2000年|25時|れいめい塾
れいめい塾発 「25時」 2000年4月18日
15日の土曜日、村田君(三重大学医学部)が姿を見せた。そして「先生、約束のものです」と渡してくれたのがタイのバンコクの地図2組。
村田君が深刻な顔をして「先生、どんなバイトでもいいですから仕事をさせてもらえませんか」と頼んできたのは高校入試も終わり一段落ついた頃。新高1の春期講習に入った頃だった。聞けば友人と旅行に行く計画を立てたものの先立つものがない。窮余の果ての直訴となったわけだ。今年は広告をカラーにしたこともあり塾としてもきつい春休みを迎えていたわけだが、村田君の深刻そうな表情に負けてしまつた。ただ、彼が言った「時給千円でもけっこうですから」という発言の重さ、これは吐いた本人にもその重みを感じてほしいことから春休みの新高1の授業を普段の時給三千円を割り引いて二千五百円でしてもらうことにした。3月いっぱいで2次関数と数列までを終え、4月4日にバイト料を渡した。定番の物理の授業は通常の三千円、新高1の数学は二千五百円で複雑な計算となつたが、村田君これでなんとか友人とタイへ旅立つことになつた。
高1の教室の壁には無数に外国の地図が貼ってある。すべて塾生から土産をねだる形でせしめた数々。酒なんて売るほどある。タバコは国産であろうと外国産であろうと受け付けない。チョコレートなんて甘すぎて糖尿病に悪い? とにかく地図を買ってきてよ!とねだる43歳。ナイル流域の地図は西村が買ってきてくれたもの。東南アジアは邦博。
海外旅行ネタでクイズを1問。奥田邦博(立命館大学文学部哲学科今春卒業)は、学生時代その当時つきあっていた彼女とある都市でクリスマスを迎えたという。その都市はどこか?
邦博が大学3年生の冬だったと記憶している。どこから見つけてきたのか、交通量調査のバイトを京都から遙か九州まで徹夜で行って徹夜で帰るという強行軍でこなしていた。何をするのやら?と思っていたら彼女と行く旅行費用を貯めてるんやと、健気な発言。蔵王か富良野あたりでスキーかなと考えていた俺、そんな俺にその年の暮れに姿を見せた邦博はチョコレートをくれた。「先生、おみやげ」 そのチョコレートをひと目見るなり俺は年甲斐もなく叫んだ。「人生舐めやがって!この野郎」 チョコレートはパリの土産だった。こ奴、クリスマスの一週間前に彼女と二人で゜パリに入り準備万端でその日を迎えたという。このクイズ、邦博の派手で女に貢ぐ性格を先刻承知の先輩連中はグァムあたりまでは予想していたものの、まさかのヨーロッパ。それもあまりにも絵になりすぎるパリのクリスマス! 青木の健ボー(れいめい塾初代講師、現在アイホン勤務)なんぞ「パリ!?」と叫ぶや、すかさず邦博の頭をはたきながら大音響で罵った。「誰様やと思とるねん。こいつ、人生なめとる!」
塾を始めた当初、閑散とした塾のなか、勉強の手を止めては2期生の西村和浩たちによく旅の話をした。俺が高校生だった頃の話だ。暇があれば自転車に乗り全国をまわっていた。風景明媚なんぞ無縁なツアーだった。ただひたすらにペダルをこいだ。そしてただひたすら考えていた、この道を行くとどこに着くんだろうかと。いつも地図を持たずに家を出た。大学生になっても状況は変わらず、暇と金さえあれば夜行バスに飛び乗っては次の朝を目指した。目的地なんてどこでもよかった。しかしそんな自由を渇望する俺の旅も所詮は国内止まり。海の向こう側に目を見据えることなんて頭から抜け落ちていた。西村は名城大学在学中、休学することなく数回に渡りヨーロッパを旅行し、海外を旅する魅力にはまったようだ。そして就職が決まった頃にエジプトに旅立っていった。こ奴なりにアレンジした海外旅行での話、それを目を輝かせて耳を傾けていたのが邦博だった。そして邦博は大学在学中、のべ2年間わ海外で暮らした。