れいめい塾広告|生徒の作品

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作文


越知 勲

1990年度作品(南郊中3年)

 『れいめい塾』は一人、いや一匹の野獣を飼っている。そいつの名前は井島享。半年程前は『AVAの帝王』と呼ばれていたが、今は神出鬼没の如く久居市内の本屋・CDレンタル等に現れている。平成元年10月28日、塾にケーキが飛び交い、ジュースが床にぶちまけられた日。あの時、井島享は本当の野獣と化した。みんなに的にされ、ケーキの生クリームは顔にベットリとつき、ジュースで服はビショビショとなり、その上とても匂う。喩えるならばスパゲテイッーに牛乳をぶっかけ、チーズをドッチャリまぶした感じ。そして塾の窓からビールを外に向かってぶちまかすのはいいが、自分にかかっても平気である。いや、今を何さらという感じでビールをぶちかます。その様子を喩えれば、シミの付いた袋にシミが付いても分からないような感じ。しかし、この男にも良いところが・・・ない。いや、やっぱりあった。人間ひとつくらい良いところがなければやっていけない。その良いところは、ラーメンを作れることである。家が中華料理屋をやっているので、味はスゴイだろう。こんな男がいる(もうすぐ卒業するけど)塾にあなたも入りませんか。

1992年度作品(津西高2)

 折笠は切れる奴だ・・・少しのことで大声を出し、周りに人に迷惑をかける。森下はとぼけた奴だ・・・平気で寝ながらゲロを吐く。向井はバカな奴だ・・・知らない歌を歌いだす。日比は元気な奴だ・・・みんな疲れてても、ただ一人テンションが高いのだ。井島は鈍い奴だ・・・酔った先生に1日2回もやられている。越知(おち)とは僕の名前だ。意味はないけど、これがオチだ。

1995年度作品(同志社大学1年)

 ウチの塾は、先生がプロレスファンのため非常にプロレス・オリエンテッドなところがある。受験生は選手であり、受験はドーム大会並みのイベントなのである。ここまでは先生も言ってる事なのだが、プロレス界にA・猪木、G・馬場がいるように、つい思い入れてしまう奴がここにもいる。僕にとってそれが前田(高3)と正知(高2)である。ゆえに今年のメインは前田しかいないと考えているし、来年のメインは正知しかいないと考えている。しかしメインだけ盛り上がってもイベントは成功しないし、その逆の場合にはイベントは成功すかもしれないが、僕にとってそのイベントは失敗ということになる。これは彼らにとってプレッシャーとなるかもしれないが、それは分かって書いている。ここら辺が僕の意地悪な所かもしれないが、そこはいつものことで許してほしい。そしてこの曲を今年のイベントに参加するすべての選手に捧げておきたいと思う。

We are the chanmpions my friend,

       We keep on fighting till the end ・・・

           QUEEN 『 WE  ARE  THE  CHAMPIONS 』

1996年度作品(同志社大学2年)

 新年早々、僕の大好きなプロレスラーが引退した。馳浩(はせひろし)。彼はいつも妥協というものをしなかった。「プロである以上、いい加減な形でリングには上がれない。」と言うのが彼の口癖だった。馳は最後のリングで言っている。「人それぞれに運命があると思います。その運命に従って、これからも闘い続けます。」と。妥協をしなかった人だけが言える重みがこのセリフにはある。あってほしくないことだが、志望校の行けない人が出てくるかもしれない。僕は言いたい。自分に妥協しなかったのであれば、それは運命であって従うしかないのではないか、と。その事実をあれこれと考えるより、3年後の本当の大勝負でREVENGEすることを見つめるべきではないか、と。志望校にめでたく入って安穏とする人もいるだろう。嫌われるかもしれないが、あえて言おう。3年なんてアッというまに過ぎていくし、何より自分が立っている所は、そこに行きたくても行けなかった人の想いの上に立っているんだということを。受かって良かったね!と祝うことは、みんなすると思うので、僕はドロをかぶるつもりで言いたい。「(大学を受けるつもりなら)喜ぶのはまだ早い。」と。入試の前にこんなことを言うべきではないにかもしれない。だが時間というものは流れるものである。入試が終わったばかりのあなた達にこんなことを言っても、すぐ忘れられるだろうから。やはり今、言っておくべきなのだ。大学入試はしんどいよ。本当に。どこかで手を抜くと、確実にそのシッペ返しがやって来る。大学入試の本当に怖いところは、逃げようと思ったらいつだってそこから逃げれるというところだ。だが、逃げることによって大学の選択肢は確実に狭まっていく。つまり真綿で首を絞められる様に身動きが取れなくなっていく。そうなった後で僕達に救いを求められても、もうどうすることもできない。だから、僕は言いたい。

決して自分に背を向けるな!!!

