序
たぶん学校に上がる前だったろうか、確か台風接近か大雨の夜であった。夜中に尿意を催し、布団から抜け出てトイレのある階下へと階段を降りつつあった私の目の前に突如、怪しい人影が現われた。驚きじっと目をやるとその人影は土人(当時はまだ差別用語ではなかった)の子供のように見える。まんが本などで知っているチビクロサンボみたいな感じである。
恐かった、とてつもなく恐かった、声にならなかった。幽霊とか妖怪の類いだとは思わなかった、本物の土人の子だと強く認識し、もう凝視する事さえおぞましくしゃがみこんで目を伏せた。しばらくして、否ほんのわずかの間であったのかも知れない。再び目をこらすとそこにはもう何もいなかった。
その晩、その後にトイレに行ったのか、親に泣きついたのか又、翌日の朝どのような気分であったのかは、深い深い霧の中で記憶にはない。ただあの不可思議な光景のみが鮮烈に脳裏に焼きついていて、今でもありありと思い出すことができる。何故かどこか懐かしさを伴った恐怖感として。
後年この世のものではないであろう異形のイメージを金縛りや入眠時幻覚で体験することになるが、やはりそれらの存在の有無を論じる以前に、例え夢うつつであろうが錯角であろうが目のあたりにするという事実は本能的に無性に恐いものなのだ。
明言しておくが個人的には無神論であり、心霊現象や祟りといった事例には否定的な姿勢を確立している。そうかといって深夜の墓地や暗い人気のない山奥など、一人で散策など決して気色のいいものではなく、得体の知れない魔物などの気配を原始的な触覚で感じてしまい、やはり無気味である。見えない恐怖は果たしてどこからやってくるのだろうか。
その答えを探るべく最も手軽で即効力のある「怪談」という物語の仕掛けの中に今、我々は足を踏み入れようとしている。
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