塾頭リード文


1990年度 広告リード文

 今年一番の寒気団が日本海を覆いつくし、北陸では豪雪が続いている・・・・・・テレビのニュースで伝えている。

 大阪での広告や雑誌の記者など、飲んだくれの日々から一転、福井の中央市場で午前3時から午後6時まで働くというストイックな生活。青春のモラトリアムもそろそろ終わりにしようと、雪の降りしきる日本海に別れを告げて久居に帰省した日・・・・・・。あの日から4年が経過した。

 キャスターを吸いながら、音楽を、ロックを1日中聴いていたい・・・・・・『れいめい塾」は、俺のそんな不純な動機から生まれた。塾としてのコンセプトはこれといってなかった。ただ、パワフルでノリのいい、俺自身がスウィングできるような塾にしたい・・・・・・それだけで今日までやってきた。

 予想に反し?四年間も塾が続くと、それなりの実績ができてしまう。「音楽を塾の中で流すのは、何か先生の意図でも?」などと質問される機会も増えた。好意的に取られてしまうと、逆に恐縮しちまう。単に俺が聴きたい・・・・・・それだけの理由なのだ。

 去年のコード番号1・石田智洋が言っている。「どのような環境でも勉強はできる」 至言である。

 しっかりしている生徒と、いいかげんな塾の先生・・・・・・この構図により『れいめい塾」は活性化し続けてきた。俺のどうしようもない部分を見かねて、生徒達は自分の家から塾の中へ密航してきた。

 今年の3年は『れいめい塾』を、自分達の『梁山泊』にした。

1991年度 広告リード文

 ウチの中3の連中へ・・・・・・。

 2月3日。多分テメエラは高田高校入試を数時間後に控え、緊張感がヒタヒタと身を包み込むような時間を過ごしているだろうと思う。そんなオメエ達に反し、いいかげんな塾の先生である俺は今から大阪へ向かう。大阪ニューオータニホテルでのダチの結婚式に出席するためだ。「こんな大事な時なのに、もう!」と千佳子は怒り、菊山は慣れているから平気さ」とウソぶくやもしれぬ。いいかげんな先生であることは先刻承知のはず。「しゃああんめい」と許していただきたい。しかしながら俺のダチの中でも「絶対にこ奴だけは一生独身」と確信していた浦川が結婚するんだ。このことを祝わずして何を祝う! 浦川の結婚を見るにつけても「努力する者は報われる」という鉄則をバカにできない・・・・。テメエラも気迫だけを武器に今日の勝負をシノギきってほしい。なにしろ実力がねえんだから気迫だけで勝負するしかねえわけだ。今日の結婚式で飲む酒は浦川の前途を祝う酒であるのと同時にテメエラの前祝いに酒でもある。俺は気迫を込めて飲んでくるつもり。・・・・バイヤ・コンディオス!

 UWFが崩壊した。第1期UWF時代から見守ってきた1ファンとしては痛恨の極みである。あれほどの隆盛を誇ったUWFにもかかわらず、崩壊時には「道場」がない・・・・かつての新日イズム、猪木イズムの神話が「道場」から生まれたことを考えると「道場」をつくることを怠ったUWFはプロフェッショナリズムの旗を掲げたものの一貫性がなかったと言え、このことが崩壊の遠因になったような気がする。

 昨年の暮れよりウチの塾は2階を借りることになった。プロレス的に言うならば、1階が後楽園ホールであり、2階と自転車置き場に設置されたテントが「道場」となる。新日本プロレスの道場を取り仕切った鬼コ^チは山本小鉄であった。ウチの塾の鬼コーチはドグサレの高校生達である。「どアホ!」「ボケ!」・・・・2階で中3を教えている横山と辻本から発せられる怒号が1階にまで聞こえてくる。ええかげんな先生(決してアントニオ猪木であるとは言わない)である俺の対極に、こ奴らが位置することでウチの塾は依然として活性化し続けていく。活性化し続ける・・・・つまりはロックなのだ。泣く奴が出てくるほどにシゴかれている今の中3も言わば山本小鉄予備軍となる・・・・。俺達は「家族」なのだ。

 5年目にして念願の「道場」を持ったものの、俺は東京ドームに進出する気もなければ、WWFと提携する気も毛頭ない。今でも俺は第1期UWFが後楽園ホールを沸かせた佐山サトルVS前田日明戦のモノクローム色の感動を忘れない。つまりはタバコで変色してしまったこの部屋が、俺にとっての永遠の後楽園ホールとなるわけだ。