 妥協してはいけない。一旦逃げ出してしまったらもう戻れない。やり直しができるほど3年間は長くない。

 最後に。馳にはずっと隣に健介という男がいた。馳にとって最高のライバルであった男だが、こういう人に恵まれるのも大事なことだと思う。そういう点において僕は4期生だったことを幸運に思う。4期生のみんながいなければ、今の自分はいない。本当にそう思う。よく比較に出されるが(あなた達も塾頭から何度も聞いたかもしれないが)、僕等を抜くパワーを持った学年が出てきてもおかしくないと思う。いうまでも年寄りに出しゃばらせるべきではない。ただ、僕等はいつも塾頭に甘えていたわけではなかった。

 本当に最後に。僕はあんたらの落ちて泣く姿なんか一瞬たりとも見たくないし、全員が受かることを心の底から願っている。

1998年度作品(同志社大学4年)

 早いもので、今年の3月で同志社大学を卒業である。1998年度が始まるにあたって書初めをした。最初は一番足りない物を書こうと思い『人徳」と書いた。しかしピンとこない。書き直した。『終わりは始まり』と書いた。『グッドバイから始めよう』(佐野元春)の最後で繰り返されるフレーズは、始めて聞いた高2の時から僕の心の中に残っている。高校を卒業し浪人することを決めた時、この曲ばかり聞いていた。そして今、久しぶりに僕はこの曲を聞こうと思っている。

 この3月で僕は塾を去り「いつ、何時、だれの挑戦でも受ける!」(by A・猪木)事は出来なくなるが、この4年間僕が京都から戻って来るたびに、様々なドラマを見せてくれた講師の方々、一緒に弾けてくれた大学生の連中(たまに帰ってきた時は、また美味いお酒を飲もう!)、THANKS! そして何よりも現在進行形でドラマを紡いでいる生徒のみんな。僕がここからどれだけ離れていてもドキドキしてしまうような勝負を見せてくれ! 僕は君達が心の底から笑える、HAPPY END を心の底から願っている。

 最後に・・・。初めて会った時はショッパかった僕を、ここまで育ててくれた先生には、心から感謝しています。そして今まで僕に関わってくれた全員に・・・

多謝!!!

1999年度作品(社会人1年目)

 「あれ、あんた何でまた書いてんの?」 こんなツッコミがいろいろな所から聞こえてきそうである。事実、これを書いている僕もそう思ったりしている。にも関わらず、何故これを書いているのか。理由はただ一つ・・・・・邦が作文を出したからである。彼は今、自分の可能性を広げるため、イギリスに留学している。そんな彼が作文を送ってきたというのである。東京にいる僕も負けてはいられない。こっちは国内だ、コノヤロー! 「彼の存在がなければ、今の私はありえなかった。」 こんな言葉をたまに耳にすることがある。きっと誰だってそんな人はいるのだろう。僕にとっては邦である。高校・浪人を通して彼という存在とぶつかれたという事は非常に幸運であった、と今でも思っている。高校時代、本当に仲が悪かった。「こいつには負けたくねー!」 その思いが顔を合わすといつも僕の表情には出てたと思う。同じ参考書は決して使わなかった。勝負した時、1点差でも10点差でも大して変わらなかった。勝てばうれしい。負ければ悔しい。極めて単純な原理に従って毎日を過ごしていた。

 そして、そんな青かった時代を経て、数年が過ぎた今も彼とのレースはまだまだ続く。(と僕は思っている) 彼が留学しているこの1年間、僕は東京で仕事に打ち込んだ。もうすぐ4月。彼が帰ってくる。1年振りに会って、お互いをどう見るか、かなり楽しみである。早く春が来ればいいな・・・・・。以上、『鬼のいぬ間に心の洗濯を』のコーナーでした。

斉藤太郎

1995年度(一志中3)

 久居中Kの爆弾発言「俺は藤井フミヤだ!」

 オレは思った。 「オマエは牛やで!!」

 それから山路、今年も犠牲になってもらうよ! 夜二人で出ていって、一体どこで、何をしてるんだ。僕達の知らない空白の三十分は一体何なんだ!

