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内憂外患

2005年1月 第二章

「今日はお酒を飲みにきました」と甚ちゃんがファミマのおでん持参で登場。
甚ちゃんは公務員試験の勉強で古い塾で勉強している。受験生モードに切り替えた以上は誘惑が跋扈している新しい塾では過ごしにくい。しかし大西君が奈良からやって来る週末だけは新しい塾に姿を見せる。こりゃめずらしい・・・古市が北海道旅行で買ってきた日本酒は昨夜のサンマの間にあらかた俺が 飲んでいる。1階で勉強していた娘のめい(津東1年)を捕まえる。「お金持ってるか」「2.000円くらいなら」「頂戴」「・・・貸してあげるんだったらいいよ」「ああ、それでいい。貸してくれよ」 娘から金をふんだくって24時間営業オークワに走る。(13日1:15)

亜矢歌の性格を甚ちゃん心配している。俺が松阪担当という情報は古い塾にも伝わっているようだ。
「やっぱ亜矢歌は英語を170点取ったとしてもできなかった30点に悔いを残すタイプ、先生が松阪へ行くという気持ちは分かります」 最近は古い塾で過ごす甚ちゃん、亜矢歌や良太や真歩に関しては俺よりも情報量が多い。「良太はセンター試験を受ける気配がないんですよ。私立大学の過去問題ばっかやってますね」「それならそれでいいよ。隼人みたいにセンターで立命館を攻略しようなんて色気もないだろうし。ハナっから志望大学の青山学院命で結構。でも、竹中はセンターは絶対にテンションを高めるうえでも受けておいたほうがいいってよく後輩に講釈垂れてたけどな」「でも今年の高3って変ですよね。古い塾の電灯が点かなくなっても、そのままほおっておくんですよ。古い塾で勉強するようになって、こいつらよくこんな環境で勉強していたなって・・・呆れるやら驚くやら」

いつのまにか寝逃げしたような気がする。「さあさあ先生、家に帰るのか、塾のベッドで寝るのかどっちにするんですか」と甚ちゃんから叱咤されていた覚えがある。そしてベッドに潜り込んだ・・・「じゃあ電気消しておきますよ」と甚ちゃんの声。それからそして次の映像・・・松原が俺の顔を覗きこんでいる。「先生、送っていってください」ときたもんだ。なるほどね、時刻は午前5時前・・・センターまであと二日か。(13日6:00)

センター試験当日に風呂に入ろうと決心していたものの、奥さんの家庭内迫力に推されて結局は今年2回目の入浴となる。(13日17:00)

征希が仕事姿で姿を見せる。今日は上路さん(4期生・主婦)とこのおばあちゃんだったとか。「ところで先生、俺は松阪か三重大か、どっちでもいいから指示してよ」と征希。「あ、そうか・・・アンタは亜矢歌の漢文の先生や。松阪ていう方法もあるよな」「まあ、松阪の道はまったく知らへんけどな。でも・・・」「なんや」「亜矢歌のあの性格や、普通やったら三重大に居座ってる先生が行ったら・・・」「亜矢歌は逆にプレッシャー感じるってか」「たぶん・・・」「分かった、じゃあ征希に松阪頼むわ。段取りは松阪大学の駐車場に車を止めて2限目の地歴終了後に亜矢歌と岩澤と隼人を連れてガストあたりで昼食。隼人と岩澤の三重高コンビは採点で高校へもどらなアカン、昼食後に二人を三重高に戻して再びガストにユーターン、生物が始まるまでの時間は亜矢歌と過ごす。そして生物の試験開始までに松阪大学まで送り届けてジ・エンド」「わかった。それとな、先生。邦博が近いうちに名古屋へ出張してくるらしい、それも3週間ほどや。週末には三重に顔を出すから接待の準備をしとくようにやってさ」「誰の接待や」「邦の」「そりゃえらいこっちゃ、マージャンで古西から突っ込まれるようなチョンボする奴っちゃで。メンバー考えやなあかんな」(13日17:20)

