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初瀬街道

初瀬【はせ】街道旧垣内宿【かいとしゅく】

奈良と伊勢を結ぶ街道のひとつである初瀬街道は、峠の名前をとって「青山越え」と呼ばれたり、麓にある村の名前から「阿保【あお】越え」「小倭【おやまと】越え」と呼ばれていました。青山峠の東坂本にあたる宿場である垣内宿は、峠を越える英気を養うため、また、峠を越えてきた旅の疲れを休めるために欠くことのできない宿場でした。
 江戸時代の末には戸数は70戸以上もありました。伊勢神宮へお参りする人などでにぎわい、旅籠【はたご】(当時の旅館)は常時300人以上の収容能力があったといわれています。屋号も30数戸が知られています。
 江戸時代には島津家久【しまづいえひさ】や本居宣長、伊能忠敬【ただたか】もこの街道を利用しています。ことに文化5(1808)年12月には、伊能忠敬がこの街道を測量し、垣内に宿泊して、後に「初瀬街道図」を完成しています。この「測量日記」のほか、幕府巡検使の来郷やおかげ参りなど多くの人々の往来記録があり、賑わった街道や宿場の様子を物語っています。

現在の垣内宿の様子

青山峠を越えてくると花山橋があります。ここを渡ると正面には垣内宿がありました。
かつての宿も現在は石垣だけが残り、スギ林となっています
常夜灯・・
青山越えの後、垣内宿の入口です。
街道沿いを流れる垣内川・・青山のすぐ麓なのできれいな水が流れています。
常夜灯・・ 石垣です・・昔の賑やかさが伝わってきそうです。


乗渓寺

垣内宿のほぼ中間地点にある寺です。

おかげ参り

江戸時代は長い平和の時期であったため、それ以前の時代とは比べものにならないほど参宮道者の数が増え、しかも、このあいだに突発的な熱気に満ちた参宮ブームがおこったことが数回ありました。
いわいる「おかげ参り」です。あるいは「抜け参り」ともいいました。この人たちは腰に杓をさして、頭には出身地を書いた笠をかぶり「おかげ参り」と書いたのぼりを押し立て「エージャナイカ・エージャナイカ」と唱えながら道いっぱいになってデモ行進する熱狂的な参宮集団でした。
この参宮ラッシュは慶安三年(1650)に始まって、宝永二年(1705)明和八年(1771)文政13年(1830)慶応三年(1867)とほぼ60年に一度の割合で起こっていました。これが起きると沿道では、おにぎり、赤飯、粥・餅・銭・茶・わらじなどの施行(無料奉仕)が行われました。
「一生に一度はお伊勢参りをしたい。」というのが江戸時代の庶民の願望でありましたが、遠国からの参宮は大変であったため、この願望は容易にはかなえられませんでした。
そこでその願望のエネルギーが積み重なってほぼ60年を周期に自然に発生したのだろうと言われています。 それは人間にの一生の年代とみてよい60年前後であったのでしょうね。

おかげ参り その2

おかげ参りの時期は各地で施行があるのでほとんど無一文で旅することができ、妻は夫の許しもなく抜け出して当たり前であり、丁稚奉公の小僧さんも旦那に黙って抜け出しても、おかげ参りだからとおおめに見てもらうことができました。このような一種の解放感を味わえたこともこのようなブームを巻き起こした一つの原因であったといわれています。幕藩体制が固定した中で身分制度に縛られ、動きのとれなかった庶民の自由への欲求が心仰を表面に押し立てて展開した開放運動であったのだといわれています。

おかげ参りの垣内宿

明和八年(1771)も4月上旬から急におかげ参りが増え、この人たちは口々に「おかげで抜けることができた」と言っていました。これが4月の中旬になると隣にも行けないほど道者が往来しこれが同月の下旬まで続いたそうです。この間は馬を持っている者は一日づつ施行に出て足の弱いものを馬で送り茶店も旅籠1日づつ施行札を立ててタダで休ませたり宿泊させたりしました。また、施文政13年(1830)には3月1日からおかげ参りが始まり、最初にやってきたのが阿波の徳島の集団でした。「おかげ」と書いたのぼりを持ち中には親にも内緒で来たという子供も混ざっていました。その年おかげ参りに訪れる人は7月8日ころからは少し減少しましたが、同月20日〜28日ころかけてが最盛期で街道が通れないときもありました。もちろんこの時期は旅籠も満員で泊まることができず、野宿する者も多くあり迷子もたくさん出たといわれています。
                                           白山町今昔噺より
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