れいめい塾
Gazing At ”Promised Land”
2003年度5月和歌山行
今年大学へ進学した連中のなかで、一番心配、いや一番心残りだったのは橋本だった。
橋本は高校入試で津西に落ちて高田U類に進んだ。同じ流れのなか津高に落ちてやはり高田U類に進学したのが卓。ともに理系タイプということもあり、休みの数学の宿題は高田の宿題に加えて津・津西の宿題もさせた。数学だけは津や津西の連中に負けない・・・そんな自負を持ってほしかった。
ただでさえ、高校入試に失敗しただけで全てに自信を失ってしまう生徒をイヤと言うほど見てきた。この橋本と卓の二人、こと数学にかけては研ぎ澄まされた数学になる可能性があった。そして俺の目論み通りの仕上がりを見せ入試を迎えることになる。
しかし今春の大学入試、卓と橋本ともに国語でこけた。それも尋常なこけかたではなく、国語の得点で国公立が吹っ飛ぶ。
苦渋の選択・・・橋本は獣医学部から三重大生物資源へ。卓もやはり三重大にシフトするものの、合否にかかわらず後期の名古屋大学で勝負を賭けることになった。
そして二人とも、三重大の二次試験ではほとんど満点に近い点数を取らない限り合格の目はなかった。
そして橋本が落ち、卓は受かった。
中間試験の前哨線、南郊中の試験が23日に終了する。次の久居中と久居東中までには1週間。和歌山へ行くにはここを置いて他にはなかった。22日の深夜に出発、朝には和歌山に入り夜に大輔と橋本とメシを食う。どちらかの下宿で泊まり翌朝、つまり24日の土曜の朝に和歌山を出発して三重に戻る。週に2回しか来れない千尋(松阪高校1年)が気になっていた。
和歌山行きの目的は橋本。橋本の様子を見たかった。突き詰めれば浪人するかどうか、それだけが確認したかったのだ。
午前3時、新しい塾を出発。一路165号線を西へ西へと向かう。別段急ぐ旅でもない。しかし久しぶりの大学生を尋ねる旅。気が逸ったのか、愛を送る時は20分かかる行程を10分少々でクリア。おんぼろエスティマ、唸り声をあげて青山峠を登って行く。頂上から一挙に駆け下りて名張市街を疾走する時刻、午前3時30分。
橋本の私立大学受験は近畿大学のみ。それも近畿大学最難関と言われる遺伝子工学。これを難なく仕留める。試験を受けた後の感想、「数学、あんな簡単なんでほんとにいいんかな」との生意気なコメント。
桜井から樫原市内へ入る。昼なら進行右手に耳成山が見えるはず。そして醍醐の交差点を南下して大和高田バイパスへと入る。
北海道へ行きたいと橋本は常々語っていたそうな。北海道、帯広畜産大学獣医は理科1教科の珍しい大学。橋本はこの大学一本に賭け、高3の1学期に化学を切った。理系の場合、理科は物理と化学が定番となるが、高3となり否応なく幾多の教科と取り組む現実の厳しさから理科を1教科に絞りたいという輩は多い。俺は「夏休みまで粘れ!」と言ってこの類の話し合いを終わりにする。しかし帯広畜産一本に絞った橋本には化学を切って物理一本にすることを許した。俺もまた橋本の獣医に賭けていた。
大和高田バイパスと直交、南北へと走る幹線道の24号線へと入る。あとはこの道をひたすら走れば和歌山へと続く。ブルーボードに「和歌山まで102km」とある。橋本と大輔の住む和歌山市郊外の那賀群は和歌山の20kmくらい手前、となるとここから約80kmってとこか。で、今までで80kmほど走ってきているから半分は来たことになる。
獣医では数年前に佐藤(伊勢高から関西薬科大学)が2年続けて一敗地にまみれていた。決して器用ではない橋本、身体を軽くしたかった。他の国公立大学を念頭に置かない理科1教科、もしセンターボーダー85%を取れない場合あとがなかった。卓同様に現役には珍しく二次試験向きの橋本、課題は英語と国語。センター得点が趨勢を決することになった。
御所市からじょじょに紀伊山地へと踏み込んでいく。それにつれてエスティマが咆哮する。アップダウンを繰り返しながら標高を上げていく。そして和歌山県に入る。
センター試験の大敗で橋本の受験から華が消えた。確かに近畿大学の遺伝子ともなれば偏差値は60に迫り、関関同立の工学部と肩をならべる学部ではあった。しかし・・・どう考えても惜しい。惜しいとか言えなかった。俺は三重大学受験のあとの展開を想定した。とりあえず生物資源に合格しておいて自宅から通う。学費は年間50万円、確かに安いとはいえないが近畿大学の学費に比べれば3分の1。そしてウチの塾で数学と物理を教える。シャイな橋本が唯一軽口を叩いて教えることができる生徒、菊山(津高3年)を担当。津高でヒトケタ周辺にいる菊山を教えることはヘビー。しかし橋本の知識が散る心配はない。そして来年、もう一度帯広畜産で勝負をかけてみたかった。
