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エイサーの歴史

袋中上人が1603年から3年間首里に滞在して浄土宗を布教してから、沖縄では王家や貴族の間を中心として念仏が広まりました。
18世紀中頃には、托鉢や芸事を行なう「念仏にゃー」(にんぶちゃー)をお盆に招いて先祖の供養を行なう風習が、首里の屋敷町などで存在していたといいます。
 当時は現代のエイサーと形式が異なり、門付歌と念仏歌だけで踊っていましたが、 明治以降になると、念仏の詠唱を村の若人が代行する形で庶民の間にエイサーが普及していきました。
沖縄本島中北部から県内全域へ伝播して大衆化する中で、民謡などを取り込む例も増えてきました。
戦前は太鼓を使う例は少なく、浴衣などの普段着姿で手ぬぐいを頭に巻くというスタイルが主流でした。
念仏にゃーの存在は大正の終わりごろにはほぼ消滅したそうです。
戦後、エイサーは沖縄市など本島中部を中心に大きくスタイルを変えました。
この地域は青年層の人口が多く、旧コザ市(現在の沖縄市)で1956年に始まった全島エイサーコンクール(現・全島エイサー祭り)の影響もあって、観客を意識した派手な衣装や太鼓のパフォーマンスなどが取り入れられました。
一方で、名護市以北の本島北部では伝統的な手踊りのエイサーも続けられています。


エイサーの進行

エイサーは旧暦の盆の送り(ウークイ)の夜に行なわれます。
近年は盆の迎え(ウンケー)から数夜連続で行なわれることが多く、 旗頭を先頭としたエイサー隊は、地域の各戸を回り、それぞれの家の祖先の霊が無事に後生(グソー、「あの世」の意)に戻れることを祈願することを述べ、エイサーを踊ります。踊りが一段落すると、エイサー隊は、一団は酒や金を受け取って次の家へ向かい、祈願と踊りを繰り返します。
このようにして家々を回り歩くことを道ジュネといいます。
エイサーは町内会単位で結成されることが多く、地区の境界では複数のエイサーがかち合うことがあります。
この時には双方が一層声を高くし、踊りに熱を入れる。これをエイサーオーラセーまたはエイサーガーエーといいます。
当然倭人は経験はありません・・
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