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森下直紀のアメリカ日記

Diary from Pullman WSU


 8期生の森下直紀がアメリカに旅立って3年半。その間、2度の帰国の際にはウチの塾で中学生に英作文の授業をしてくれた。今の中3は中1と中2の夏に直樹が教えたメンバーである。

 森下の大学編入が決まったのは今年の初夏のこと。留学流行りのこの頃だが、留学しても大学編入できる日本人は10%にも満たない。編入が決まった頃、直樹の親友でかつてウチの塾で共に過ごした中村祥宜は大学院進学を決めていた。祥宜だけでなく中学高校時代の友人たちは就職のシーズンを迎えようとしている。こんななか森下は異郷の地、アメリカのワシントン州プルマンで何を思うのか?

 そんなことを考えていたら森下から電話が入った。近況方々、ウチのHPの「25時」は読める(直樹はペーパーと言ったが)けど、BBSにはどうしてもアクセスできないという。人一倍ディベイトが好きなこ奴にとっては歯ぎしりする事態発生である。そこで思いついたのがHPの「25時」と同じサイトで直樹にアメリカでの日記を綴らせてみたら・・・ということ。

 ノッチンが第二回目の講義で「今まさにブランドは崩壊し始めている」と警鐘を鳴らす。ありのままの現実を等倍のサイズで子供たちへ情報提供を行う、これが俺の現時点における最大のライフワークとなっている。大人たちに社会のあるがままを語ってほしい・・・そう痛切に願う俺は父兄の間を走りまわっている。同じベクトル上で留学問題を扱ってみたい、以前からそう思っていた。留学に対する幻想を取っぱらって、あるがままの留学体験を子供たちに提供したい。こんなコンセプトから急遽、森下のサイトをウチのHP上に立ち上げた次第だ。

 昨日の電話のなか、この構想を話してすぐにでもメールで日記を送れ!と言ったら、森下曰く「今、試験勉強の真っ只中なんですよ。毎日睡眠時間は5時間くらい、週に一度は徹夜ですね。送るのは試験が終わってからでいいですか?」 その時のアメリカ時間は深夜2時前、これから朝方まで勉強すると言う。「がんばれよ!」と電話を切ったはずが、翌日さっそくメールが送られてきた。発信の時刻を見れば俺と電話で話してから1時間あまり後・・・つまりは人恋しかったのだろうか。

 2000年11月8日、アメリカより発信

 森下!先日の約束通りオマエさんのサイトを作ったぞ。これでいいか? 短くていい、メールをくれ。あの時の電話では言い忘れたが、俺久しぶりに家族旅行したよ。塾で9時まで授業して出発、11時間で岩手の小岩井農場まで雨のなか走った。走行距離1045km、3度もガソリン入れたよ。なぜ小岩井なのか?って。ウチの娘に「家族旅行で何がしたい?」って聞いたら「乳搾り!」だってさ。雨のなか、小岩井農場で念願かなって乳搾りしてたらしいぜ。俺? 当然のごとくエスティマの中で眠りこけてたよ。

 今日、さっそく祥宜に森下サイトを作ったってメールを送っておいた。女でトチ狂ってなかったら近々連絡寄越すだろ。そしてこのサイトでオマエさんが通ってるワシントン州立大学(WSU)を紹介しようとヤフーで検索してたら、WSUに在籍しているお嬢ちゃんのホームページに行き着いた。失礼とは思いつつメールを送っちまった。俺、こんなこと初めてで少々気が高ぶってるよ。

 オマエさんも試験で大変だろうが、ウチの塾も1週間後から三雲中で期末試験スタートや。まあお互い頑張ろや。アメリカではこんな時、”Take it easy.”ってか。

 2000年11月9日、アメリカより発信

 森下! アメリカは大統領選で大変だよな。そうそう、前に電話で話してた時に大学院について聞いてきただろ? ノッチンにメールで質問したらさっそく日米大学院比較について返信が来たぞ。以下に掲載するよ。

 2000年11月10日、ノッチンからの返信

 文藝春秋十二月号にノーベル化学賞を受賞した白川英樹氏の「私の体験的教育論」なる記事が載った。森下、化学得意だった? 白川氏は東工大の助手時代、アセチレンを触媒と反応させてポリアセチレンになる反応メカニズムを調べていた。ところが研究生が触媒の量を間違えて指定の一千倍の量を投与。すると表面に薄膜ができた。これが携帯電話のディスプレーに使われている導電性ポリマー開発のきっかけになったわけだ。ただし、すぐに実用化とはいかず、その段階では半導体止まり。その触媒に微量の塩素や臭素などのハロゲン元素を加えると、ポリアセチレン分子のなかで何んらかの化学反応を起こし金属光沢を放つというところまでは分かった。数年後、たまたま大学を訪れたペンシルバニア大学のマクアイダミッド教授が金属光沢を持つポリアセチレンを見て驚き、白川助手はアメリカに呼ばれることになる。アメリカではカリフォルニア大学のヒーガー教授を加えて3人で共同研究。電気伝導度の測定実験を続けるなかで、塩素から始まり臭素へ、そしてヨウ素を使った実験でそれまでの一千万倍という電気を流すことに成功。これが伝導性ポリマーの誕生となるわけだ。