 UWF崩壊の原因はフロントの神社長とレスラー前田の金銭面その他のトラブルであったという。思えば、神の長男の名付け親が前田であった。ともに若かったあの頃、二人が同じ夢を抱き、第二期UWFを発信させたはずなのだ。その二人が蜜月の日々を過ぎ、今では法廷闘争に入るやもしれぬ状況・・・・。

 かつて俺はUWFのような塾にしたいと「UWFに負けるな!」との年度目標を掲げた。そんなUWFでも結局は「家族」とはなりえなかったわけだ。この厳しい現実を見据え、俺は「梁山泊」ならぬ、この「れいめい塾」を舞台に「家族」であることを目指す。「道場」を持ったことが、その実現への第1歩となる。かつてのUWF信者であった俺が、UWFにできなかったことをやってやろう・・・・今、俺はそう思っている。

1992年度 広告リード文

 かつて売れない雑誌の記者をやっていた頃、当時の売れっ子作家、売野雅男(代表作には中森明菜『少女A』)にインタビューをする機会に恵まれた。彼は言った。「僕にね、『僕も作詞家になりたかったんですよ』なんて話しかけてくる人がたくさんいるね。僕はそれに対してあっさり言う。『才能がないと思いますよ』と。つまり『なりたかった』は、もうあきらめ、才能がない。過去形でしか語れない人は才能がない。才能がある人はね、『今はこんな仕事やってますが、いずれ作詞家になります』と言う。世間がどう言おうと勝手。『なりたいんだから』という主張がはっきりしている。こういう人は才能がある。つまりね、才能なんて意志の持続力と、何かになりたい!というパワーでしかないの・・・」

 この時の原稿は結局ボツになった。しかしながら3時間ほどのインタビューのなか、このフレーズだけは10年後の今もなお、俺の心の奥底に焼きついている。

 「僕、2群に行きたいんですけど・・・」と生徒が言う。「オマエの実力じゃ無理さ」と俺は言う。「やっぱり・・・、担任の先生にもそう言われました」と言って、このバカはうつむく。翌日、こ奴は言う。「先生、2群諦めて津東にしました」 俺は「そうか。で、なんで津東にしたんや?」と尋ねる。「2群で勝負して落ちるのはイヤだし、津東だったらトップのほうにいられるし・・・」と、このバカは宣う。「なるほどな、まあ賢明だろうな」と俺は言う。そして心の中でつぶやく・・・バカか!テメエは。津東をなめるな! 自分の行く高校をなめるな! 男のくせにハナッから分かってる勝負をしやがって! 傷つくのがイヤだから津東へ行くって? そんな腐ったオマエにトップが張れるかい! もし本当に2群に行きたいのなら、誰がなんと言おうと「勝負」なのだ。現在の自分の実力と2群のレベルに開きがありすぎるって? ボケ!だから努力するんだろうが!

 かつて凍てつく冬の夜、塾から机を持ち出して外で勉強をやらかした奴らがいた。邦博・横山・臼井・越知など、今ウチの2階に巣喰う高2のバカどもである。理由は至ってシンプル・・・外だと眠らない・・・。確かにシンプル、かつアホ(大阪流)である。俺はこの行為をROCKと称した。生徒だけにええカッコはさせられない。負けず嫌いの俺もまたラジカセを担いで外に出た。風が強いとプリントが飛び、皆が大騒ぎで追いかけた。雨が降ると傘をさして勉強した。これを見かねた俺は大家さんには事後承諾で農業用ビニールを自転車置き場に張った。これが今も残る悪名高きテントの由来である。

 この行為を見て良識ぶった大人達は言う・・・。あんなヒドイことさせて! 睡眠時間まで削って勉強しても能率上がるのかしら? 風邪でもひいたらどうするの?

 憎みべきは現代人最後の宗教・・・健康とやらである。ウチのバカどもが勝手にやってんだ。バカがバカなりに工夫して身体を張って勉強やってんだ! テメエで勝負してない傍観者風情が、くだらねえ世間の常識とやらを振りかざすんじゃねえ! 森下郁男を見てみろ。この寒い中ででも眠っていやがる! 森下! おい! こら! 起きろ! 