陵が午後6時半にやって来て英単語の試験が始まる。今日は第4回目の試験、A4サイズに180単語が打ち込んであり、それを発音して意味を言っていく。陵の英語は軟らかい、3年後、いや2年後には英語が必殺技になる予定。

去年、陵と兄貴の隼人を連れて菊山の京都大学入試を見に行った。陵は勉強はよくできるが下品じゃなかった。なんとか受験生特有のドロッとした生臭さを肌で感じて欲しかった。狙いは京都大学一本・・・。
陵と隼人の大学入試には城陽市にある親戚の家から通える大学を受けるという条件がある。城陽市から一番近い大学は田辺にある同志社大学。隼人の本命。しかし三重6年制とはいえ、怠惰な生活を送ってきた隼人にとってはハードルが高い。
1年前、これからの1年間に全てをかける隼人と、勉強はできるものの気迫の足りない陵の好対照な兄弟をつれての京都大学巡礼、果たして功を奏すか。

隼人もまた今日の弟の陵のように英単語の反復からウチでの受験勉強は始まった。毎日高校からの帰りに塾に寄り、マンツーマンで英単語を覚えた。日本史は後回し、一番時間がかかる英語から。この時期の日々の腹筋が半年ほどして効果が垣間見えるようになる。そして国語では大西君の授業、古典は英単語と同様に俺と源氏物語を読む日々が続き、2学期の後期に国語の成績が急上昇し始める。この段階で立命館との距離は射程内、目指すは同志社という流れになったと踏んだ俺。しかし11月に返却された日本史の成績を見て愕然とすることになる。江戸時代まではそこそこの仕上がり、しかし明治以降がまったくの手つかずであることを知る。
古い塾で勉強していると受験の全体像というものが見えなくなるときがある。勉強はしているのだが、計画性のない一人よがりの勉強に埋没していく。隼人がそうだった。立命館や同志社を攻略するには日本史なら偏差値65は欲しい。そこに英語も65、国語は60以上という展開。英語と国語はなんとかそのハードルを越えようとしていた。しかし最も安心していた覚えるだけの日本史が偏差値50台を低迷している。至急日本史の成績を上げる必要があった。隼人の新しい塾通いが再び始まった。

俺の心の中で、陵の受験大学は京都大学と決めている。今から2年後、かつて菊山へ敢行した陣中見舞いを、今度は兄貴の隼人を連れもって行うつもりだ。その日のために毎日180単語の試験が続く。(13日18:50)

愛がたずねる。「明日の送り出しは何時からですか」「毎年8時くらいのスタートを目指してるけど、いつだって9時くらいにもつれ込みますわ」「ところで私と龍さんは古い塾へいつから行くんですか」「英単語の試験で合格したんや。いつだってええよ」

平田が「今から文系にいかれへんかな」と、きな臭いことを言い始めたのは5月の連休明け。文転はコンビニで売るくらいよくある話だが、さすがに文系から理系へというのは滅多に聞かない。まあ、俺くらいのもんかな。その場では一笑にふしたものの、お母さんから電話をいただく。「今からでは理系に進むのは無理でしょうか」 つまりは平田個人の問題ではなく、一家をあげての問題となっている。「私もお父さんも技術や資格を持って生活しているので、小さい時から資格を持ってくれればなあと思ってたんですけど・・・まあ、こんな時期になって先生にご相談するのは筋違いだとは思うんですけど」「できれば彼の資質を踏まえて理系へと誘ってほしかったですね、高校の先生方には」
現実問題としては、まず理科を増やす必要がある。平田は生物を取っているから物理はともかく、化学か地学。理科は暗記勝負でそこそこいけるが、数Vをどうするか・・・これが一番のネック。結局は、今から理系に変更するのがいかに大変かを説明してお母さんとの電話は終了。しかし数日後、古い塾からは平田が化学の勉強を始めたとの噂が届く。慌てた俺は平田を新しい塾に呼び出す。

