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第三回 |
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このページ では古今東西、銀幕の中より魅了してやまない様々なアクターを紹介しつつ独自のオマージュを捧げたいと思います。どちらかと言えば脇役、仇役的な個性派からカルト俳優まで百人を目指します。 映画「コレクター」で見せた孤独でエキセントリックな青年像はまだ序曲であった。夜の向こう側へとひたすら疾走しすべてが崩壊していく、、、 |
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テレンス・スタンプ |
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最初にコレクターなる店名がその映画のタイトルよりの引用ではないという事を添えておこう、けれどもその見る者をして過剰なまでの同一視的体感の呪縛から逃れ去る事が不可能な演技者であり、成人前の私に多大な影響を与えた俳優であった事にも間違いはなかったであろう。そこで今こそもう一度、呪縛の中からさらに物語りのかなたへと歩みより思春期の墓碑名を見い出すのだ。
ふとした事で手にする事となった多額の懸賞金、内気で孤独な銀行員の青年は日頃の蝶の収集から至上の美しさを求めて女性を拉致監禁する目的で、人里離れた一軒屋を購入する。そしてその獲物が似合うであろう衣装も蒐集されていた、、、貪欲で血走った欲望などでは決してない、力尽くで手込めにしようなどせず、ただひたすらに女性が自分に心を開いてくれるのを待つ。その物腰は静かだかやはり狂気が内包されていた。他者への配慮や交友さらには恋慕といったものが突き詰めればいかに独断的で自己本意なものであるか、まるで鳥かごの小鳥を飼育するようなこの物語は一見、異常心理を描いた作品のようだが実は我々人間性の側面に深く鋭くメスを入れた、或る意味日常的恋愛ドラマなのである。ストーカーなどが社会問題になり、親が幼児を虐待死させる現代、テレンス・スタンプはもう随分と前から憂鬱な面持ちで警告を体現していたのかも知れない。
さて笑いである。「コレクター」でのフレディ青年は神経症的ではあったが、目的意識はあり薬物やアルコールに耽溺する傾向ではなかった。純朴な青年像になりうる可能性も側面的にはありえた。しかし続く67年の「世にも怪奇な物語り〜三話/悪魔の首飾り」ではフェデリコ・フェリーニ監督のもと魔に魅入られた映画俳優に扮して超絶の演技でスクリーンの中を所せましと暴走する。原作はかのエドガー・アラン・ポー、他の二話はルイ・マル、ロジェ・バディムがそれぞれエピソードを描いているが、それは又、別の機会に書かしていただくとして、この物語りはフェリーニの作品の中において短編ながらも白眉ではないか。冒頭、空港のロビーからすでに主人公は無気味な少女の幻影に憑かれてしまっている。彼は映画の受賞式に出席する為ローマに訪れた。しかしその顔色は尋常ではなく、ほとんど自虐的な薄笑いを浮かべ見るもの聞くものすべては意味性を剥奪され乾燥しきっている。もはや精神的末期症状である。映画は彼の現状に至るまでの経緯など一切現しはしない、問題は過去や時間軸の推移でななく人間存在そのものに潜む病みそして憑かれている脆弱な薄暗い領域であり、思想や宗教をも否定した裸の主体が否、主体さえもが解体し風化して存在の骨組みが崩壊してる姿なのである。苦悩や悲痛にともない流す涙も絶望の果てにはその湿り気も気化しやがては乾いた笑いが訪れるであろう。だがそんな笑いの背後にあるものを我々は直接に触れる事は出来ないのだ。 翌年、ピエル・パオロ・パゾリーニ監督「テオレマ」の出演では<まれびと/異人>とでも形容すべき呪力と聖性をひめた青年に扮した。ある富豪の大邸宅に突然訪れた彼はそのまま住み着いてしまい、一家の者と性的な関係を持つ。しかし端なる肉体の交わりではなく、魂魄の奥底にまで到達するコンタクトであり、娘、息子、母、女中らはそれぞれ次第に常軌を逸していくのである。そして不意に姿を消す青年、その後一家には激しい異変を見せる。家出する者、発狂、色情、奇跡を起こす者など完全に家族は崩壊してしまい、残された父親は町中で全裸になり砂塵の荒野を彷徨していく。パゾリーニ自身がこう語っている「我々は確固としたヒューマンな世界に生きてはいないのだ。なぜなら精神的、道徳的な諸価値はこの世には完全の枯渇しているからである」ここでも裸の主体が風化して様が描かれている。抽象的な物語りだが、民俗学的な<異人歓待>の視座からとらえればこの青年こそ、何処より来たりて聖痕を付与する存在であるという主題が浮き彫りにされる。(性的関係による聖痕の必然性に関する省察は紙面の枠上、ここでは述べる余裕がない)しかし果たして彼は他所ものとして立ち現れたのであろうか。赤坂憲雄によれば「そこでは<異人>も外部からの訪れ人ではなく、自己の裡側にひろがる、無意識という名の薄明の闇の底に出没する<内なる他者>としてみいだされる。わたしたち近代以降を生きる人間は、だれしも内部に見知らぬ<異人>を棲まわせている、といってもよい」と考察している。「テオレマ(定理)」と題された意味は静かな強調であり深い。 最近では「イギリスから来た男」というアクション映画にも主演、健在ぶりを発揮している。又、フランスの詩人アルチュール・ランボーに扮した「ランボー 地獄の季節」も忘れ難い。それではアブサンを満たしたグラスで乾杯!
参考文献
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