1996年度(津高1年)

 去年1年間、僕は、なんとなく適当に送ってしまったような気がする。何の目的もなく生きてしまった。今年は何か一発しでかしてやろうと思う。何をするかは、今から考えるとして・・・。とにかく今年は何をするにも目的を持ってやる。

 それから、今から入試に向かう10期生へ。頑張ってくれ。今までやってきた事を全て出しきってこい。僕達、塾の先輩は合格発表の日、お前らをコーラでぐしょぐしょにできることを楽しみにしている。

1997年度(津高2年)

 今、去年の克典の作文を読んで、本当にスゴイ奴っていうのは、どんな奴なんかなあ・・・と思った。克典は「UNKNOWN ROAD」を選んだ啓臣はスゴイ奴やって書いとったけどな。自分は「UNKNOWN ROAD」を進んだ奴がスゴイ奴なんやと思う。選ぶだけなら誰だってできるし、克典も選びかけたやん。そこで何もしやんだら「KNOWN ROAD」を進んどる奴の奴のほうがスゴイやん。克典が今の啓臣をスゴイと思っとるかどうかは知らんけど、俺は思わん。今の啓臣なら、オレや山路のほうが少しくらいはスゴイんとちゃうか?と思っとる。でも啓臣が「UNKNOWN ROAD」を自分の道にした時に、オレは啓臣をスゴイ奴と認めるから。

 多分、これからもオレは「KNOWN ROAD」を進んで行くけど、おもろない大人には絶対ならんつもりやから・・・。言い過ぎたかもしれやんけど、啓臣、許してな。もし、オレが大学に受かるような事になったら、みんなでどっか行こな。

1999年度(北海道大学1年)

 昨年の僕は一体何をしていたのか、自分でもさっぱり分かりません。前期の習得単位は3単位でした。さらに後期の試験が間近に迫った1月30日のAM3:45、なぜかモジャ(塾頭)と酒を飲んで塾に帰ってきて作文を書いています。

母上様、こんな馬鹿息子を許してください。

2000年度(北海道大学2回目の1年)

 大学生のみなさまは難しい事をたくさん書いておられるようですが、僕にはあんな難しい事は書けません。(こん平か?俺は) 最近の大学生はバカだとか言われてるけど、みなさんすごいですね。いろいろ考えてるんですね。(僕が最近考えた事っていったら・・・・・恥ずかしくて言えません。) 僕って本当に大学生? そういえば今年は死ぬほどレポート書いたよ。(全部インターネットからパクッたやつだけど・・・・・) 進級できるんかな。でも1年目に一度も大学に行かなかったのに、なぜか3単位くれたから、きっときっともっともっといっぱい取れるよね。

   9期生の人達、これ以上差をつけないでね。

   10期生の人達、置いていかないでね。

   11期生の人達、順調にいけば一緒に卒業です(あれ?)

 じんの君へ。

   就職おめでとう。お世話になりました。

   僕らしい作文って、どんな作文ですか? これは僕らしいですか?

   なんで競馬当たらないんですか?

 最後まで変な質問でごめんなさい。これからも今まで以上に頑張ってください。塾生のみなさんへ。

死ぬ寸前まで勉強してください。

たとえ受験に失敗しても何か得られるはずです。

(今年の目標; すすきの卒業)

前田 崇
    

1991年度作品(嬉野中2年)

 先生はよく酒を飲みなが授業をする。この前も酔っ払って塾に入ってきて隣に座っていた清水がなぐられた。ざまあ見ろ!と思ったが、俺もなぐられるかと思って怖かった。

1992年度作品(嬉野中3年)

 先生の特徴・・・・・1;性格が悪い。2;酒癖が悪い。

 その1より。先生が言った。「前田、杵(きね)で餅ついとんの嬉野くらいやろ」 このように嬉野をバカにします。すかさず追い討ちをかけるように、松本「嬉野は田舎やもんな。電気通ったんか!」 健チャン「嬉野通った時、山と田んぼばっかりやったで!」 俺「アホ! 中川駅のほうが久居駅よりホームが多いぞ!」 松本「乗り換えで降りるだけやねーか。やっぱり田舎!」 しかしながら6年後には関東大震災なみの大地震が東海付近を襲うらしい。そうなればNKKアパートはぶっ飛ぶやもしれない。やっぱり木造建築が一番!! さらに将来(だいたい10年後くらい)中川駅は駅ビルになるので20年後くらいには、久居を追い越すくらいに発展すると予想される。

やっぱり嬉野が一番だ!!