「どうしても経済学部や法学部では自分の将来のイメージが沸かへんねん」「だからといって理系に進むってな、オマエ。今の流れなら名古屋大学が見えている。名古屋に入ってから自分の将来を考えたらあかんのか」「うん・・・やっぱり文系では・・・」「そりゃ俺がおまえを教えた時に言っただろ。理系に進むべきだったって。高2の秋に文系に進学を決めたのはおまえやん」「それはそうやけど、あの時はそんなに深くは考えてなかったから・・・」「で、理系に進むにしても学部をどうするんや」「今Kら数Vは無理かな」「現役で合格したいんやったら無理にきまっとるわ」「となると理科2教科を使って数Vのない学部・・・」「理学療法系とか薬学部とかやな」「そうか・・・う〜ん、どうしようかな」「どうしようかなっておまえ、やっぱり理系に転回すんの」「うん、どうしても・・・」「まあ、おまえの人生や、とにかく化学から潰せ。タイムリミットは迫ってる。今月と来月の2か月でなんとか偏差値50に持っていけ」

全ての時間を化学一色に塗りつぶして平田の5月は過ぎていく。そして模試が返却された。化学の偏差値が63、これには呆れた。他の教科はろくにやっていなかったはずだが、英語や数学は60を軽く越えていた。当然にして津東学年順位は理系で1位。「今まで理系で1位やった子、かわいそうやな」と隼人。「ほんまや、それも自分の将来をまったく考えていなかったこんなタワケに1位を取られてな」 平田は苦笑しきり。しかし、何か違和感がある・・・。文系では自分の将来の職種決定ができない、ここまではいい。だから理系に変更・・・これもいい、むしろ純粋だ。真摯に自分の将来を考えている。しかし理系ではあっても数Vを取れない以上、学部はかなり絞られる。つまり建築や土木、理学・情報系などはハナッから選択外となる。これって不純じゃねえか。職種決定へと繋がる学部決定に関しては、それこそ自分の選択教科を一切考慮に入れずに考えるのが筋じゃねえか。しかし、現役合格を考えたら数学を勉強する時間はない。やっぱり絞られた中から学部を決定するしかないのか・・・。(13日22:50)

橋本ドクターの結婚式はさながらK1のような壮麗さでありました。広島市内の中心部にこんな立派な結婚式会場があったとは! 2階の広いベランダからは公園が見渡せる。そんなベランダから新郎新婦がつく鐘の音が広島の夜に染み入っていく。披露宴は披露宴で大型スクリーンが、新郎新婦の動きだけじゃなく場内のいたるところを映し出す。
しかし気になったのは新郎の匂いが強い結婚式だったってこと。俺のテーブルには懐かしい北野ドクターと田丸ドクターと中西ドクターが鎮座する。北野ドクター、友人スピーチをするとかで顔色が悪い。「先生、僕ね、冗談じゃなく橋本のことなら三日三晩でも話すことができますよ。でもね、何も見ずにスピーチをしたら、ついつい言っちゃまずいことまでしゃべってしまいそうで・・・。あの滅多に連絡をよこさない橋本からも最近は頻繁に電話がかかってきて、『北野、オマエ分かってるやろな』ってね。本人も分かってるんですよ、俺の口が危険だっていうこと。そんな俺にスピーチを頼むか、オマエってね。だからね、しゃべったらアカンこと、ついついしゃべりそうだから僕のスピーチは書面見てしゃべります。先生はどうするんですか」「俺もさ、昨日やで、婚姻届に新郎の後見人としてサインしてくれって言われたのは」「ああ、式のなかのイベントとしての婚姻届にサインするんですか」「そうみたい、サインだけで終わってくれたらいいけどね」「そりゃ無理でしょ、橋本のことだから何か仕掛けを考えてるでしょ」

