2000年12月4日号 11月は見事なほどに土曜日が潰れた。大森を始めとする大学生に頼んだものの、土曜日授業の中2と中3には迷惑をかけたと思う。 土曜日の第1週は6年ぶりの家族旅行で潰れた。ウチの双子の娘、れいとめいが来春から中学に進学。クラブなんぞで家族で旅行するなんてことほとんど不可能。じゃあ、高校生になったら・・・その頃には家族で旅行するなんて宣言すりゃあ「ちゃんちゃらおかしくて留守番してる!」と言い張ることだろう。つまりはこれが我が家の最後の家族旅行と心浮き浮き最後のお勤め。11月1日深夜9時、東北へ向けて旅立った。 「家族旅行に行くつもりやけどどこへ行きたい?」との質問。「ディズニーランド!」あたりを予想していた俺の予想は見事に裏切られる。れいとめい、声を揃えて「乳搾り!」 この一言から第一目的地は岩手県盛岡郊外の小岩井農場と決まった。そして宿泊地はかつて奥さんと新婚旅行で旅した十和田湖の湖畔荘。問題はルート・・・別所健太(津高1年)のお父さんが日本道路公団に勤務されている。無理を言って盛岡までのルートを調べてもらった。東名高速から首都高速を経由、東北道に入るルートは確かに距離は短いものの時間がかかる。ここは日本海側から今年開通した新潟〜郡山の磐越自動車道から東北自動車道に通る道を選択。伊勢自動車道から関で1号線に。鈴鹿峠を越え八日市インターから名神、さらに北陸道を走る。以前の北陸道はトンネル内片側1車線が多くて恐くて走りにくかったが今では完全に2車線、快適に飛ばしていく。ただ、助手席で眠りこける雨女?が呼び寄せたのだろう、日本海に伸びた低気圧とその後に続く台風の影響でドシャ降りの雨のなかを時速130kmで刻むようにひた走る。途中3回ガソリンを入れて翌日午前8時前に到着。走行距離1054km、時間にして11時間弱。さすがに疲れて娘達が待望の乳搾りをしている間に俺はエスティマの座席で束の間の睡眠を貪る。ジンギスカンが何の肉かは内緒に農場内のレストランで昼食。そして十和田湖を目指して再び東北道を北上する。なんとか紅葉の季節に滑り込んだような・・・山が燃えていた。後部座席で一人起きていたれいに「見てみろ。山が燃えてる」 元来が花鳥風月を愛でるタイプじゃない俺だがこの時の紅葉の見事さには鳥肌が立った。後部座席かられいが言った。「やっぱりな、山が燃えてるんや。さっき煙があがっとったんは山火事やったんやな」 「アホ! あれは霞や」 やっぱり似てほしくないところは似てしまうようだ。 翌日、十和田から奥入瀬渓流を下り八甲田山麓を抜け青森へ。奥入瀬は折からの小雨、楓が妙に量感を持って辺り一面降り注ぐ。まるで幻影を見るかのような光景がどこまでも続いていく。粘り着くような奇妙になまめかしく、息苦しいほどの自然の息吹めいたものに圧倒されつつ車を走らせる。この光景を描き出すには水彩画では説得力がない。黄色と橙に少々の青、筆にどっしりと絵の具を含ませ一気に・・・かつてキャンバスに向かった感覚をなぞりながら、絵を習っているめいに叫ぶ。「めい!この色を脳裏に焼き付けとけよ」 返事はない。後部座席でめいは山道に酔ったのだろう、もどすのをこらえている。 三内丸山遺跡は写真で有名な大型掘建柱建物跡だけではなく、大型縦穴住居や土坑墓などが復元されており、十分に楽しめるものだった。子供達は縦穴住居に入ったり手入れの行き届いた芝生の上を走ったりしていた。昼前に高速から南下、昨日雨で思ったほど遊べなかった小岩井農場へ。そしてさらに南下し今日の宿泊地・裏磐梯のペンションへと向かう。夕食の時間が迫っている。