 その2より。このことについては中山君と岸本君の作文を読まれれば、おわかりになられると思います。

追伸 清水君へ。

スーパーファミコンをしてお母さんを

          困らせるのはやめましょう!!

1993年度作品(津西高1年)

 「おお!心の友よ」 ( by ジャイアン)

 僕は黒い部屋(注;古い塾の2階の男子の部屋)で数学をやっていた。清水君が章貴君の所へ問題を聞きにいった。清水「ちょ、これ教えて」 奥田「俺もまだやってないわ。隣に堀さんがおるから聞いてこいさ」 松本が言う。「おまえ、恥ずかしいんやろー」 清水「ち、ちがうわ」 奥田「そやったら、はよ聞いてこいよ」 仕方なく清水君は隣の部屋の入り口のところまで行った。だが、また戻ってきて章貴君に言う。「ど、どおやって聞けばええの?」 顔は泣きそうだ。奥田「そんなんも分からんのか。普通に聞くんやわ」 清水君は苦笑いをしているが顔が引きつっている。動揺を隠せないようだ。清水「普通って、どう聞くん} 奥田「**番を教えてください、って言うんやわ」 清水「わ、わかったわ」 そして再び隣の部屋に行った。だが、また帰ってきて「だれか聞いとるであかんわ」 今回は顔がホッとしている。松本「待っとって聞けばええやろ」 清水「また森本健介が来たら教えてもらうでええわ」 そう言って、また違う問題を解き始めた。(この物語はノンフィクションです)。・・・・・完。最後に、この塾の鉄則です。

NEVER PUT OFF TILL TOMORROW

                 WHAT YOU CAN DO TODAY.

1997年度作品(早稲田大学1年)

 春になる。受験生にとって一番つらい冬が終わる。春は今まで頑張ってきた受験生のためにやって来る。高3の清水・波多野・小林には夏休みに日本史を教えた。富永と越山からは問題集などの相談のための連絡があった。中3には分からない問題を教えたりした。みんながよく頑張っていたと思う。みんな合格してほしい。

 春になる。受験が終わったら、みんなで飲みに行こう。東京に来る奴は『つるや」の蕎麦を食べに行こう。

春よ、来い!

1998年度作品(早稲田大学3年)

 夏休みが終わりに近づいたので、東京に帰る挨拶をしようと塾を』訪れた時、先生が「この本ええぞー!」と言って、一冊の本をくれた。この本『神々の山嶺』には、羽生丈ニという天才登山家と深町誠というカメラマンが登場する。羽生は自分の最後の登山で、誰もが危険すぎて不可能だと考えるエベレスト南西壁からの単独行に挑戦する。羽生と偶然に知り合うことになったカメラマン深町は、この生死を賭けた挑戦をカメラに収めたいと思い、彼の背中を追ってエベレストに登る。この小説を読んでいたら、俺は羽生丈ニが越知先輩で深町が自分のように思えてきた。高校3年間と浪人の間、ずっとあの人の背中を追い続けて勉強していたような気がする。俺が勉強に身に入らなかった時、励まし、怒り、殴り、蹴り倒してくれたのも越知先輩だった。その先輩もとうとう卒業である。もう蹴られなくてすむと思うと涙が出るほど嬉しい(?)じゃなくて、寂しい気がする。社会人になられても、また先輩の毒舌を聞きながら酒が飲みたいです。卒業、おめでとうございます。

 さて、この小説の中に「どうして山に登るのか?」という問いが出てくる。「そこに山があるからだ」・・・・・今までは、この答がセンスがあっていいなあ、と思っていた。しかし羽生丈ニはこう言い放つ。

「ここに俺がいるからだ」

 このフレーズを読んだ時、背中が震えた。そして3年前の広告、中山君(智洋・6期生)の作文を思い出した。「なんでここまで必死になって、勉強して大学に行くのか?」 この答が分かったような気がした。それは自分の力と誇りと存在を確かめるためなのだ。「ここに俺がいるから」勝負するのだ。「ここに俺がいるから」受験するのだ。だから塾の生徒には、誰が背中を見ていようと自分の全てを賭けて勝負してほしい。そして合格発表の日には、それぞれの頂上に登りきったみんなの姿があることを願っている。

                 以後、作業中

鼻谷年雄

 1991年度作品(南郊中3年)

