表情が緩んだ。俺は続けた。「だからさ、俺って奥さんから怒られてばっかいるんや、まいるよ」 叔母が声を立てて笑った。笑った! 俺は勢い込んで今までの失敗談を次から次へと取り出した。酔っ払って2階から落ちて入院、霧の中をさまよっているような日々からタバコを吸い始めて突如覚醒したこと・・・再び叔母の表情が緩んだ。「そんな俺にさ、奥さんは言うわけよ。私は身重な身体で双子の娘たちの手を引いて毎日松阪中央病院に通ったのに、そんな私の健気な努力は220円のキャスターなんかに負けてしまったのねってさ」 叔母の嬌声が病室に響いた。 叔母が突然ベッドから身体を起こしてベッドから抜け出た。いたずらっぽい目つき、よく叔母がした目つきだった。しかし点滴の管がベッドの手すりにからまっている。どうやら歩きたいようだ。からまっている管に視線を落としている叔母に代わって俺がはずしてやる。ほっとした表情で点滴台をつかんでドアを開ける。俺は叔母の腕を取って外へ誘う。ナースステーションの前で看護士さんが慌てている。「まだ歩いちゃだめですよ」 看護士さんに連れられて病室へ、そしてベッドの中へ。看護士さんがいなくなると叔母は再び行動開始。同じ手順で俺に管をはずせとアイコンタクト。なぜか浮き浮きしている。「あかんで、看護士さん言うてたやん、まだ歩いたらアカンって」 しかし依然変わらぬ視線で立っている。そこへ看護士さんが入ってくる。いたずらをとがめられたような幼い目。「そんなに散歩したいんだ? だったらイスに座ってならかまわないわよ」 俺は叔母のイスを押して4階のフロアを散歩した。今から10年前、2階から落ちて入院していた俺を、岡崎からかけつけてくれた叔母が今の俺のようにイスを押して歩いてくれた。あの時とまったく逆だった。食堂へ行くと窓から外がよく見えた。目の前に広がる鶴舞公園の新緑が目にまぶしかった。俺と叔母は同じ風景を見ていた。 脳梗塞の治療と癌治療とはほぼ180度対極にあるらしい。ゆえに脳梗塞治療を始めると癌治療はできない。逆に癌治療を優先すれば脳梗塞のリハビリができない。果たしてどちらの治療を選択するのか・・・、しかし俺にとってはどちらでも同じ。これからの一瞬一瞬を大切にしたい、それだけだった。 今年の中3は帰りが早い。授業が終わると残るのは数人、そんななかに娘のれいがいた。「お父さん、岡崎の叔母さんの見舞いにいっていい」「ああ、しかしオマエが知っている叔母さんじゃねえぞ」「・・・」「それでもいいなら構わない。人間いつかは死ぬ。俺にしても身近で誰かが死んでいくという経験はない」 祖父、すなわちオクフロと叔母の父親が亡なくなったのは大学1年の冬のことだった。俺は旅の途中だった。北海道から日本海の荒波を横目で見ながらのヒッチハイク。やっと辿りついた大阪の下宿、壊れそうなドアに貼ってあった一枚の紙・・・「ソフキトク。スグカエレ」 名古屋にかけつけた時は全てが終わっていた。かつてツェッペリンの「天国の扉」を俺に聞かされ「演歌みたいやな」と言って笑った祖父はそこにはいなかった。ただ、かつて人間だった物体があるだけだった。荼毘にふされる煙を見上げながら俺は泣いた。そばに叔母がいた。「大学に行ってないみたいやね」「ああ、1単位も取ってない」「これからどうするの」「とりあえず旅に戻るよ」 その時、叔母はいたずらっぽい目つきで言った。「お父さんが言ってたよ、今までいろんな子供を教えてきたけど自分の子供が一番理解できないって・・・。でも、今は好きなようにやったらいいじゃない。人生は長いわよ。そのうち自分が何がしたいか見つかるわ」 「最近では人間は病院で死ぬ。隔離された空間で、臨終の際になってやっと賑やかになる。子供たちはそんな場所からも締め出されて、人間は自分達の知らない所で死ぬ。