2000年|25時|れいめい塾
れいめい塾発 「25時」 2000年4月25日
8期生の山田公則が結婚した。去年成人式を迎えたばかりの22歳。相手の梢ちゃんは新潟出身の美人だ。そんな幸せいっぱいの公則だが、公則には申し訳ないことをしたと今になっても悔やむ出来事がある。
公則が中学2年の時のことだ。その当時ウチの塾では1年先輩の合格発表を中2が見学に行くというのが恒例行事となっていた。「勉強しろ」「勉強しろ」と口をすっぱくして言ったところで、中3にとっちゃ今いちピンとこないはず。何をするにもビジュアル世代、受験の原風景めいたものがあったほうがいい。それまで塾という同じ空間内で過ごしてきた先輩たちの合格発表という風景。歓喜する姿、あってほしくないものの落ちた時の苛立ち、動揺。受験とは何か? そんな問いが空しく響くほどに、あの合格発表の現場には受験のすべてがある。百聞は一見にしかず。しかしながら当然にして合格発表の日も授業がある。つまりはこの恒例行事、ご父兄の承認を得ての参加。しかしこの「密航」、公則の代で終わりとなった。公則のほか、日比均や梅村雅洋が見守った7期生の合格発表の会場に公則の中学の先生たちも姿を見せていた。そして学校をサボって合格発表を見にきていた公則たちを発見、翌日職員室に呼び出しを食らうことになる。公則は当時男子バレー部のキャプテンだったが、罰としてキャプテン降格。勉強よりもバレーが大好きで学校へ行ってるような奴がキャプテン降格、消沈して塾に姿を現した公則の表情を俺は今でも忘れることができない。
公則の成績は2群のボーダーあたり。その気にさえなれば2群が射程距離に入るものの、こ奴はバレーを取った。キャプテンは外されたものの、やはり公則はチームの要。西郊中バレー部は順当に県大会に駒を進める。春の大会で優勝していたものの雪辱に燃える他のチームから徹底マーク。準決勝の上野工業戦で敗れることになる。夏の夏季講習、高校進学の話し合いで高校バレーの伝統校、松阪工業に進学することに決定。塾に来る日を減らし、年末に大阪で開かれる全国大会に向けての練習に集中することになった。三重選抜チームのキャプテンにも選ばれた。公則はオールラウンドプレイヤー。手強いスパイクも打てるし、セッターとしても一流。時折見せるトリッキーなプレーも絶妙だった。ただ惜しむべきは身長のなさ、どうしても175cmから伸びなかった。大阪の街にクリスマスソングが流れるなか、三重選抜は沖縄代表とぶつかった。しかし敗れ、敗者復活をかけた東京代表との戦いにも敗れた。翌春、公則は松阪工業に進学した。試験には落ちるはずがなかった。当然のようにバレー部に入部。公則を熱心に松阪工業に誘った監督のもとで高校バレーの世界に踏み入るものの、やはり公則の身長は伸びなかった。180cmないとレギュラーになれないという不文律が、その当時の松阪工業バレー部にはあったという。ウチの塾は大学受験をする者のみが高校生になっても塾を続けることになっている。公則に大学進学の可能性があるにしてもバレーの推薦と思われた。塾は高校進学時にやめ、俺との関係も途絶えた。俺もまた新しい学年が始まり多忙にまぎれ、公則と顔を合わせる機会もなくなっていた。懸念していた身長のことも忘れていた。高1の暮れ、公則がクラブをやめそうだと姉の智ちゃんが言った。理由はやはり身長、どうしても伸びなかったという。180cmを超え次々と準レギュラーになっていく同級生を横目で見る1年間。そのなかには三重選抜当時の補欠だった面々がいたという。技術が足らないのなら諦めることもできようが、身長という天賦のものが足りない。公則の気持ちは痛いほど分かった。しかし俺は言った。直接にではなく姉の智ちゃんに。公則はとんと塾に寄りつこうとはしなかった。「かつて神戸小学校の時に全国大会に出場した時にも、コートの外から自分達を見つめる補欠の姿があったやろ。中学でもやはり補欠の面々は黙々と練習をし、いつかはレギュラーの座をと夢見ていたはずや。今までいい目ばかりを見てきた。それが一転して補欠落ち、くさるのは分かる。でもな、今までオマエの陰に隠れてレギュラーになれなかった奴らのためにもやめるな。その子たちに失礼だろうが」 しかしその時の俺には説得できるだけの神通力はなかった。その件に対する報告もなく、いつしか公則はクラブをやめた。そして音沙汰もなかった。