 今日は1月12日、三進連第6回の前日であり、この作文の締めきりでもある。こういうものは普通家で書くものなのだが、どうにもはかどらないので塾でやっている。ここに居ればそのうち何かが起こるだろうという、行き当たりばったりな考えである。しかし、みんな机に向かって黙々と勉強している。こんな時に隅っこで一人作文を書いている自分を情けなく感じるのは気のせいだろうか。その上、すぐ近くで勉強していた向井君がいきなり近寄ってきて「何やっとんの?今ごろ」と僕をあざけり笑う。あまりのタイミングの良さに深く傷つく。ここらへんの残忍さはフセイン大統領もマッツァオである。明日が三進連当日ということで、この作文のネタになる者たちがどんどん帰っていく。残ったのは橋南と嬉野が2人ずついるだけである。では、ネタがなくなったので今日の生中継はこのへんでさよなら・・・・・といくはずだったが予定が変わった。少しの間だけしゃべらしてください。

 僕は2学期も終わりに近い頃、379ページの英語を写す宿題を期限切れで遅らせてしまいました。ごめんなさい。しかし、16時間寝たっちゅうのは、なんや、オイ !  寝させられたっちゅーほうが正しいんやないか、コラ。書き写しをしていたある土曜日の夜、あの時のことを忘れたわけではあるまい。

 「向井君、まだ終わらんの? 先に帰るよ」 「いや、ちょっと待って。もう終わるから、あと20分」 「うん・・・・・しゃーないなあ」 (20分後) 「向井君、まだ?」 「あと、ちょっと」 (1時間後) 「向井君、ええかげんにせえよ」 「もうちょっとやって」 (1時間30分後) 「向井君・・・・・」 「まあまあ、あと1ページ」 (2時間後) 「4時(午前)やぞ。お前、何考えとんのや」 「ははは、まあまあ」 ・・・・・その次の日、僕がフトンから目覚めると夜だった。次の奴、倍角で。

向井のクソったれ!!!

1998年度作品(駒沢大学5年)

 5年前の初春、高校生活を締めくくる最後の勝負。客観的に相手との強さを測る模試の判定は「E」。勇敢な特攻にもならない。ただの身のほど知らずだ。

 以前、高校受験という人生ではじめての真剣勝負に大殊勲を挙げた僕は、その日から塾を離れ、勉強を止め、その余韻に3年間酔い続けた。勝ちに免疫のない劣等性が、一度頭に乗ると底がない。周囲の心配をよそに呆け続け、成績は順調に転がり落ちていった。そんな僕を現実に引き戻したのが、高3の春に迎えた部活の引退だった。「部活をやっているから勉強をしない」 自分への言い訳が通用しなくなった。威張ってもいいが、僕はその時、高校のほぼ全教科のテストで赤点をもらっていた。それでもなんとかなるだろうと図書館に通い始めるが、勉強すればするほど自分の馬鹿さ加減を思い知る。ただ、絶望はしなかった。おめでたい性格である。

 塾には戻りづらかった。こんな姿を見られたくないし、おそらく、これ以上の現実を叩きつけられるに決まっている。子供の頃からのつまらない意地と根っからの臆病のおかげで、孤独な闘いを強いられることになった。

 第一志望の大学以外は受けなかった。それが当然だと息巻く反面、余計なことをして自尊心をますます傷つけるのが怖かった。根拠のない勝利への期待と、肥大する敗北の影。勝負はすでに無意識の中でついていた。試験場には太刀打ちできないと分かっている相手と対峙することで、見せかけの潔さに身を隠そうとする自分がいた。

 『れいめい塾』は、今でも時々遊びに来る僕を許してくれる。でも、次々と変わる顔ぶれや話題にはさすがについていけない。その度に、いつもここにいられる受験生達を、少し羨ましく思う。受験という現実を見つめ、それに立ち向かうのは当たり前のようですごく大変だ。だからこそ、仲間がいることは心強い。馴れ合いじゃなく、蹴落とし合いじゃなく、自分の目を開かせてくれる仲間がいることを、どうか忘れないでほしい。

菊山善久

1987年度作品(立誠小5年)

 先生に気やすくしゃべれる。先生の教え方がいいので、すぐ理解できる。

1988年度作品(立誠小6年)

 きやすくしゃべれる、友達みたいな先生だから、びびらなくてもいい。どんどん塾に入ってきて!