楽しみにしていた中尊寺を断念、ひた走る。呆れるほど綺麗な星空のなか、午後7時にチェックイン。この段階で1800kmを走破。 翌日は猪苗代湖の野口英世記念館を見学して郡山カルチャーパークへ。市営ゆえに入場料は無料、乗り物も高くて300円と経済的。恐いもの好きのれいにとっては物足りなかっただろうが、めいと末娘のあいには手頃な乗り物が多い。リピーター獲得のために次から次へと絶叫マシーンを繰り出す私営のアミューズメントパークとは違い、広い年代層に楽しんでもらうために庭園や池を贅沢に配置したゆったりとした設計。学校のある土曜日ゆえ小中学生の姿はなかったが、幼児を連れた家族連れで予想外に賑わいを見せていた。そして昼過ぎから磐越自動車道に入り一路、今日の宿泊地・山代温泉郷を目指す。時速120kmで刻む車中で娘達に速度の計算問題を出す。やはり新潟は広い。2時間40分かかって走り抜ける。「時速120kmで2時間40分や。何kmあった?」 アホな娘達は父親を無視して26あるトンネルを通過ごとに数えている。そして続く富山県を40分で抜き去り石川県にと入る。宿泊地のペンションは喫茶店も兼ねている。温泉街の真っ只中にあるペンション。客は俺達だけ、土曜日の夜なのにと心配しちまう。しかし相に反して料理は豪勢なもの。ペンションの主人、気をきかしてくれたのか、俺と奥さんは和食で子供は洋食、しかしこの気遣いウチの娘達には裏目に出る。和食、特に刺身に目がない娘達によって俺の刺身は瞬く間になくなってしまう。 翌日は日曜日、車で波打ち際を走ることができる能登半島の千里浜ドライブウェーに向かう。あいにとっては初めての日本海、海の中にタイヤを滑り込ませて走る。波しぶきが車の中へ・・・歓声をあげる娘達。そして白山スーパー林道へと車を向ける。翌週には冬季閉鎖に入る。ペンションの主人が是非にと言ってくれたこともあり、当初の日本海を南下する予定を変更。今日が通行可能な最後の休日ということもあり車は数珠繋ぎで山麓を登っていく。紅葉の時期が標高差によって異なる。そしてブナの原生林が広がる。ブナといえば白神山地が有名、世界遺産にも登録されている。ともにブナの原生林として有名だが白神山地はスーパー林道の建設に徹頭徹尾反対した。そしてここ白山では白川郷へと抜けるスーパー林道を建設した。果たしてどちらが良かったのか・・・。自然破壊をネタに娘達に質問しようと後部座席を見やると熟睡中。 白川郷はこの日、消防車が総出で年恒例の水撒き式があった。翌日の新聞にはカラー写真で掲載されるほどの行事。至る所、観光客で埋め尽くされていた。当初の予定なら今頃は敦賀で絶品のおろしソバを食べていたはず。やむなくここでソバ屋に入る。しかしおろしソバはなかった。娘達は友達へのお土産を買うと、後は合掌造りを見学する気はサラサラないらしく庄川の河原に下りて遊びまわっていた。世界遺産についてのレクチャーをする気はとうに失せていた。俺と奥さんは土手に並んで腰を下ろし、視界からとぎれがちになる娘達の姿を追いかけていた。 荘川から東海北陸自動車道に乗るものの大渋滞、しびれを切らし下の国道に下りる。徐行運転で行けるとこまで行き再び高速へ、また渋滞に出くわして下へ。こんなことを繰り返し深夜9時、やっと久居にたどり着いた。ぴったし4日の家族旅行、走行距離は3000kmを越え、58,000円分走れるハイウェイカードの残は8,100円だった。 家族旅行に行くにあたり娘達の担任の先生に手紙を出した。学校を2日休ませる詫び状めいたシロモノ。担任の先生からは「後で旅行中の日記を出していただければ結構ですよ」と言われたものの、ウチの娘達のことゆえやっつけ仕事で片づけるはず。