つまり人間が死んでいくプロセスを知らずに結果だけを見せられる。人間はもっともっと周りの人々に自己主張しながら死んでいくべきだと思う。徐々に弱っていく。苦しんでいく。そんな光景を眺めながら”死”という出来事を、継続の産物だと理解してほしい。オマさんたちが叔母さんの見舞いに行きたいというなら行ってもいい。ただし、かなりヘビーな経験になると思う。ディズニーランドに行くノリじゃ、到底連れてかねえよ。見舞いにいく流れのなかで点と点を結んでいく。徐々に弱っていく叔母さんを、目をそむけずに見れるんなら行っていいよ。人間にとって”死”とは何か。一瞬の行為ではなくて連綿と続く行為なんや。それが分かってくれればいい。それは叔母さんだけじゃなく俺が癌になったとしても同じや。俺は入院はせんよ。塾に居座って生徒たちに人間が弱る、人間が死んでいくという行為を見せつけてやるよ。それが俺の最も大切な授業となる」 4月18日 森下が2週間のブランクの後に塾に復帰。「どないや、就職戦線?」「三菱商事はいいとこまで行ったけどね、たぶんアカンかったな」「そりゃ残念」「でもさ、最終の一歩手前やったけど、俺以外はほとんどが京都大学、あとはポツポツと大阪大学に神戸大学・・・」「なるほどね。俺もな、昔に電通受けた時にさ、他はみんな京都大学やったよ」「それで受かった?」「バカ野郎!受かってたら、こんなとこで塾やってねえよ」 森下と飲んでいると久しぶりの甚ちゃん、教室長として初の来訪。甚ちゃんは開明学院に入社4年目にして橋南校を任されることになった。 花衣の三重県立看護大学の発表を見ていた俺に、携帯が鳴った。永橋学長からだ。学長が俺の携帯にまでかけてくるなんてよっぽどのこと、緊張が走る。「中山先生、実はね、甚野君を教室長に抜擢しようと考えてるんだけど、どうだろ」「教室長ですか! そりゃスゴイ。でも、ちょっと早くないっすか?」「年は若いけどね、僕はやれると思ってる」「まあ会社ですから社長が決めたんなら・・・」「しかし本人はまだ早いと断りそうなんだ」「そりゃそうでしょうね。前に会った時もまだまだ勉強したいって言ってましたから」「で、相談なんさ」 来た! 「もし甚野君が断固断わるようなら中山先生から説得してくれよ」「・・・はあ」 甚ちゃんに言わせれば、永橋学長はずるいとなる。「だって社長室に入ったら、さっそく手を握って頑張ってくれたまえ!ですよ。あの奇襲攻撃はずるい」 俺の敬愛する開明学院の飯田先生が言ったそうな。「いいかい甚ちゃん。たとえば、ここに100名の生徒がいたとする。そこで甚ちゃんが授業をする。でも同時に中山先生も授業をする。そこでだ、甚ちゃんは中山先生より自分の方に生徒が多く集まると思うかい?」「そりゃ・・・思えません」「バカ野郎! いいかい甚ちゃん、この4月から君は教室長なんだ。これで一国一城の主だ。中山先生と立場は同じ、相手が中山先生でも絶対に勝つ!と思わなくっちゃダメなんだ!」 飯田先生、それは甚ちゃん流の老人を労わる姿勢ですよ。心配しなくても甚ちゃんは俺に勝つ気で来ますよ、絶対に。そうでなくっちゃ面白くない。何はともあれ、これで立場としては俺といっしょになったわけだ。俺が甚ちゃんにできること、・・・いつまでも高い壁として存在してやるってこと。ここは一発、BGMは長州力のパワーホールやな! 「ごぶさたしてます」と言いつつ甚ちゃんはイスに座った。「ホンマや、寂しかったわ。で、どないでっか、新教室長のイスの座り具合は?」「ハハハ、ちゃかさないでくださいよ。とにかく午前2時頃まで翌日の準備してますよ」「ちったあ俺の大変なとこ、分かってくれた?」「もう十分に!」 久しぶりに賑やかな週末が始まった。 |