今年の正月もクロアチアで迎えた。就職前に挨拶がてら顔を出した邦博は塾のパソコンをいじくり、ヨーロッパのあるホームページを画像に映しだした。そのホームページのフロントページには10人くらいで撮った記念写真らしきスナップがあった。一人の人物を指し示して言った。「先生、これ僕や」 パリのクリスマスをともに過ごした彼女はいつしか旅の途中で、別の小道へと歩みの向きを変えた。そして邦博の弟、章貴(東北大学から今春、中部電力に就職)もまた、兄貴に誘われるように海外の埃を身にまとう生活を送ることになる。章貴はヨーロッパを中心にアフリカまで足を伸ばした。そしてスペインなどでボランティア活動にいそしんだ。こ奴もいつしか留年が決まっていた。
タイの地図をどこに貼ろうかと思案しながら俺が村田君にたずねた。「タイはどうやった。ここ最近はバンコクが東洋のニューヨークだって言われてるらしいけど」 「ええ、これがもうめちゃくちゃ! たまたま僕たちが行った時っていうのがタイのお正月だったんですよ。だから国中がどこもかしこもウチの塾のケーキ投げ大会みたいなんです! いたる所で何かを投げまくり、ドロ水をかけあってる!」 「でどうだった。楽しかった?」 「ええ、すごく楽しかったです」 「そりゃよかった」 タイのケーキ投げ大会、是非一度見てみたい。
和司ちゃんに「あとどこの会社が残っとるねん」と水を向けると「中部電力が来週の火曜日(18日)に試験です」 「中電か。章貴が入社したてやけどな」 しかし章貴と和司ちゃんの間には直接には付き合いはなく、塾の6期生と8期生。2歳離れた塾の先輩後輩というだけの関係だった。「でも聞かないよりもましか」 俺はさっそく章貴の実家へ電話。邦博がいないのは分かっていた。2年の海外暮らしが応えたのか?邦博と弟の章貴は同時に社会に巣立つ皮肉を兄弟に与えた。邦博の就職先は日立建設機械、今頃は東京で新入社員研修に入っているはず。それに対し章貴は中部電力ゆえに
名古屋あたりにいるんじゃねえか。うまくいけば週末に実家に帰ってくるんじゃないか。たとえ会えないまでも携帯で情報くらいは仕入れられるってね。ラッキー!お母さんに聞くと<明日の夜には帰ってくるとのこと。とりあえずは一安心、俺はお母さんに言う。「でも今年はめでたいですね。2人の息子さんたちが同時に社会に巣立つことになって」 「先生、ほんとに心の底からホッとしましたわ。邦博が1浪して大学に入ったら海外にのべ2年。章貴は現役で合格してホッとしたのもつかの間、ボランティアやなんとか言うて、これまた海外で1年。子供は二人でも、あの二人で普通の大学生なら5人分くらいお金を使わされましたわ!」
翌日、奥さんがPTA総会に出席した後におち会い、章貴と和司ちゃんで「こんな村」で飲むことになった。章貴の中部電力への就職はいいかげんなものだった。ゼミの教授が電力では権威があるという背景もあったのだろうが、仙台まで出向いたリクルーターを議論でやりこめ名古屋へ帰らしたという。少なくとも電力に関しては勉強していんだろう。それに海外で培ったディベイト能力(昔から鼻っ柱だけは強かったとの噂あり)が加わり、リクルーターを蹴散らしたんだろう。結局、この段階で内定が出たという。そして「形だけ試験を受けてくれ」とのことで4月下旬に名古屋に出向いたという。ちなみに今年の広告「25時」は就職する面々の作文が裏のテーマであつた。受験も就職も俺の頭のなかでは「勝負」というジャンルに収まっている。菊山善久(5期生)・前田崇(6期生)・甚野正和(6期生)・奥田邦博(4期生)・竹中泰(7期生)が最後の作文を「25時」に寄稿した。そのなかに章貴の名前はなかった。これには理由がある。こ奴は学生生活最後の海外旅行にしゃれこみ、なんとカリブ海周辺を探索していたという。
