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慧命山 発心院 成願寺
真盛上人51歳の秋、大仰の成福寺のご両親の墓参りの後、伊勢の国司北畠材親の武将で小倭の城主であった新長門守のお城にお立ち寄りになり、説法をされました。 その説法を聞かれた新長門守はすごく感激され、弟子になられた後、真九法師の法名を戴かれ、戦死した息子経成菩提のため、一寺を建立されることとなりました。 明応3年(1494)5間×6間の本堂が建てられ、このお寺は経成の為の 願い寺と言う意味で成願寺と名づけられました。 天正12年(1584)豊臣秀吉と織田信長のいざこざのとばっちりで、当寺も全山焼け応急復興はなされましたが、本格的な復興は130年後の正徳5年(1715)17世旭運上人の時壮大な本堂が完成しました。 現在の本堂はその後、約200年余り後、さすが立派な本堂も傷み大正12年に32世能教上人が重興されたもので、既に約80年が経っていました。 平成になって、檀家の意向により平成大修理がおこなわれ、現在の建物になっています。 |
成願寺の桜
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国宝
◎国指定重要文化財 絹本着色仏涅槃図 |
所蔵文化財 阿弥陀如来像
◎国指定重要文化財 木造 阿弥陀如来椅像 (俗称 腰掛け阿弥陀如来) |
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ご本尊・山門
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御本尊 | 山 門 |
勅使門
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当寺は江戸時代になって、紀州領に所属していましたが、正徳5年(1715)17世旭運上人の時の本堂復興には、伊勢の全紀州領に募財を呼びかけ完成したもので、紀州藩から特別な扱いを受ける寺院となりました。 そのつながりから、宮中参内が許され、坊城大納言家の猶子の住職する寺ということとなり、21世真英上人の時、坊城家の家紋である「三羽雀」の裏紋を寺紋として使用することを許されました。 本堂のひさしに掲げられている寺号額も下付され、同時に勅使門の建立も認められたと言われています。 |
盆踊り
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