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鎌倉トンネルの怪〜二章

車はゆっくりと山間の闇をライトで照らし、もう一つの闇の内へと向おうとしていた。浮かびあがる石ともコンクリートとも定まらない内壁は、凍てつくように我々の侵入を冷たく拒んでいるかのように感じてしまう。車の窓を全開にし、カセットテープが再生され般若心境が唱えだされる。「ボリュームを最大に!」口元を震わせながらも強く言い切る。そして速度はあくまでゆるやかに進んで行く。山肌特有のひやりとした冷気が車内に入り込み、そっと頬を撫でる。全員、無言のまま車は奥へ奥へと吸い込まれていった。
「この辺で止めてみて」運転者にそう小声で伝えると彼も意を解したのか停車とともに自ずとライトを消した。視界は一瞬にして暗幕を降ろされ、暗黒の世界が広がり、闇の空間を読経がこだまするのみ。私たちはじっと息をひそめ、これから起こりうるだろう何かに向い、限りない緊張に身をこわばらせ、手を膝元におき時を刻む。お互いは顔を見合わせる事もなく、全身の感覚を研ぎすませ異変を待ち続けた。
どのくらいの時間が経過しただろうか、後部座席の者が「何もないですねー、出ないですねー」と呟き、「うーん、そうだなあ」とやや緊張の糸が緩みだした。我々はとりあえずエンジンをかけトンネルの向こう側へと移動はじめたが、今、思い返すとあの時、やはり誰かが口火を切らなければならなかったのかも知れない。そうでなければあのままのぼりつめていた恐怖と期待感は、頭の中で極限にまで達し何か良からぬ場面を呈していたであろう。不吉な予感は回避されたのだ。トンネルを抜け車はおもむろにUターンして、再び漆黒の道行きを敢行したが、すでに心の魔はそこになく、先程のいいようのない束縛からも解放されていた。幾分、顔色にも血がめぐり表情にも余裕が生まれた「しかし、結局いなかったなあ、まあ想像通りだけど、こんなもんじゃない」来た道程を車枠より尻目に肩の力が抜けていくのが感じられ、テープの読経もスイッチを切った。そして元の入口にさしかかってみるとさっきまで気がつかなかったが下界はすでに薄明である。道路の両脇は山の斜面がせまり、うっすらと木々の茂りが目に映る。トンネル付近よりほんの少し走って左回りに大きくカーブを越えたその時であった。後ろの席から突然「ちょっと!あれ、何!!」と叫び声がした。運転者も「うわぁ〜っ、あれっ!」と急ブレーキをかけ、山添左手を促す。さすがにこの時ばかりは私も体中に電流が走ったように驚愕した。何とその先で、5メートルくらい上の木立の影に、人らしきものが動いているではないか。脳裏をイメージではなく明確な言語が横切った「やっぱり出た!出た!・・・」猛烈な恐ろしさが下半身から吹き上げてきた。目を剥き口をはぐはぐやっている運転者に「早くバック、バック」と私自身も何とかそう言うと、いてもたってもいられない焦燥に駆られた。車はほとんどジグザグ走行でかろうじてカーブの手前まで下がり、目の前からその異変は隠れた。もう頭を抱え目をふせるしかない、とんでもない事になってしまった、呼び寄せてしまった、否、待っていたのだ、きっと。自ら招いた怪異現象に完璧に打ちのめされ、なすすべが分からない。この密室には恐怖しかなかった。しかし、やがておののきながらもどこか胸の片隅から少しづつ、あの好奇の芽が顔を覗かせているのに気がついた。それと同時に私はエンジンを切るようさとし、静かに身を潜め車外に出た。見なくては、見なくては、ちゃんとこの目で見なくては、小さい頃から無類の怪談好きじゃないか、今、見なくてどうする・・・恐怖と焦りと変てこな自負がくるくる回りながらも、足下を運んで行く。
夜明け前の山は一際、おぼろげで妖しい。とても空気は澄んでいた。魔性も棲みつくだろうが、聖なる地でもありえる。私は日頃から信心もないし、心霊などもありえないと思っている。それらはあくまで宗教観や分化人類学的な価値や意味の上での概念であり、人間のイメージの枠を出ない。私達は常に何らかのイメージを恐れ、がんじがらめにされてしまっている。ここでもし実際に幽霊とかが存在するなら、すべては根底からくつがえされる、今こそ最大のチャンスだ、もう少年ではない、無闇にものごとには怖じけない。私はカーブ付近へと一歩一歩、近づいていった。見たり正体!
、、、つづく


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