 とまあ、日本の学者のノーベル賞受賞の記事なんてアメリカではそれほど騒がれないんじゃないか?と思って受賞までの概略を記したわけだが・・・。さて本題。この記事のなかで、白川教授はアメリカでの研究生活のメリットを三点述べている。一つは研究環境が整っていること。これは分かる気がするから割愛。残る二点が興味深い。まず、人間関係。当時はまだ助手であった白川氏に対し、マクアイダミッド教授とヒーガー教授は一人前として扱ってくれたという。アメリカではどんな若い人でもドクターを持っている研究者は平等。3人はお互いにニックネームで呼び合っては研究を続けたという。つまり、個と個の付き合いなんだ。そして最後の一点は、アメリカではいい仕事やユニークな仕事をする人をしっかりと評価するということ。それも権威が認めたとか、人が誉めたとかじゃなく、自分自身が認めるから評価するというスタンス。日本のように、海外で評価されたから認めるという風潮とは一線を画す。

 ノッチンがウチの塾でやった第二回目の講義のテーマが「安心の社会から信頼の社会へ」。 今までの日本社会は会社の中の個人と会社の中の個人、つまり会社という肩書きへの安心を媒体として仕事での関係を持ってきた。しかしそれが今、個人と個人、信頼と信頼の関係を媒体に仕事を行う世界に急激に変わりつつある・・・といった内容。白川教授の記事との符号の一致。ノッチンの言うように社会は動き出しているかもしれないが、まだまだ日本の大学内にはヒエラルキーが厳然として存在する。森下!自由闊達なるアメリカでの研究生活、それを浴びるほど経験してみろ。

 2000年11月13日、アメリカより発信

 依然アメリカでは大統領が決まらないようだが、日本では11月20日に内閣不信任案がらみで一悶着あったぜ。加藤紘一という自民党の政治家が野党提出の内閣不信任案に突如賛成すると発言。内閣不信任案自体は恒例行事のノリ、否決されるのを承知で、routine よろしく提出するわけだが、今回はちと事情が違ったようだ。加藤紘一が影響を及ぼす議員の数は60名ほど。もしこの60名が賛成にまわったら不信任案は可決される。このため自民党は加藤派の議員に対し不信任案に賛成するなら離党せよとか推薦を取り消せやら、あの手この手で揺さぶりをかけた。加藤紘一は自分のHP上で20日まで日々自身の考えを発信した。

 加藤紘一からのメッセージ

 前日の19日には朝から晩までテレビに出ずっぱりで「100%勝ちます」と言い切っていた。そして迎えた20日。今度は俺の高校時代の同級生で今年に参議院議員補欠選挙で初当選した高橋千秋が見た国会風景。

 参議院議員・高橋千秋からのメール

 塾は期末試験直前で授業は一切なし。オマエがよく知ってる塾の風景・・・各自が工夫して勉強していく silent battle のモードに突入していたが、俺はテレビの国会中継を垂れ流すことにしたよ。しかし土壇場で加藤紘一グループは欠席を決める。これだと不信任案は否決される。どことなく見栄えのしない加藤紘一という政治家が、9日の造反発言以降一躍「時代の寵児」となったのは事実。政治家が欲しくとも滅多に手に入れることのできない「国民の期待」という奴を背中にしょったものの土壇場でのとん挫。たとえ不信任案が否決されても賛成票を投じていたならば、その結果離党の憂き目に会ったとしても、加藤紘一は政治家として一番大事な武器=国民の信頼を手中にしていたのではないか。勝つことを最優先にしての決断だろうが、負けても得るものの方が遙かに大きかったんじゃないか・・・そう思う。ともあれ松浪健四郎の野党議員へのコップでの水攻撃もあり、生徒達にとって国会というものが退屈なだけの存在ではないことが分かったようではあるが。

 そんなところへ、やっとヨシキ(祥宜)から返信が到着。

 2000年11月24日、ヨシキからの返信

 お〜い、ヨシキ。学内批判もええけど、オマエんとこの教授もなんや新聞で吠えてんで。

 2000年11月30日、名古屋大学・野依教授の発言

 森下、このサイトの作った頃にワシントン州立大学をヤフーで検索していて偶然WSUに留学しているお嬢ちゃんのHPにたどり着いたって話を書いただろ? そしてメールを送ったことも? スゴイよ、おい! メールもらったよ、お嬢ちゃんから。昔、小峰元という小説家にファンレター送って返事をもらった時の感動が蘇ったね。以下に俺の送ったメールと、お嬢ちゃんからの返信を載せる。