北野ドクターの友人挨拶が始まった。「今日はレベル1でいきます」 場内からドッと笑が起こる。一切の女性ネタを消去し、それでも十分に橋本ドクターの人となりを描写しながら進んでいく。「歌を歌うなら若者はカラオケ、橋本はスナック!」 再び沸き上げる笑い声。

俺の婚姻届けのサインは花束贈呈の直前、これもあって俺はなかなか酔っ払えない。恨むよ、橋本ドクター。新婦のおばあちゃんと二人で婚姻届にサイン、式場のスタッフに命じられたところにサインしたものの、式が終わってから場所が違ったからサインし直すことになるのだが。
サインが終わり、会場に向かって婚姻届を広げて見せてお役御免・・・と思いきや、アナウンサーから「中山様は新郎が三重で暮らしていた時の父親のような存在であったと伺っております。ここは中山様から一言コメントを頂戴したいと思います」 そら来た!

結婚式の開始時間までまだじゅうぶんに時間があった。橋本君が俺達夫婦に取ってくれたホテル、広電ホテルから結婚式会場まで2kmほどをぶらぶら歩いた。「娘が誰かのお嫁さんになって、どこか見知らぬ土地に嫁ぐことになったらどうしようかな」と俺はつぶやいた。池田隼人の銅像が俺達夫婦を見下ろしていた。「亜矢ちゃんの両親もやっぱり不安やろな」とまたつぶやいた。「どこだっていいのよ、愛する人がそばにいてくれたら・・・」奥さんの声がした。「だけど橋本君が病院に行ってる間はヒマやぞ」と俺。「亜矢ちゃんのこと、そんなふうに心配できるようになったんやね。あ〜あ、私も久居に嫁いでからの1年間は旦那が滅多に家に帰ってこないので不安だったわ」「男やから女性関係そこそこあるやろ。でもな、亜矢ちゃんを初めて紹介された時、自慢じゃないけど俺のほうが気にいったからさ。橋本君には亜矢ちゃんを大切にしてあげてほしいんや」

俺はマイクを握った。奥さんとぶらぶらと歩いた広島の町並みが思い浮かべた。亜矢ちゃんがこれから過ごす町・・・。
新郎の後見人だったはずが、いつしか新婦の後見人のようなスピーチをしている自分がそこにいた。(14日0:20)

「先生、僕は今年の春で病院に戻りますから長島回生に行かなくなります。ですから頭之宮のお守り、今年が最後になりますけど」と田丸ドクター、俺につぶやいたのは結婚式の歓談中。
「本当に田丸君て優しい子よね」と奥さんが言う。田丸ドクター、いつもこの時期になるとお守りと絵馬を買い、ご利益あるお水を長時間並んでくれたんだろう、ペットボトル2本持参で塾に来てくれる。
今年も8日の昼に登場、しかし閑散とした教室を見回しては怪訝な顔。いつもの中3なら午前中から塾に来ているのがほとんどで、田丸ドクターに一人一人お礼を言って記念写真まで撮るのだが、今年の中3は重役出社・・・。

思えば3年前、田丸君を迎えて記念写真のあと突如「握手をしてください!」と言っては、田丸君の手を握りしめたのは当時中3だった真歩だったっけ。そうか、あれから3年か・・・。

中3の絵馬には、ほとんどの生徒が「志望高校に合格しますように」とあり、これが高3になると「**大学合格」となる。考えてみれば、ウチの20年ほどの歴史のなかで今年の中3だけが具体的な高校名を書かずに「志望高校」と書く学年だ。気が滅入っちまう。

午後11時過ぎになりアキラが顔を見せる。

長沼センセの奥さんから三重大学医学部に学校推薦枠があるのを聞く。閃いたのは平田、これならセンター試験の点数だけで勝負できる。奥さんもまたウチのホームページに目を通していて「津東の生徒さん、理学療法もいいけれど、そんなにできるんならこんな方法で医学部を受けたらどうかしら。前期・後期に加えて選択肢が一つ広がることだし」

