理由なき反抗12


「えっ、何か忘れものでもあるの」「落とし物さ」
貞子の休日の映画版でも有名なあのセリフが、遠い太古の昔から響いてくる木霊に思え、実際に声に出してみた。加也子は、自分の言葉でそれを聞きたかったのだ。
冷蔵庫の中は今日も空っぽに近いけど以前の、意味が剥奪された無根拠の証としての空白とはスタンスが異なって、経済観念ならびに衛生理念も十全に考慮されている。「えへん」とここで胸を大きく張って一席ぶちたい気分だった。
帰省してすぐの加也子は、衰弱した体躯に即すように精神的にもバランスを欠いていたと、今では清らかな笑顔で開陳できるまでに自尊心を回復させていた。正直にという言葉はいらない、どう表現するかどう見せるか、そこに腐心する人間は生真面目な性格であり、少なくともバカ正直の上を行く。
加也子は自己の心の深淵に、降りていくことが大事なのだが、それはとても魅惑であると同時に一歩まちがうと、とんでもないことになりそうな生理的な悪寒に鳥肌立ちを覚えた。
脳裏は、シャボン玉みたいにぼんやりと浮かんでは消えてゆく相念もあれば、脳漿に巣食って駆除できない厄介な観念も棲息し、空模様に似てうつろいに流れゆくイメージなど数え上げたら切りがないくらい錯綜する小宇宙である。
中でも極めて悪質なのは、他の姿やまつわる情感までもが幾重にも装いをほどこし、良心的に立ちふるまうあの自縛霊の存在であろう。こいつはまさしく人を喰う。
さて座禅や内観法でもあるまいし、実際に試みられたのはまず、机の上に出せるだけ吐き出して広げてみせるという事であった。ノートなりに書き出してみれば、思いの他、俯瞰図のように違った面や異相が現れ、整頓された形で提出されるかも知れない。早速、カテゴリーを更に分類する要領でこう小分けしてみた。
<よく分からないこと> <よく知っていること> <いいイメージ> <悪いイメージ>
よし、まずはここから始めてみよう。<よく分からないこと>一番は自分が本当は何を欲しているのか、ああ、これではいけない、もっと具体的で身近な事柄、、、連想でもいい、、、しばらくして単語やら名詞がいくつか書き記された。
<愛、死、命、貞子の本音、男の性欲、兄、みつお、梅男、山下昇、とりまくもの、鏡、肩こり、結婚>次は<よく知っていること>を並べてみる。
<自尊心、汚れ、他者、母と父、冷蔵庫、火傷の水ぶくれ、耳子の秘密、酩酊、女の性欲、お金、孤独、退屈、不安、音楽>まだまだ出てきそうだったが、直感で弾き出された飛沫の連続性を重視した。これらは数珠つなぎの勢いで瞬間的に書かれた、これが重要だと思う。さあ、今度はそれらをかみしめるように口にしてみる。何度も何度も、、、

有史以前、人類という種族が言語を持たず、ものとこころがまだ未分化だった遠い大昔、言霊の前身とでもいうべき代物はおそらく現実の壁などの存在を、軽くすり抜け生死に関わるくらいの脅威的イメージを宿していたに違いない、それは妖怪や悪魔、鬼、妖精、それから現代人の想像を絶するもの、とてつもない大洪水のような恐怖、そして眼。
その時だった、不意にキーンと耳鳴りが高まったかと思うと、辺りの視界が急に遠のいていく感覚に襲われ、頭の芯に向かって何もかもが一点を目指して集結してくる怒濤の轟音に圧倒されてしまったのは。ほんの一瞬のことだった。
後は嘘のような静けさの分子が部屋中に沈滞している。ただ、カーテンのペイズリー風の模様が風にそよいでいるふうに思えた。窓は閉めている、やはりそのオタマジャクシに似た絵柄たちは、さわさわと今度は泳ぎだしそうな気配を見せると、いっせいに急流をさかのぼるようにしてひとつの意志の結束へと加速していく。
それは前に人体の不思議展とかで見たことのある、映像化されていた精子の放出のイメージに近い。カーテンは実際、まったく揺らいではないが、すでに幻影は白い色に染まりはじめて、よく目をこらすと壁に飛び散っている。幻は自在に連想を呼び込み、大きな影法師となってのびあがる。
そしてそこに亡き兄の面影が、又、浮かんできたのであった。生前のにきびだらけで快活の声色とともに、、、