そこで娘達に命じたこと・・・旅行のレポート提出。今回訪れた場所をパンフなりインターネットで調べ、そこへ自分の感想をまとめレポートに仕上げる。つまりは総合学習を気取ったわけだ。期間は担任の先生に許可を頂いて1週間。この間、娘達は塾に毎日来て旅行についてまとめることになった。 日本の地形から始まり、十和田湖が二重カルデラ湖であることからカルデラの理解。アミューズメントパークが次々に閉鎖されている現況で小岩井農場は農業を武器になぜこうも集客力があるのか? 旅館とペンションの違いについて。スキー場の夏季利用について。高速道路の各標識の意味と距離について。三内丸山遺跡に見られる教科書とは一線を画す豊かな縄文文化。私営アミューズメントパークと官営の遊園地の違い。ブナ原生林の白山と白神山地の環境保護に対する認識の違い。標高差における植物分布の違い。白川郷の年代を経てもなお頑丈な建築様式、つまりはトライアングルの強度。奥入瀬・十和田の風景美に見られる水彩画と油絵との表現技法の違い・・・。思いつくままに挙げればこんなテーマが考えられる。 しかしアホなウチの娘たちではこれらの材料をまだまだ上手く料理できるはずもなく・・・。大森が縄文文化についてわざわざ講義をしてくれたものの「大陸から日本にやって来たマンモス象は前足と後ろ足のどちらが長いの?」というタワケた質問をぶつけたという。塾に姿を見せた甚ちゃんが「もう少し自分達の感想を書こうよ」と感想を述べてくれた。甚ちゃんだけじゃなく、いろんな人の意見や感想を聞きながらそこそこの出来に仕上がったようだ。俺が最もポイントに置いたのが、なんらかのテーマを与えられて1週間という期限を区切りその間を完成に向けて計画通り日々を過ごせるかということ。特にウチの娘達は飽き性、何かを毎日着実にやり続けるという習慣がなかった。一日のやっつけ仕事なら勢いでこなすだろうが、1週間というスパンを着実にこなしていけるかどうか。出来たもののデキより継続できるかどうかに俺の関心はあった。 第二土曜日は今年29歳になる生徒の結婚式が鳥羽シーサイドホテルであった。直接の生徒ではなく間接的な生徒。塾を始めた頃、暇をもてあましていた俺は鳥羽の塾で理科を教えていた。鳥羽の先生は俺の大学の先輩、「25時」にはしつこく書いているが、「あんな人に塾ができるのなら俺にもできるんじゃないか」との軽いノリから始めたのが今の塾。つまりは俺に塾をするキッカケをつくってくれた人。その中村先生(以後オッサン)は理科の1分野が苦手とかで俺をパシリよろしく頻繁に呼びつけた。そんな中にいた生徒・小崎ノリヒコ。三重高Bから中京大学へ進学、就職はオッサンの知り合い、清水さんの取り計らいもあり鳥羽の商工会議所へ。たまに会うこともあるにはあったが、まさか結婚式に呼ばれることになるとは・・・。しかしオッサンや清水さん、さらに一志の西田美容室の長男やデザイナーとして東京で暮らす前川など、一時期ウチの塾で過ごした面々もわざわざやって来た。オッサンによるいつ終わるか分からないギターの弾き語りなどあり、予想外に楽しい結婚式となった。その後はオッサンと清水さんと3人で寿司屋で二次会。さらに酔っぱらい運転で鵜方まで足を伸ばし、中里先生(ファイティング志摩)や櫻井先生という塾の先生達と忘年会。結婚式が始まった正午から深夜3時までノンストップで飲み続け、翌日はボロボロ。4時間かかって久居にたどり着いた。 奥さんが言った。「私、感心したわ」 「何が?」 