 2000年11月9日、塾先より遠山真佐美ちゃんへ送信

 2000年12月3日、遠山真佐美ちゃんからの返信

 まいったよな、俺が彼女に出したメールには俺の名前が書いてなかったんだ。失礼なことをしたと思う。彼女の journal 、10月12日の「高いレベル」のなか、名前を書かずに質問を送って寄越す人達がいる・・・という描写があり「失礼な奴もいるもんだな」と思ってたら、このザマだ。でもそんな失礼な手紙に返信を送ってくれて心底感謝。森下!WSUで会うことがあったら謝っといてくれよ。「あの人はいつだって気持ちだけ謙虚で傍若無人だ」ってな。高校生が期末試験、真っ最中で塾のなかはテンパッてる。落ち着いたらお詫びのメールを出そう。お嬢ちゃん(27歳ということは俺が塾を始めた時に中学校に入学した学年、俺としちゃ”お嬢ちゃん”なんだけどな)から指摘されたDaily は俺のミスやな、Diary や。でもな森下、オマエが” Dialy from Pullman ”でメール送ってきたで間違えてしもたやんか。えらい低レベルのけなし合いやな。ともかくさっそく変更しときました。そして遠山嬢(やっぱお嬢ちゃんの方がしっくりくるけどな)からのメールで沸き立ってるところへ森下から久しぶりのメール。

 2000年12月4日、アメリカより発信

 森下、本当にゴメンよ。メールでも書いたように今の俺は絶不調やな。ただそのことがHPの管理にあたって影響するってことに、自分のふがいなさに対して腹を立てている。すまない・・・。

 2000年12月13日、アメリカより発信

 師弟2人がアメリカと日本で暗いってのもな・・・。クリスマスはいつものごとく「受験生のためのクリスマス」だった。今年の高1は女の子が多く、ウチの家の台所を使って準備してたようだ。かなり手の込んだ料理にまで挑戦?俺の奥さんがビックリしてたよ。しかし。こん時に必殺技を出し切っちまったか?1週間後の大晦日には定番の焼きそばとなっちまうんだけどな・・・。そうか、森下は引っ越しするのか。

 2000年12月22日、アメリカより発信

 大学を5年かかって卒業。帰省するなんて夢にも思わず、しかし「いつかは帰ってやるさ」なんぞと両親み恩を売るような感情もまた片隅に置きつつ大阪での暮らしを続けた。会社は1年後に辞めた。とりたてて理由もなかった。雑誌の編集をせえへんか? そんな依頼に応えた。そして編集傍ら営業の仕事を2年続けた。出張するのが楽しみだった。大学のダチから「俺の仕事、手伝ってくれへんか」との要請・・・なぜか、これにも応じた。さしたる理由があったのだろうか。身体の弱いオフクロに「俺、福井で暮らすから」と電話。オフクロ、何か言いかけたが切った。そして福井での生活が始まった。違和感なく毎日を送っていた。まいったのは午前3時30分に起きるのが日課となったことくらいだった。波瀬で生まれ、久居で成長した。そして大阪に出て、いろんな奴らと会った。26歳の晩夏、福井へと移った。俺の中では何も変わらなかった。

 大晦日まで1週間ほどに迫っていた。ソバを始め出荷量が日々増え始めた。市場に着くと配送された荷物が積み上げてあった。店に並べるのが大変だった。ゆえに市場に出るのが午前3時になった。そんなある日、目覚めれば窓越しにも雪の明かりが意識できた。外に出ると一面の雪・・・背中を叩くように重量感溢れる雪が降りしきっていた。みるみる積もっていく・・・市場に急ぐのも忘れ、しばし俺はまわりの風景が雪に閉ざされていくのを眺めていた。

 翌日になっても状況は変わらない。ただひたすらに雪は降りしきった。いいかげんにしてくれ!と叫びたかった。もういいだろ!と哀願したかった。容赦はなかった、いや、俺のことなんて雪にすりゃ何の痛痒も感じることなしに、ただ日々の routine をこなしている風情だった。3日目になっても同じだった。淡々と雪はそこにあった。4日目ともなり、俺はさすがに観念した・・・えらいトコに来ちまったな。諦観が支配し始め、俺は初めて「異郷」に来たことを意識した。

 俺は塾をやるなんて、それも15年も同じ仕事を続けるようになるなんて夢にも思わなかったよ、森下。26歳の冬、俺はただひたすらに免許取り立ての我が身を呪い、凍える道を怖々と壊れそうな軽トラを走らせていたよ。

 2001年1月10日、アメリカより発信。

2001年6月7日
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2000年11月8日、アメリカより発信
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2000年11月9日、塾先より遠山真佐美ちゃんへ送信
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2001年6月7日
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