橋本市に入った。何も考えず、いやこんな風に落ちた生徒のことが考えてはいるが、一人で車を走らせることを俺の最後の楽しみ。24号線のイルミネーション、それほどに町並みの全貌を映し出すわけではないが、それでも楽しい。ふと・・・隅田八幡宮・・・おんぼろエスティマは急ブレーキで橋本市街に停車する。日本史の知識をまさぐり出す。最近ではデンちゃんにおんぶにだっこで瞬時に解析はできないようだ。隅田八幡の人物画像鏡・・・稲荷山古墳出土鉄剣銘や江田船山古墳出土鉄刀銘と並び、漢字の音を利用した日本語表記の最も古い例だっけ。俺のエスティマは漆黒の闇のなかを隅田八幡へと続く道をゆっくりゆっくり進んでいく。
昔の浪人と違い、今は大学に在籍しながら受けることができる。問題はコンパなどの大学生特有の楽しみに浸ると受験生としての自己を忘れてしまい、気づいたら単位は取れないままに2年に進級というパターン。しかし橋本のシャイな性格、ウチのカラオケ大会ですら理由をつけて欠席しようとする性格なら、来年の受験を睨みながら1年間を過ごせるんじゃないかと思っていた。しかし俺の目論みも三重大学に落ちたことで潰えた。
エスティマが再び24号を走り出した時刻、午前5時過ぎ。日本史の教科書に掲載されている人物画像鏡、隅田八幡にあるのはレプリカで、モンマもんは東京の美術館にあると手探りの徘徊で分かった。24号線は紀ノ川に沿いながら和歌山平野へと続く。道の両側に山が迫っている・・・あれっ? 山の端が紫だちたる・・・とにかくそんなフレーズが口をついて出そうな光景。もうしばらくすると一日が始まる。そして九度山・・・えっ!おいおいおい! 九度山・・・真田昌幸と幸村が謹慎蟄居した場所だろ? 再び急ブレーキ。おんぼろエスティマ、今日は厄日のようだ。再び24号線からはずれて紀ノ川に架かる橋を渡る。
三重大学に落ちたことで橋本の居場所は近畿大学に落ちついた。春休み、俺は橋本に菊山に数学を教えてほしいと頼んだ。いつものように「ええっ・・・」と言いつつ、数日後には新しい塾の1階で菊山と橋本の姿が見られた。バイト料は時給1000円、春休みに1週間ほどでもすれば2、3万程度にはなる。4月からの新しい生活、なにがしかの足しにはなるはず。
九度山には真田父子が謹慎蟄居していた真田庵というのがあった。隅田八幡と同様、開いているはずもなく周囲をぶらぶらするだけの話。しかしこれがまた楽しい。そして車を止めた田舎道に戻る頃には、いつしか一日が始まっている。その田舎道をご老体、俺の横を走り抜けていく。昔の武士ならば朝駆け、そして今は・・・現代人最後の宗教「健康」ってね。
4月に入ったと思いしな、いつの間にか橋本の姿は消えていた。聞けば和歌山での暮らしが始まっているという。バイト料を受け取らずに、請求すらせずにだ。挨拶すらなかった。無性に頭に来た。「いつだってアイツはそうだ」と俺は吐き捨てた。謙虚とは言えない、菊山に教えてくれと頼んだのは俺、それを橋本語では肯定を表す「ええっ」で菊山を教え始めたのは橋本。当然バイト料を受け取るのは当然の義務だ。しかし例え俺がバイト料を渡すと言っても「いや、僕はたいそうなことしてへんから・・・」なんぞと言い逃れ、結局はうやむやにしちまうのがオチだった。あの性格を直さなくっちゃ!と思いつつエスティマに戻りエンジンをかけた。24号線には戻らず、紀ノ川の堤防沿いにエスティマを走らせた。ここ数年で一番気持ちのいい朝が、そこには流れていた。しかし考えることといえば、熊のプーサンみたいな橋本のことばかりだった。
粉河寺の参拝をすませ、大輔と橋本が暮らす界隈をエスティマで走りまわった。土地勘を磨いておきたかった。めぼしい飲み屋をチェックした。そろそろ通勤の車が道を占領し始めたようだ。喫茶店に入ってモーニングを頼み、持ってきた文庫本「火怒」を読み始めた。奈良時代から平安時代にかけて朝廷と争った蝦夷の長・アテルイの話。この小説を山本愛(津高1年)に読ませようと思った。近畿大学の近くにある根来寺の駐車場にエスティマを止めシュラフを敷いて身体を横たえた。
近畿大学は冗談ではなく山の頂上にあった。同志社大学のように頂上が大学でその周りを女子大や付属の国際高校が取り巻いている均衡の良さはなかった。大学の敷地は広く、整地はされているものの何に使われているわけでもなく、退屈な丘陵の頂上に大学の棟が5棟建っていた。駐車場には泉南のプレートの車ばかり。警備棟などなく俺は構内に入った。一応、事務局に顔を出し面接の確認を求めた。「えらい山の上にあるんですね」と言うと、上品そうな女性事務員が微笑んだ。「でも山を背景に同志社と匹敵する上品な佇まい」「恐縮に存じます」 事務員の案内で橋本との待ち合わせ場所、食堂はすぐに見つかった。食券の自販機の前で待っていると橋本がやって来た。「何にする?」「うどん」「バカ野郎、俺がせっかく来たんだからオマエの食べたいものを頼めよ」 俺は千円札を手渡した。「食べたいもの・・・じゃあ、カレーうどん」「バカ野郎! そこがオマエの最大の欠点なんや!」 自販機に並んでいた何人かが俺達を振り向いた。
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