「れいとめいよ、2人とも昨夜も塾で深夜12時頃まで頑張ってたみたいやし」 「計画性がないからな。土壇場でジタバタしやがる」 「でもしないよりいいやない」 14日に鈴鹿高校の説明会があった。鈴鹿高校のV類はよく頑張っている。夏休みの全国統一模試で津西に圧倒的な差をつけた。当然高田U類の遙か上をいっている。0限授業から7限まで、一日8限。過酷ながらも生徒達に大学進学の意思が強ければ伸びる。2年続けて京都大学に合格させて絶好調。ただ、朝が早いためこの地区からは敬遠されがちとなる。高田U類と鈴鹿V類、どっちに行くか?となるとやはり高田U類となるようだ。ウチの塾は3年ほど前から、こと大学進学を目的とするなら鈴鹿V類の方が有利だと断言している。しかし鈴鹿V類のやる気は認めるものの塾として痛し痒し、一日8限に加え補習授業なども積極的に取り入れていることもあり、鈴鹿V類に進学した生徒はなかなか塾を続けられない。しかし津高や津西に落ち3年後にレベンジを期す生徒なら、やはり高田より鈴鹿。そして今年の津西の高2の悲惨な状況を考えれば、この学年以降津西より鈴鹿V類となってもおかしくない勢い。 気になることを小耳にはさんだ。鈴鹿V類の高1に一人、不登校気味の生徒がいるという。よくある話だと思いつつ聞き流していたら、その生徒が久居の生徒だという・・・一人の生徒が浮かんだ。名前を聞くと、やはりその生徒・・・K。Kはかつてウチの塾に在籍していた。小学校の頃は目立たなかったという、中学進学と同時にウチの塾に入った。数学的なカンがいい・・・この子は伸びるとの確信。そして1学期中間試験で学年1位を取った。他のご父兄の家には知り合いから「れいめい塾ってそんなにスゴイの?」との問い合わせが多数あったという。しかし違う。Kは小学校の時には才能を出す機会がなかっただけ、中学で初めての試験ということもあり緊張感がみなぎっていたのは確かだった。しかしその緊張感、徐々に影を潜めていく。そして中1の3学期あたりから塾を休みがちになり中2になる頃には来なくなった。同時期から中学にも行かなくなったことを後になって聞くのだが。中2の夏、久しぶりに塾に顔を見せ夏期講習を受けるには受けた。しかしメッキは剥げかかっていた。カンは依然としていいものの、カンだけでは対処できなくなっていた。夏が過ぎると再び塾に姿を見せなくなった、そして中学のほうも休みがちになったと聞いた。晩秋の頃、二人で飲み屋で話をした。「僕にとって勉強ができるということは決していいことじゃなかった」 Kはうつむきながら絞り出すように言葉を続けた。「それまでの人間関係が変わってしまったんです。周りの友達の僕を見る目も変わった・・・。塾で問題の分からない子に教えるように、学校でも教えました。そんな僕に友達は『なんで教えるねん、教えへんだらあいつら分からんままでいくやん』て言ったんです。ショックでした、こんな奴らと付き合いたくないって思いました。でも僕は付き合いを切る度胸がない。悩みました・・・」 「だから学校に行かなくなったってか?」 「他にも理由はありますが、それが一番・・・かな」 渉外部長の小倉さんの話では「K君は担任の先生とも信頼関係は十分で、家庭訪問に行った先生を喜んで迎えてくれるんです。だが高校には来ない。朝早く起きられないというのが原因かと・・・」 それから場は現代高校生気質に話題が移ってしまったが、俺はもう一つ違和感が残って逡巡を繰り返していた。俺はかつてKと飲み屋で話をした時、各高校のトピックに触れ鈴鹿V類はよく頑張っていると言った。後でお母さんと話すなかで「先生との語らいのなかで津西と鈴鹿V類に興味を持ったみたいです。