理由なき反抗16


森田の道場を訪れる二日前の晩、久しぶりにひとりで赤いバーのドアを開いた。
無論、あのマスターは今はいない、カウンターの向こうにはこざっぱりした若い男女のバーテンダーが客をもてなしていた。「いらっしゃいませ、三島さん」先客がすでにカウンターの端にいた。加也子は少し間をあけて席に着く。
見ると客のひとりは金髪の欧米人の青年で、真ん中に小柄な若い女性、横には銀縁眼鏡にスーツの一見サラリーマン風だか、どこか洒脱な雰囲気をもっていた。聞くともなしにしていても、会話は耳に入ってくる。金髪青年はフランス語を喋っている、相槌をうちながら返答する女性も流暢に外国語を操ってるではないか、眼鏡の男性は店の従業員に何やら注文していた「う〜ん、ギムレットには早すぎる、そうだな、まずはハーソーを一杯もらおうか、この娘にはスプモーニ、はじけるようにフレッシュでね、彼は何にするんだろう」
カウンターの若いバーテンは「すいません、あの、ハーソーってどのようなものでしょうか」と尋ねる。
「はははっ、ハーソー知らないの、I.Wハーパーのソーダ割りのことだよ、スノッブだろ、はははっ、もしあれば甘味づけにハチミツレモン、少し加えて」
思わず加也子は吹きだしてしまった。すると眼鏡の男性が「あれっ、どこかで以前お会いしたことないですか」と話しかけてくる。もちろん、加也子は面識ない、ナンパの常套手段かと思い「いいえ、わたしは分かりませんが」
すると「これは失礼しました、とんだ勘違いでした、あっ、わたくしこういう者でして」すかさず、名刺を加也子に手渡す。
<大日本心理学会 助教授 天満育(Tenma Hagumu)> 住所は東京都港区。
「心理学といっても、フロイト派の精神分析学や大脳生理学系でもないんです、どちらかというとユング系ですね、超常現象を専門に研究しております。あだ名は眼鏡さんって言われてるんです、はっはっ」
天満と名乗る男は連れ同士のオーダーが揃ったところで乾杯をすると、さっと加也子に対して体の向きを変え、えらく饒舌で聞いてもないことまでまくしたてた。その話しは、この店へは映画になった貞子の休日の研究の為にわざわざ東京から長旅でやって来たと、監督した影山に連絡ととり赤いバーのマスターとも対話したこと、作品の骨組みがパラレルワールドと異界であることに興味があって、元ネタの掲示板に書かれたものを分析している、作者のマスターの思惑からも飛躍したような特異性があって、実に研究対象として魅力があるという。
「さっきまでは舞台となった居酒屋にもおじゃましましてね、店長が寝起きしてたという3階も許可もらって見学してきたんです、現在は誰も居住してないけどね、何か感じるんだな、やるせない魂魄みたいな影を。といっても別に何も見えませんけどね」
そこまで聞かされて、加也子は冷や水をかけられたような体感を覚えた。しかし、もっと探りを入れたくなってきて「その研究対象としてっていうのは、どんな意味なんですか、あっ、研究段階でしたらお話いただけませんわね、それからさっきは失礼しました、わたしあの映画に出演したんです、加也子という役で。それと川村貞子は実の従姉妹にあたります」と少し遠慮を見せながら、必殺の切り札を出した。
天満の顔が見事にほころぶ「やっぱり、そうかあ、映画にでしょ、だからどこかで会ったと思ったんだ、加也子役ですねよ、予定では、あなたがこの町で生活してるの知ってましたので、こちらから連絡しようと計画してた矢先でした。映画ではメークが派手だったから、これは奇遇というより宿命ですね、研究の対象が目の前にいる。乾杯しましょう、出会いに」加也子も微笑んで見せると杯を上げた。そうしてゆっくりと天満からその続きを引き出した。
「これはまだ発表前なんで、ここだけの話しにしてほしいんですけど、実はですね、あの掲示板小説が示している世界像ですけど、どうも事実ではないかって疑問が出てきまして、いえいえ、作中人物がという意味でなく、一切がもうひとつの世界にねじ曲がるようにして食い込んでいるというか、存在してるんじゃないかと」
「そうすると」「そうです、書かれた文字、これはパソコンのモニター上にある、その外部には部屋があり窓を開けると町並みや大空が見える。ところが、それは別次元なんです、すべてはパソコン内で完結している、当然、我々もです、しかし、生活は現実、何も不便も感じない、ただ時々、閉塞感や頭痛を覚える。この感覚わかるでしょ。でもね、虚構としても何も問題なければ、十分に現実世界じゃないですか、今の科学では宇宙の果てまで予測出来る。たとえそれがお釈迦様の手のひらの上であったとしても、我々には確認しようがない。そういうことです」