1990年度作品(久居東中2年)

 小林「あの塾、いつもROCKが流れとんなー」 菊山「この塾では、それが普通なんやねえかー」 小林「俺、まだ入ってから少ししかたってないで分からんけど、メチャメチャ自由やなー」 菊山「おお、なんでもコピーしてくれるし、真夜中でも先生おるで教えてもらえるしなー」 小林「広告にこんなこと載せてもええんかよ」 菊山「ええんちゃう。俺、この塾に入って4年になるけど、一回も誉めてもらってないでー」 小林「ラッキー!」 菊山「他の人も誉めてもらってないけどさぁ。やっぱり一回くらい誉めてもらいたいなー」 小林「厚かましい男やのー」 菊山「これで大体塾の様子、分かってもらえたんじゃない」 小林「分かるわけないやろ」 菊山「まあ、ええやろ」

 この塾を『めいれい塾』と思っている人が多いようですが、『れいめい塾』です。その辺、よろしく。

1991年度作品(久居東中3年)

 僕から見れば『れいめい塾』は勉強部屋といってもよい。かってに来て、かってにコピーをして、かってに帰っていく。これが僕のいつもの日課である。分からなければ本で調べ、それでも分からなかったら先生に聞くが、先生にまで聞くような手こずる問題はほとんどない。その、たまに聞きたい問題があっても先生がいない時がある・・・・・と、いったように先生もえらくエエカゲンである。こういうエエカゲンな塾で5年目を過ごそうとしている。なぜエエカゲンな塾に5年も通っているか?というと、理由はない。ただ、いたいからいるだけである。はっきり言っておくが、この広告を見て入ろうかな、て思っている君! 君が一番変態である。この広告は単なるア・ソ・ビ・・・・・次は奥田邦博方式で頼みます。

かおりちゃん、なんで小林ふったんや!

     (ふられても、ふられても、小林は君のことを忘れない)

1992年度作品(津高1年)

この塾、入るべからず。

1993年度作品(津高2年)

 この『れいめい塾』の広告に手を染めて長い年月が経過した。小学5年生に入塾してから、以後今日まで7年間に近い時が流れた。この間、日本も変わり、『れいめい塾』も変わり、生徒数においても劇的な変化に見舞われた。新しいコピー機も相次いで導入され、何よりもまず「いい塾で、できるだけ安いところに」という日本の家庭を駆り立ててきた行動理念が入れ替えを迫られている。「いい塾で、できるだけ安いところに」を実現する方法としては、ドンドン生徒を入れドンドン生徒を送り出すという量的効果追求の日本方式は、明らかに指導先生方のエネルギーの限界の壁に突き当たった。「教育条件」においても、いかに高価な製品といえども、それがひとたび生徒にとって良いものであったとしても「塾の条件」に対してマイナスに働くことが分かれば・・・・・・字数制限により省く・・・・・・さて、読者の方々はすでにご承知のように『れいめい塾』の広告は、これまで緑一色で印刷され、装丁の第一人者といわれる中山**(**はちょっと分からない)の作品である。続く来年も同氏の労に負う。筆者にとって、これに過ぎる喜びはない。また、これは『れいめい塾生』の温かいご尽力のもとで誕生したものである。ともに記して深く熱く感謝申し上げる。

 

1996年度作品(同志社大学2年)

自分の進路を人に決めさせるな!

                 以後、作業中。

 

古西伸崇

1997年度作品(西郊中2年)

 僕が『れいめい塾』で身についていくだろうと」思うこと。それは学力&タバコの匂いです。

1998年度作品(西郊中3年)

 宴の準備は大事だが、宴の後にも気が抜けぬ。

1999年度作品(津高1年)

 1年前、俺は高校受験に成功し、土に眠る球根となった。そして今にいたるまで、それなりに手を抜かず、土中の栄養を吸収し続けてきたつもりであった。しかし外界の空気に触れることはできなかった。つまり甘かったのだ。栄養だけでは芽が出ない。水やその他の物質も同時に吸収していくのだと悟った。塾という小さな世界の中で最も芽を土に近づけているという優越感に浸っていた自分が情けなかった。ひとつ外の土地に足を踏み出せば、芽はおろか立派な茎を伸ばし始めているという現実を知った。今からでもその者達に追いつき、追い越すことができるはずだ。他者の分の栄養を吸ってでも成長して行こうと思う。「弱肉強食」・・・・・この世界を生き抜き、太い茎を伸ばし、あらゆる分野に長い蔓をからませ、2年後には誰にも負けないくらいの大きな花を咲かせてみせる。

               2000年度作品、作業中。

 

 

 

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塾頭のリード文(1990〜1993年)
塾頭リード文2001年
2000年 広告「25時」作文
2000年広告追加
2000年広告 生徒作文
2000年登場人物
2006年度広告
CHARACTERS IN 2005
2008.12.31大晦日広告
2009.1.16センター直前広告
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