高校に行きたくない、学歴をつけてもロクな大人にならないって言ってた息子が、高校に興味を持ってくれただけでもありがたいことです」というようなことを言われた。マラソンで一旦歩いてしまうと再び走り出すのがおっくうになる。中学時代、理由はともあれ不登校を経験したKにとって、不登校が癖になったんじゃないか? 鈴鹿V類が8限授業というのは前もって知っていたはず。つまりは覚悟して行った・・・、起きる起きられないじゃなくて、何か別の理由が・・・」 思考は堂々巡りをしていた。ふと現実に戻ると話題が途切れた静寂、俺はとっておきのネタを鈴鹿高校の先生方に披露することにした。「U類の前川先生が新聞沙汰になったことがあるの知ってますか?」 一様に怪訝そうな顔。「実は大学時代に伊勢湾でサーフィンしてて流されちゃったんですよ。あの時は大変で海上自衛隊まで出動して大騒ぎでしたよ」 「欣ちゃんらしいわ」と渉外の小倉さん、苦笑しきり。 翌日、その前川欣一郎からメールが来た。「お〜い、オマエ!ええかげんにせい。俺にも立場というものがあるんやぞ。俺の過去をばらすな」 ちなみに伊勢湾漂流の記事が載った当時の新聞を前川欣一郎は後生大事にアルバムに保存してあるという。 前々から鈴鹿高校U類教師、前川欣一郎にウチの塾で講義をしてほしいと考えていた。欣一郎は久居中学の同級生、谷一先生が担任の2年1組で同じクラスに。俺達は1年間二人並んで教壇の真ん前に座らされた。ひと月に一度の席替えの自由を奪われ、何かあると、いや何がなくても・・・「今日は雨だから」「昨日子供とケンカしたから」「気分が悪いから」「気分がいいから」といった理由なき理由をつけては、分厚いボール紙の出席簿で毎日のように殴られていた。いつしか出席簿はボロボロになり、真っ二つに裂けると翌日には新しいものに代わった。5冊目の出席簿が破れそうになった頃、俺達の中2の1年間が終わった。 俺達が谷先生から受けた影響は大きい。欣一郎は似合いもしない教育学部に進み、あげく国語の教師になった。俺は俺で大学進学後さっそく家庭教師の口を見つけてはゲーム代につぎ込み、あげく塾を生業にしちまった。谷先生は決して先生らしい先生ではなかった。酒好きで毎日授業前のホームルームは酒の匂いがした。「また飲んだんか?」と言うとすかさず出席簿ではたかれた。ノートを取るのが遅い生徒には「遅きを以てアホと成す」と大音響で怒鳴った。「何や、それ? そんなん聖徳太子が言うはずないやん」と欣一郎が言うと「聖徳太子の17条の憲法の条文や。常識やぞ」と言いつつ一閃。出席簿は真っ二つに裂けて飛び散った。俺が図書館で調べて17条の憲法を読み上げると、ニコニコ笑いながら近づいてきてすかさず窓から外へ放り出された。教室は1階、窓の下は花壇だった。擦り傷ていどだったがその躊躇のなさにシビれた。決して教頭から校長になるタイプじゃなかったと思う。しかし俺達には強烈な印象を残してくれた。「谷先生がいなかったら今頃先生になっていなかっただろう」 そう言い放つ奴を俺は少なくとも5人は知っている。欣一郎もその一人。最近の欣一郎、数々の問題発言で山中教頭を困らせているようだが、その問題発言は純粋な気持ちゆえの発露、さらにこ奴の憎めないキャラと相まってどうにかクビを免れている。そんな欣一郎、いつしかあの頃の谷先生、一種狂気めいた存在になってるんじゃねえか? ならば今が旬、是非ウチの生徒達に遭遇させてやりたいと思った。今の欣一郎を見て、不祥事ネタとは別の教師像が垣間見えるんじゃねえか。教育現場の最前線で格闘している姿に何かを感じるんじゃねえか。 