理由なき反抗9


部屋に帰り灯りをともす。ひとり暮らしの静けさに、固定されたかの室内の家具の配置やカーテンのしわ、読みかけの雑誌や束ねられた新聞紙、わずかに低いうなり声にも聞こえてくる冷蔵庫の振動。それまで暗闇に潜んでいた部屋中の光景が寸分違わないことを確認するのは、静寂の安堵とともに出口なしの圧迫をさり気なく感じさせる。
高校を卒業してから大阪でのアパート居住が長かったというのか、慣れてしまったのか、この町に戻ってからも親元の実家に住まうより、気ままに気楽を身上とする静謐の個室の生活を選んだ。
何か食べよう、みつおに会って話しはしたものの、この部屋に照明がそれなりの視界を広げてくれるようには行かず、反対にけむに巻かれ漂う川藻が無造作に絡みついて来る、不愉快な感情の暗渠に流れ落ちた。それは小さな怒りでもあった。みつおが帰った後、飲みかけのグラスを一気にあおり外食するのも億劫と、ふて寝する子供の気分で帰途についたのである。
向こうで幾つか転職したが、ふとした思いで就職した中国料理店の仕事は、加也子にとって非常に現実性のある経験を身につけることになった。会計係として雇われたのだったが、ある日料理人が何か不平を訴えてまとめて辞めていき、狼狽する店長に対して加也子は目を見据えるような真顔で「よかったら私を厨房に入れてもらえませんか」と言ってみた。当初はその場しのぎのヘルプであったけれど、加也子は人一倍、熱心に気概を見せ、そのまま女料理人となったのである。重量のある中華鍋で片手で振るい、煮えたぎる鶏ガラスープの寸胴の熱気を浴ながら、高温の油で柔肌をケロイドにし、化粧気のない顔面にしたたる汗を拭うことも忘れて奮闘した。
今後、調理師としての道を極めていこうなどとは、考えてもなかった。ただ、熱中する時間が欲しかった、そして文字通りに厨房内の気温過熱で心身、燃え上がっていったといえる。

部屋の冷蔵庫を開けると、知ってはいるがそのがらんどうの箱は、オレンジ色の無機質な灯りに薄らぼやけているだけで、食料保存としての役割はほとんど機能していない。豆腐が一丁、糸こんにゃくが根気よく眠っているばかり。はぁっと深いため息をもらしドアを閉めたのだが、気をとりなおして再び手をかけ豆腐と取り出すと、表面のビニールをはがして醤油をかけ、そのままスプーンで食べ始めた。
何の味わいも覚えず、容器が空になると又、冷蔵庫を開ける。そのまま頭から突っ込んで行けそうな空虚。すっぽりと肩あたりまでは、のみ込んでくれる、、、否、くれた。
食料庫は空白だったけれど、私の体は充たされる寸前の容器になって受け入れていた、、、背後からあの男の重い影を。ジーンズとパンティが膝まで下ろされ、両手が尻の割れ目をかき分けるように添えられる。
男が言う「どうや、こんなん感じるやろ、頭冷やしてここ熱うや。ほれ、こんない濡れてきおる」
加也子は股ぐらの異物感を、拒否と歓待とで螺旋状に受容していくと、次第に足が震えるくらいの快感に見舞われ、自らも交歓を深めるよう腰を適正に動かした。
数日前、職場の着替えなどのロッカーのある事務室で、いきなり後ろから抱きしめられ、驚く間もなく唇を吸われた。男は配膳係の主任で加也子とはひとまわり以上の年齢であった。長身で頭髪には白いものが目立ち、細面に銀縁の眼鏡をかけ、どこか冷酷だが英知な印象を人に与える。
「ど、どうしたんです、離して下さい。加藤主任」
男は加藤保音といい、この料理店での接客全般と従業員管理を実質上担っていた。加藤はか細い声で抵抗を見せる加也子を、蹂躙するように無言のまま手中に収めようと、まるでカマキリが獲物を捕獲するように主張を面に現さない姿勢で更に強く引寄せる。舌先が唇を割って唾液と一緒に侵入する。窒息というより頭の中が酸欠になってしまったようで、加也子はこわばった体から力が抜けいくのが分かった。
動物的勘で加藤は、いったん口を離すと、左手で加也子のあごを受け持つ格好にして、了解項の刻印を授ける自信でもう一度、ぬめるようキスをした。
長い時間に思われた。互いの口先から光沢のある唾液が蜘蛛の糸くらいに引いて、切れた。
「なあ、三島さん、おれ、あんたが入って来た時から好きやったんや、伝えよう思ってたんやけど、断られそうで恐かったんや。でも厨房であんたが汗かいとる姿見てたら、我慢出来んようになってしもた。体の方が先にや、よかったらつき合ってくれんか、あんた付きおうとる人おらんやろ、俺もフリーなさかい、な、たのむわ」
突然の挙動と告白に加也子は言葉を失った。しかし、顔つきにはもう怯えの色がない、生来のあの敏感でことの成り行きを理解した。その平静な顔色は、空気感染のように加藤にしみ入り彩色された。男はかすかな笑顔をみせたのである。