 こんな中から三進連大地区順位3000番スタートの横山がのし上がってきて、遂には俺の後輩・・・津高なんぞに入りやがったわけだ。それに続く中3の連中・・・菊山・折笠・向井・千佳子などもまた、外へ外へと飛び出していった。オマエラ!よっぽど俺とおるんがイヤなんか! 千佳子なんぞ、前年の横山どころじゃねえ、大地区順位4000番スタート。正真正銘のバカから、奇跡的に補欠というオマケまでもらって?津西なんぞに合格しやがった。

 そして今年の中3・・・・。現在の中3は中学校入学当初より、こんなバカどもを見て育ってきた。頼りねえ塾の先生が「勉強しろ!」なんぞと連呼したところで大勢に影響はない。こ奴らの心を駆り立てるのは、かつて塾の外で勉強していた先輩連中の姿・・・あの震える背中に宿っていたはずの「荒ぶる魂」なのだ・・・。

 月曜日と木曜日は塾の1階が中2で溢れる。2階もまた高校生で埋め尽くされる。そんななかを中3の連中がやって来る。前田・松本・森本・アキ(邦博)・中山などいつものメンバーが顔を揃え、塾の外の机やらテントの中やらとベースキャンプを築いていく。そして俺は外の奴らにも聞こえるようにと、ステレオのボリュームを上げる。甲斐よしひろがシャウトする・・・・2年前の凍てつく夜空、あの時にも流れていたはずの曲をだ。

    僕らは飛べない鳥じゃ なかったはず

    翼を広げたら きっと飛べたんだ

    僕らは飛べない鳥じゃ なかったはず

    君は翼があることを知って怖たったんでしょう

                      (ポップコーンをほおばって)

 今日、2月2日、高田高校入試・・・・。去年の4月から「れいめい塾」というトラベリング・バスでツアーを続けてきたウチのバカどもの初ライブである。こちとら、今日の今日まで勉強なんぞ教えてきたつもりはねえ。俺がテメエラに教えてきたのは、勝負ごとに対するスピリチュアルなパワーと気迫! 他人様には実力でかなわないぶん、パワーと気迫だけを武器に今日の勝負、絶品のライブを見せてきやがれ!

荒ぶる魂の子供達に幸あれ。

 

1993年度 広告リード文

 正月休みは箱根駅伝をテレビで観戦することを常としている。2年前の箱根駅伝、1年生ながら「花の2区」に抜擢された櫛部は大ブレーキ。残り300メートルを夢遊病者のように歩き、1位から14位に転落。そして名誉挽回をかけ臨んだ去年もまた区間9位・・・。そんな櫛部が今年は1区に登場。区間新をマークし、早稲田往路優勝に貢献する。そして5区を走った小林もまた去年の箱根駅伝、山下りの6区で地獄を見た。足のマメがつぶれ血染めのシューズで残り30メートルをはいながらタスキを渡した。その小林が今年、早稲田の往路優勝のテープを切った。それに対し順天堂大のエース本川が大ブレーキ。去年、山梨学院大のオツオリを涼やかな表情で抜きさった本川。抜くことが当たり前、過去一度たりとも抜かれたことのなかったオツオリを鮮やかに仕留めた最初で最後の男、本川。その本川が1年後の今年の箱根で苦痛の表情を浮かべながら「花の2区」を走る。やっとの重いでたどり着いたゴールは時差スタートを切ったばかり。自分のタスキを渡すべき相手がいない・・・・。歓喜と絶望・・・交錯する勝負のアヤ。

 大阪で暮らしていた頃、その当時スパルタでつとに有名であった某進学塾でヒョンなことからバイトすることになった。ヒョンなこと・・・それはミナミの雀荘で俺の漏らした一言から始まった。

 「マージャンを点棒のやりとりだとしか思えない人は永遠に弱者である。マージャンは運のやりとり。点棒の流通は誰の目にも見える。が、運の流通は見えにくい。だから多くの人は運を無視する」

 別に俺の考え出した台詞ではなく、阿佐田哲也の小説からパクッたものだった。そんな俺に初老の紳士が口をはさんだ。「じゃあ小僧、その考えを進学塾に置き換えて言えばどうなる?」 その頃、高校生の家庭教師をしていた俺は気負い込んで答えた。「マージャンも入試も勝負事として考えれば同じこと。点棒が模試の成績で学校の進学指導はその点棒を数えて決定される。塾としては、いや塾こそが、その生徒の運を見極めるべきなんや」 生意気盛りの俺の台詞をどう誤解したのか、翌日から俺はその進学塾でバイトすることになった。

 以下、作業中。

 

 

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