新入社員研修がようやく終わり、勤務地が岐阜に決まった章貴が横に座る和司ちゃんを眺めて言った。「中村君はどうして中部電力に入社する気になったの? いわゆる入社動機って奴やけど」 「やはり安定しているし・・・」 しばしの沈黙の後に章貴は口を開いた。「中部電力もさ、今年から民営化や。社長が訓示で言ってたけどさ、お客さんのニーズに合わせて会社の方向性も決まっていく。お客さんにサービスしていくんだという自覚がないと会社も生き残れないし、社員もまた生き残れない。中村君、今までの中部電力じゃないんだ。まあ、俺も今までの中電じゃないから就職しようと決心したんやけどな。安定しているからという理由は今のウチの社風に合わないよ」 ここに俺が割り込む。「章貴が内定出たのは試験が終わってからか?」 「いや、先生。僕はリクルーターとの面談段階で、君は内定だからって言われたよ」 「そうか」 和司ちゃんはリクルーターの面談は過ぎて来週の火曜日に試験がある。「実はさ、昨夜、母親が携帯に電話してきてさ、先生が今年、中電を受ける塾生がいるから話を聞きたいと言ってたからさ。俺、同期の連中に聞いたんさ。どんな風に決まったのか?って。ほとんど全員がリクルーター面談で内定を知らされてる。一人だけや、試験の後に内定が出たのわ。そいつはリクルーター面談で落ちたけど試験を受けてきたらしい」 静寂が支配した。「こんな村」は客層が若く騒がしい。そんななかで俺たちのテーブルだけがブラックホールに落ち込んだように静かだった。「中村君」と章貴が口を開いた。「確かに君の状況はよくない。面談で安定しているからとは言っちゃまずかった。しかしまだ分からない。火曜日の試験、がんばれ。高得点を取ったらチャンスはあるよ」
深夜1時30分、俺は和司ちゃんを送って帰途に着いた。助手席には奥さん、後部座席には章貴が乗っていた。後ろからくぐもった声が漏れた。「何がしたくて中電に入りたいんだろう」 だれも応じなかった。しばし後に声がした。「火曜日か、18日やな」 再び誰も応じなかった。
現在、その4月18日が終わり日付では19日の午前3時。今夜もまた授業そっちのけでホームページで忙殺された一日だった。そして鵜方の「IZUMI-AMERICAN-SCHOOL」の中里先生から電話。俺の知識のなさ(カタカナに変換できない)を見るに見かねてウインドーズのキーボード操作について延々と1時間以上もレクチャーを受けた。感謝してます。
そして深夜に竹中泰から電話。酔っぱらっているかどうかをまず確認。大したことはないようだ、これなら正常に話ができる。「先生、勤務地が鈴鹿になりました」 「そうか。おい、ユタカ、三重銀行にシンクタンクあったよな」 「ええ、三重銀総研ですよ」 「和司ちゃん、面接でそこを希望したらしいよ」 「2,3年くらい営業所で勤務してからなら出向できるみたいですよ。なにしろ今日の研修では、その総研の所長がスピーチしてましたから。でも三重銀総研に入る前に大和総研か日本総研に1年ほど行くみたいですけどね」 「そんなんは和司ちゃん、かまへんやろけどな。ところでどうだった、今日は飲み会だろ?」 「ええ、その所長の横に座ったんですけどね。所長から『竹中君、営業所で彼女つくったらダメだよ』なんて言われましたよ。まあ、僕も『とりあえず、自分の不良債権だけは処理しときます』とサクッと言っときました」 「おまえに不良債権なんてあったっけ? いつだってきれいな身体やん」 竹中は気持ちのいい笑い声で笑った。
深夜、俺はインターネットで大阪大学の本間研究室のホームページにリンクしてみた。そのなかには掲示板があり、もしかしたら和司ちゃんが何か書き込んでるんじゃないか?と思ったのだ。しかし名前はなかった。
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