公則にもうひとつ真剣に説得する希薄に欠けていたんじゃないか?幾度となく思い返した。中学時代のクラブの実績で鳴り物入りで推薦なんぞで高校へ進学していく。しかし高校でもスクスクと伸びていくかどうか、バクチのようなものだ。塾生のなかにもクラブ推薦で進学するものの、いつしか期待通りの実績を上げることができず挫折。クラブをやめるだけならまだしも、中退する生徒たちを何人か見てきた。才能というものの危うさ、幾度となく「あの時にこう言ってたら」などと砂を噛むような無力感を感じる夜があった。
ただ公則は中退することなく高校を卒業した。高3のクリスマス、日比・梅村などと酔っ払って塾に姿を見せた。「先生、久しぶり。陣中見まいや」と言っては、大きなファミリーマートのビニール袋を差し出した。中にはパンやらスナック菓子やらが入っていた。2階から中村祥宜(名古屋大学工学部)と清原千周(南山大学経営学部情報管理学科)が降りてきた。公則の姿を見とめると微笑んで言った。「久しぶりやん」 「祥宜、勉強のほうどうなん」 「もうダメ、浪人や」 隣にいる均が言った。「なんで大学に行くのか、俺には理解できんよ」 祥宜の視線が公則の隣にいた女の子に移った。そのかわいい彼女、チョコンと頭を下げた。
そして8期生は卒業した。祥宜と清原は大学に進学し、均は就職、公則と梅村は専門学校へ。公則は高校よりキツイわ!なんぞとブツブツ言いながらも建築関係の専門学校に通い、2年後に卒業。就職も建築会社、ゆくゆくは父親の会社を継ぐ準備に入ったようだった。しかし不景気のこと、突然新潟への出向を命じられたことから両親が硬化。遠くよりは近くで修行をさせようと、久居にある知り合いの建築会社への就職を希望した。問題は公則に付き合っていた女の子がいたこと。しかしその女の子、公則と離れるのは絶対にイヤ!とばかりに2人して帰郷した次第だ。
4月22日、俺は懐かしい面々と結婚式の会場、東洋軒の2偕のテーブルに座っていた。均は雨の日もバイクで会社に通うほどにバイクにゾッコンだったはずが、いつしか車に変わったそうな。梅村はガソリンスタンドで働いているそうな。来賓は極力控えめで友人中心の公則らしいシンプルな結婚式だった。新郎と新婦が一人一人にケーキを手渡すというので、俺は均と梅村を伴って公則に近よっていった。公則は満面の笑みをたたえていた。俺は尋ねた。「公則、この衣装、貸衣装か?」 「うん」 「そうか、それで安心したよ」 俺達3人はケーキを手に持って公則の顔にぶちまけた。ケーキは顔からスーツへとただれ落ちた。会場内に悲鳴がこだました。そして俺達はカメラマンに注文した。「記念写真を撮ってくれ!」
このあたりの描写は後から聞いた。いつものように記憶が途切れている。結婚式が終わり公則の家で近所の人達と祝宴が始まった。その時に結婚式での顛末を聞き俺は言った。「でも本当に貸衣装で良かったよな」 ニヤニヤ笑いながら均が言った。「でも先生のは自前やろ」 「当たり前だろ。40過ぎて貸衣装というのもヤバイだろ」 「じゃあそれ、どうするの」 「何が」 「先生の礼服」 俺の礼服にも公則の貸衣装に負けないくらいのケーキのあとがこびりついていた。俺は静かに言った。「あのな、均。40過ぎたら礼服の一着やニ着持ってるのは常識やで」
翌日、奥さんは一張羅の礼服をクリーニングに出した。果たして5月4日の長谷川君の披露宴までに間に合うのだろうか。
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