12月に入った頃、平田のご両親にご足労をお願いした。その中で俺は医学部進学を勧めた。現在の志望大学である神戸大学ならば偏差値65ライン、しかし同一線上に地方国立大学の医学部が顔を出している。確かに数学Vを勉強していない以上は物理的には不可能。しかし三重大学を始めとして、後期試験でなら勝負できること。ポイントは平田の職業選択の不純さだった。「例えばこのまま神戸大学を受験して理学療法に合格したとします。すると彼は進学するんでしょうか。彼が文系では自分のやりたいことがない、だから理系に変更したいと・・・。無謀です、しかし一時は名古屋大学にB判定が点灯、あのまま勉強していればほぼ確実に名古屋に受かる・・・そんな状況で、名古屋合格まで捨てて理系に変更したい。無謀ではあるけどピュアだと思います。そして理系に転向し、今度は数学Vがないところを探す。それってピュアじゃないですよね。理科を増やして一生の資格ということを念頭に置いての理学療法・作業療法という選択。この選択が彼の一生の仕事を決めるとしたら、ここはようく考えなくっちゃいけないと思います。数学Vさえ勉強すれば、建築や設計、情報から医療系と無数の選択肢のなかで自分の将来を考えることができます。僕もまた無謀を承知でいうならば、長い人生です、1年くらい浪人してもいいんじゃないですか。文系と違って理系は学部選択でほぼ一生が決まります。ここは慎重の上にも慎重を期さねばと思うんですが・・・」
結局、親としては浪人させることはやぶさかではないが、今はセンター試験直前の時期でもあることだしとりあえずは様子を見たいと。センター試験が終わったら、その時には家族で話し合うということで決着が着いた。
ところがそれから数日後、平田が医学部に決めたという噂が古い塾から流れてくる。(14日2:20)

橋本ドクターの結婚式の時、平田のネタを降ると北野ドクターさっそく飛びついた。「文系から理系へと変更ですか、そりゃしびれますね。確かに国公立医学部の理学療法系は半端じゃなく難しい。地方大学の医学部と同じレベルでしょ。それだったらこれからの人生を考えれば、もうひと踏ん張りして医学部で勝負してほしですよね。学校推薦で勝負したらどうですか」「それは長沼センセの奥方からの入れ知恵されたんやけどな、本人に勧めたら高校2年までの成績やったらともかく、5月あたりから理系にシフトしてるから日本史など文系教科はまったく勉強してなかったから評定平均には到底足らないて言うんや」「そりゃ残念、そんなタイプ、医学部に入りたいから文系から理転してまで三重大学を受けたい!なんて言ったらウチの教授の先生方、感極まって涙流しますよ、絶対」「まあ、今のままだと数Vを全くやってないから三重大学医学部勝負だとしても後期試験だけやな」「後期はセンター得点91%ってでてますけどね、あれは県内の学生に関しては少々お目こぼしがあるかもしれない」「それは同級生のドクターから聞いたよ、大学卒業後も三重県に残ってほしいから県内の高校生を優遇してるってネタ」「独立法人化もありますからね、マッチングでも全国で最下位ということだし、ここはチャンスかもしれませんよ」

代ゼミの最終模試が返却された。平田の仕上がりはこれ以上ないという完璧さ。古西がその成績表を眺めながら「感想はどう?」と平田に水を向ける。「まだまだ国語が悪いから・・・それと数学Tかな」「謙虚なコメントやな・・・。俺やったら頭に乗って飛び跳ねてるわ。成績表コピーして塾の壁の張りそうな勢いやけどな」 平田が俺を招く。「なんや」「前に聞いた学校推薦の話やけど」「ああ、評定平均が足らないからアカンだやつか」「うん、あれさ、担任の先生に聞いたらぎりぎりあるって・・・」「え!じゃあ推薦出したらええやん」「でも・・・」「なんや」「明日が締切なんやって」「明日!」 翌日はクリスマスイブの24日。生涯忘れることのないクリスマスイブになりそうだ・・・。