ウチの生徒達が「尊敬する人は?」と聞かれて「お父さん」や「お母さん」、果ては「塾の先生」などと書くことが問題なのだ。周りにいる大人達の数が絶対的に不足している。やっかいな大人は新聞に任せておけばいい。当たり前の、それでいて魅力的な大人は無数にいる。その姿を子供達に見せてやらねばならない。等身大の大人の姿を子供達に見せてやることが俺の急務、そして最低限の大人の義務であると考えている。 18日、福井から刀称(ダーティー珍)、奈良から鈴木の先生がやって来た。たまたま居合わせた4期生の聖ちゃんと辻本(共に社会人)と4人して塾の前の店に飲みに行く。あいにく2人ともマージャンが苦手。ならばと臼井(三重トヨタ)を呼び出す。実家の自動車修理工場を継ぐにあたり三重トヨタ鈴鹿で腕を磨く臼井、閉店間際に登場。駆けつけ3杯でさっそくマージャンが始まる。午前0時を過ぎてから突如、売れない小説家こと前田(6期生・早稲田大学院)登場。「どないしたんや?」 「友人の結婚式で帰ってきたんですよ」 そう言いながら周りを見渡し、あわてて挨拶。「岡田先輩、辻本先輩、お久しぶりです」 「おいおい、臼井もおるで」 「ああ、すいません。臼井先輩も」 「ハハハ」と臼井が笑う。前田から見れば臼井達4期生は2年先輩。前田がウチの塾に密航してきたのは中2の時だったから、高校になっても塾を続けていた臼井のことは当然にしてよく知っている。しかし高校進学とともに塾をやめた聖ちゃんと辻本は、前田にとっては時折塾に顔を出す恐そうな先輩でしかなかった。しかし24歳になった今でも前田にとっては聖ちゃんと辻本は2年先輩、キチッと挨拶する前田が心地よかった。そんな前田と近況、前田の汚い下宿に来ては掃除をして食事をつくってくれるという物好きな女の子の話で盛り上がっていたら、危険牌によけてあった二萬を間違えて河へ。盲牌の違和感ですかさず引き戻すものの薄情な臼井、「ロン!」 続けて刀称も笑いを押し殺しながら「ロン!」 この一発を皮切りに俺はこの日、奈落の底へ落ちていった。 この11月だけウチの塾で・・・と勉強にやって来た女の子がいる。Hである。Hは今まで家の近くの塾に通っていたが、成績が上がらないため塾の先生に「ひと月だけ休ませてほしい」と頼み込んだという。休む理由を聞いた塾の先生に「成績が上がらないので、ひと月死ぬ気で違う塾で勉強してくる」と正直に告白。「どこの塾?」と塾の先生。「夜遅くまでやってる塾です」とH。「A塾?」 「いえ」 「じゃあ、れいめい塾?」 「そうです」 そこの塾の先生はHを快く送り出してくれたという。志望校は久居高、その合否のキーを握るのは内申。Hの在籍する西郊中の内申は2学期期末試験が趨勢を分けるという。その期末試験、27日から始まる。 23日は勤労感謝の日だっけ。突然、香奈子が「先生、すいません。いっしょに来て頂けますか?」ときた。「三者懇談あったっけ? 進学相談か?」と言いながら廊下に出てきた俺に女の子達が整列している。「どないしたん?」 「先生、今日は勤労感謝の日ですから・・・これ」 中3の女の子達一人一人からプレゼントをもらう羽目に。感謝の言葉を口にしながらも、勤労感謝の日にプレゼントなんてもらったことなかったよな・・・なんや一挙に老けたみたいやなと一人ごちる。プレゼントは手作りのケーキ、手作りのドーナツなど。Hがくれたのはオイルライター、ひと月間だけの密航者からのプレゼント、大事に使おうなんぞと殊勝なことを考えたりした。 9月30日に京都駅ビルのグランディアで結婚式を挙げた横山(4期生・花王)を、塾の同期が奥さん共々集まり改めて祝おうとなった。