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貞子の休日9


昇は駆けていた。何処へ。宿命的な夜に向こうへと。藍より青く結実された魂魄となり、夜風を切り聖なる紋章を印した外套が、羽ばたき波打つかの優雅さと禍いをもって。昇は今、飛竜の尊厳を身にまとい死者たちの沈黙をも呼び起こす賢者の意思を抱いていた。駿馬の如く自宅にまでと一気に駆け抜けると、あるひとつの道具を手にし再び今しがたの道行きを、脇目もふらずに一心不乱に折り返しあまがけた。鬼神の畏怖と英知を宿し。

3階のドアがいきなり開かれる音に、いっせいに振り向く。形相変異、この世のものではない凄まじき眼光を放ちながら昇が屹立している、手にした猟銃は黒光りに濡れている。全員、凍りついたまま微動だにしない。
やや間を置き昇がかすれてた声色で語りだした。「俺は緊縛をふりほどきここに帰ってきた、いいか、よく聞け。ここは虚像の世界だ、模造だ、贋作だ、遊技場だ、俺は自由に遊泳する、殺し屋としての宿命を全うする為にな」
堅井は呆然としつつも「山下、気でも違ったか、おい」その刹那、昇はしなやかな動作で猟銃を構えるとためらう事なく、引き金を弾いた。銃声が部屋中に轟き、堅井は壁際まで吹き飛ばされる。顔面左がほぼえぐり飛び、右目を見開いたまま床に倒れこむ。キャー!銃筒先から煙立つ戦慄の惨劇の序章に全員が更に凍りつく。助けてくれ〜、長島君が中腰になり転がるようにして出口に向かおうとした。轟音が背後より炸裂、首筋をかすり反動でこちらに体を向ける、再び、銃口より火花が散る。右肋骨を銃弾は非常なる痕跡を残し貫通、くの字に折曲がるようにしてしゃがみこみ絶命した、両の眼は未練ありげにこの空間を見つめながら。
あまりの衝撃、涙眼で視界が曇るなか加也子は、まるで命乞いと言わんばかりに「何でよー!何で殺されるのー、何をしたっていうの、ねえ落ち着いて、落ち着いてお話しましょ」昇はにやりと笑ったかに見えた、そしてゆっくりと加也子を標的に見立て問答無用の銃声を放つ、右上腕を弾はかすり去る、生死の境を悟した加也子は猛烈な勢いでドアの外へと脱出した。素早く獲物を追う狩人の昇。2階階段付近まで逃げかけたその背後より、とどめの一撃が爆裂する。加也子は前倒しに階段を転げ落ちる、人生転落を地で行くかのように、しかし、余命の灯火が儚くも燃え尽きる前に最期の執念を演じなければ。それは瀕死の蜘蛛が地獄への階段を這っていく、あの薄気味悪さを醸し出してした。両手の指先は呪われし者の不揃いな屈折をもって地をなぞる。やがて、動きが止まり無常に果てた。
3階に残されたみつお、富江、店長は、不気味なほどに静まりかえっている、部屋の中で今ここで展開している光景が、それこそ作り事であるという絶望的な祈りを唱えるべきなのか。
静寂も束の間、不穏な足音が戻って来た。鬼面を被った夜の殺戮者の影が忍び寄ろうとしている。店長の胸中は、悪夢で苛まれている子供の寝顔が、無邪気な平静であるかのような矛盾した忌まわしさでいっぱいだった。どこかまだ、現実離れした陰影であって欲しいとの嘆願でもあるかのように。
次第に近づく昇の姿に、誰もが沈黙を守っていた。次なる的を貫かんと銃身が平行にゆっくりと品定めを始めた。
その時であった、非常のライセンスを持つハンターの背後に、佇む、人影が現れたのは。髪は下ろされ表情すら覆い隠されている。芳醇な死の香りと対峙するかのように、不遜な炎が全身からゆらめいている。貞子だった。