今年の秋から横田の引継ぎとしてウチの塾に講師として参加の徳武(三重大学医学部3年)と朝の9時に三重大学構内で待ち合わせ。徳武先導で医学部の教務課から全学の教務課をまわって必要な資料を頂く。女子事務員が目を丸くして叫ぶ。「締切は今日ですよ!」「わかってます。何時締切ですか」と徳武。「午後5時です」「わかりました」
長い長い一日が始まった。(14日14:45)

田丸ドクターから渡された2枚の絵馬のうち、高3の分が返却されてきた。
「三重大学合格」 真歩
「三重大学に合格する」 亜矢歌
「立命館大学に合格する」 隼人
「立命館アジア太平洋大学に合格する」 卓矢
「三重大学合格!!」 松原
「名城大学合格」 田中
「北大合格」 慎太郎
あと三人の名前がない。今夜の送り出しに来るようなら書いてもらおうか・・・。
さすが中3とは違い、志望大学を掲げていることは好感が持てる。しかし遂に卓矢の志望大学がベールを脱いだわけだ。

卓矢は紆余曲折の末に久居高校に入学した。憧れは久居高校から早稲田に合格したアキちゃん。さっそく高1の部屋に移るや、アキちゃんが座っていた席をベースキャンプとした。アキちゃんと同じく、久居高校進学には心の中で相容れない感情があったと見えて大学入試でのリベンジを考えているようだった。しかし気持ちとは裏腹、同級生の皆から「いつも勉強やってる変な奴」というレッテルを貼られ、それを糧として鬼気迫る勉強にのめり込んでいったアキちゃんほどの雰囲気まではなかった。所詮アキちゃんは卓矢の憧れの対象でしかなかった。
志望大学は立命館アジア太平洋・・・アキちゃんと並んで卓矢にとって尊敬の対象である中井の大学・・・。高校受験の朝、新しい塾に集まった生徒はほとんどが津高受験に向かった。皆の声援を受けて車に乗り込む生徒達を尻目に久居高校に向かおうとしていた卓矢に「がんばれよ」と声をかけたのが中井だった。卓矢の志望大学はそれもあってか、立命館アジア太平洋を掲げた。
「オマエでは立命館は無理だ。何かあったら覚えられない、覚えられないと言い訳ばかり。どんなことがあっても覚えやなどこだって合格せんわい!」と、何度も何度も卓矢を罵倒した。あげく「俺の前では金輪際、立命館の名前を出すな!」とまで言い切った。それ以後、卓矢は俺の前では立命館の名前を一切出さなかった。そして関西外語大学やら京都外語大学の名前が飛び交った。
「でも、先生。あの子は強情ですから・・・心の底では立命館大学のことを諦めていないと思うんですけど・・・」と、お母さんから言われていた。俺もまたそれには同意見だった。単純な記憶に関しては人一倍時間がかかった。なんとか国語を得点源にしてほしいと里恵にマンツーマンでの授業を頼んだ。しかし里恵もまた、指示した漢字をなかなか覚えようとしない、いやできない卓矢に苛立ちを隠しきれなかった。英語でも森下の手を煩わしていた卓矢にとり、やはり立命館は高嶺の花だった。
大西君からも「大阪学院とか大手前ではだめなんでしょうか」とのコメント。関西地区の大学の教授をよく知っている大西君から見れば、この二つの大学は入試ボーダーは立命館クラスから比べればかなり落ちるものの、いい先生方が揃っていると常々言っていた。それに対して俺の狙いは皇學館コミュニケーションか名古屋外語あたり。しかし卓矢のお母さんからは「できれば家から出して一人で生活させてやりたい」とのコメント。これで皇學館ははずれ、そして名古屋外語も卓矢自身の気持ちとしては受けたくないとのこと。ここで暗誦に乗り上げることになる。
そして絵馬に書かれた「立命館アジア太平洋に合格する」・・・。(14日16:40)

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