日時は11月25日、またもや土曜日。場所は塾の前の「大将」。4期生は各中学のヒトケタを輩出。「深夜まで無理矢理勉強させている」と中学の先生方からヒンシュクを買うことになる。決して無理矢理なんかじゃなかった。「勉強したい奴はいつまででもやってていい。俺達は自由なんだ」と言ってただけだ。中勢地区三進連順位100番以内に11名が入った。「オマエんとこの塾の先生は三進連の答えを知ってるんやろ」と皮肉を言われた生徒が続出した。品行方正とは決して言えない。しかし4期生には現状を変えたいという切なるパワーがあった。俺はこれを”荒ぶる魂”と呼んだ。「25時」を書き出したのもこ奴らの”今”を描き出したかったからだ。最も思い入れの深い学年・・・。そんな4期生の中心になっているのが聖ちゃん、久居東から松阪工業に進学。成績はよくなかったが人間的魅力に溢れ、何をするにも中心になっていた。えてして津やら津西に行く連中がイニシアティブを握る。しかし4期生だけは聖ちゃんを中心にまとまり、26歳になった今でもたまに塾に姿を見せては今回のようにイベントを企画立案してくれる。聖ちゃんはまだまだ自分が本当にしたい仕事をしているとは思えない。今まで仕事にツキはないようだった。しかし奥さんはいい女房をもらった。気だてが良くて世話好き・・・ツキを女房で使い果たしたってか。俺は横山のパーティのために髪の毛を切ることにした。聖ちゃんの奥さん、高茶屋の実家の散髪屋を手伝っている。聖ちゃんの奥さんに切ってもらおうと決め、覚悟を決め散髪屋に出向いた。しかしあいにく奥さんではなく、奥さんのお母さんが俺の髪をカットすることに。異常なほど威勢のいい明るすぎるオバチャンで、勢いに任せてバサバサバサ・・・結局、戒名を考えねばと思うほどに切られる羽目に。" I shall be return. " と言ったのはマッカーサーだっけ? この日以降、俺の再就職を彷彿させる髪の毛を見たご父兄からは「何か奥さんに対して不始末しでかしたんでしょ?」と言われる始末だ。 25日、大将の2階で聖ちゃんと宮ちん(近鉄勤務)とキープした焼酎をロックで飲み始めたあたりまでは覚えている。何度かトイレに走っては吐いたらしい。翌日の日曜日は大阪からデンちゃんが来ることになっていたが起きられず。塾のパソコンで学校の宿題を調べていたれいから電話。「お父さん、デンちゃんが怒ってるよ」 二日酔いの身体で風に漂うように塾へと向かう。タバコを吸おうとライター求めてポケットをまさぐる・・・ない!オイルライターがない! どっかへ置き忘れたようだ。 この前後に各中学の試験が集中している。そんななか、中3の直嗣が土壇場に来て遂に爆発。中学入学以来初めて400点を突破しての420点。直嗣!半月板損傷と右手甲の腱鞘炎という今までの俺に対する無礼狼藉の数々、今回の点数に免じて許してやるよ。分数の足し算引き算ができなかったオマエがよくもここまでやってきやがった。しかし図に乗るなよ! まだまだ旅の途中だ。 そして今日、12月第一週目の土曜日、俺は久しぶりに塾にいて一晩中パソコンのキーを叩く。来週から試験が始まる高校生が深夜まで籠城している。勉強を終わった生徒が順次姿を現す。その度に俺は作業を中断、送ることになる。今までの懺悔の意味もあり待たせることもなく粛々と送る。結局、深夜三回に渡るショートサーキット。走行距離は100kmを越えた。そして誰もいなくなった暖房の壊れた教室の中で一人、寒さに震えながらひと月ぶりの「25時」を打つ。この調子だと明日はてきめんに腱鞘炎がぶり返すことだろう。 |