心感記U 『25時』復刻版が刊行されている。上野先輩の引越し大掃除の際にかつて塾内で大量に発刊されていた『25時』が発掘されてきたことも関係しているだろう。そんな折に触れ、かつての『25時』を手に取る機会が増えた。はっきりいって衝撃という言葉でしか表せない内容だった。自身中学2年かられいめい塾に密航を始め、留学期間中のブランクを除けば、れいめいイズムというこの塾特有のフィーリングも熟知しているといった自負があった。しかしながら、かつての『25時』に目を通していると、そんな自負は辛くも消し飛んでしまった。 自身が中学や高校の時の『25時』の発行数がいつしか減少し、大版『25時』(広告)も出されなくなったことについて、私と同年代以降のれいめい塾OBはどのような感覚をもっているのだろうか?恐らくは、塾頭も中年と言われる年齢に達し、『25時』に対する意欲が減退した結果というのが、その大勢ではないだろうか。確かに今年のWeb版「25時」を見ても、そのような要素が皆無とは言いがたい。しかし果たしてそれだけが通常の『25時』や広告『25時』が消滅してしまった本当の原因なのだろうか。過去の『25時』を目の当りにして、私はある疑念を抱かざるを得なかった。それは… 書くことが無い!!!のではないだろうか。確かに今でもれいめい塾生に決意文を書かせれば、かつてのように血気盛んな文章が踊るのかもしれない。かつてを知らない人々が見れば、それはそれで十分Radicalであろうし、塾生個々人にとってもウソを書いているわけではないだろう。しかし…、この敗北感、寂寥感はなんなのだろうか。かつてのようなれいめい塾であって欲しいとは思わない。しかしその年その年が鮮やかな色を放っていたかつてと比べると、どうしても今の方がセピア色に見えてしまうのはなぜだろうか?かつてを知らない塾生にこんなことを言うのは酷というものかもしれない。自身かつての塾を十全に理解しているとは到底言えないし、だからこそ此度の衝撃があったのだろう。 かつてのれいめい塾とはいったい如何なる塾であったのであろうか?この問いに答えるのは容易ではない。しかし一つだけ確実に言えることは、塾頭が寝る間も惜しんで他の人々に伝えたい熱い奴や出来事であふれた塾だったということだ。だったという表現を使わなければならないことが現在れいめい塾において指導をしている身としてまことに遺憾なことだ。思えば自身、れいめいの色を伝えるという作業に対して、意図的に身を引いてきた感がある。これは自分が言うべきことではないと、自分が受け持っていない生徒に対して抱いた葛藤をぶつけることを躊躇してきた。それは物事を円滑にするためには必要なことかもしれない。しかしなぜある生徒の行為や言動に対して抱いた不満をまっすぐにぶつけようとしなしのか。臆病と言われればそれまでかもしれない。しかしそれ以上の何かがその行為を制したように感じられる。まことに抽象的な表現を多用していることは認識しているが、これが現段階で精一杯具体的な私の問題意識である。今後かつての『25時』や広告版『25時』を紐解きながら、具現化していきたいと思う。 2000年11月8日、アメリカより発信
2000年11月9日、アメリカより発信 2000年11月10日、ノッチンからの返信 2000年11月13日、アメリカより発信 参議院議員・高橋千秋からのメール 2000年11月24日、ヨシキからの返信 2000年11月30日、名古屋大学・野依教授の発言 2000年11月9日、塾先より遠山真佐美ちゃんへ送信 2000年12月3日、遠山真佐美ちゃんからの返信 2000年12月4日、アメリカより発信 2000年12月13日、アメリカより発信 2000年12月22日、アメリカより発信 2001年1月10日、アメリカより発信。 2001年6月7日 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 当ホームページに掲載されているあらゆる内容の無許可転載・転用を禁止します。 ![]() ホームページ管理:橋本康志 ![]() |