理由なき反抗11 その夜、また例の首筋から頬への不穏な触覚の気配を感じ眠りが呼び覚まされた。 今ではもう慌てふためくこともないと、沈着な目線で追尾する造作をみせると、横断を予知された影は警戒心をその身に保ちながら、音を立てまいとして布団の裾に這っていった。細長く折れた関節を持つ足は、屈折した光の陰画となって、夢魔の彼方へと逃げ帰ってゆく。 加藤という男が、自分の人生の中では通過点でしかなかった、という思い込みが今でも十分に説得力を持っているのか。ここ最近の陰りにも似た焦燥感と、相変わらずの冷笑的な思念とは、これまでの雑駁の均衡から少しづつだが歪曲していき、今まで重しで封じてあったある情念が鎌首をもたげようとしてきていた。 加也子は保音から、一度プロポーズを受けたことがあった。同時に腹の中には小さな胎動が予期されたが、ことの次第へと心地よいリズムでジャンプしていくのを、頑なに否定した。お腹の兆しは相手に内緒にしておいて密かに処理し、求婚に対しては明瞭にしかも、厳罰で臨むといった態度で「私は結婚も子供も避けたいの、何故って、両方とも嫌いだからよ」そう冷たい気品で言い放った。 以来、男は草木が養分をなくして萎れる態で、日に日によそよそしくなり、体の求めも積極でなくなって、趣味のバイク乗りに精を出し始めた。そしてある日、音沙汰が途絶える。加也子はそんな一連の成り行きをひと事みたいに見つめて来た。関わりだろうが、肉の交わりであろうが一定の距離から見放せば、現象に過ぎない、私は視線としてコミットはするが動体視力が最大に稼働するような、執着や埋没には真正面から向き合わないという、信条があった。 おそらく保音は違う女性のもとへ走ったと思われるけれど、消失ぶりが鮮やかだっただけに、バイクにまたがり風とともに去りぬ、と簡易な文学的表現で自分なりの訣別としてみた、あくまで淡麗に。 陽炎は来るべき予感に、まるで遠慮を見せるようにして恥じらい姿をくねらせる。しかし、それは裏返せば赤子の金時が、まだ己に授かった強力を自覚していない故の神童の無垢であった。 すがたかたちだけが、視線のたどる輪郭に友好的ではない、預かり知らぬのは眼に見えないものだから。やせ我慢は意識的な被虐だが、闇夜の膨満感は無意識的な自虐の彷徨である。 加也子はあの件から、なぜか料理人として再起する道を閉ざしてしまい、それどこか再就職に向けての意欲さえ失ってしまったのか、求人誌などにも目もくれず、ひたすら自室にこもりっきりで無為の日々を送っていた。 軽やかな訣別を送った、あの気品は暗色に曇り、無軌道な自尊心は無計画なまま解体されようとしている。加也子には自覚はあった、しかし、意識的になればなるだけ、血液が逆流しそうな危うさが邪魔をした。 兄の葬儀の日、母の慰めに疑心を抱いたのは、自分なりの気持ちの整理をつけたかったからで、例え母親であろうとも、まやかしの了解の台座は譲れない、これは人間味に欠けるという意味ではなく、より深い洞察を感じとりたい希求に他ならなかった。その感覚、神経は温存され育まれてつぼみとなり、花開いた。その後、枯れはしない、代わりに身体という土壌に芽を出したのだった。痛点の自覚という苦痛の徒花となって。 加也子は日増しに体力が減退していくのを目盛りで確認出来るくらい過敏になり、消化器系に異変を感じると、それから全身にジンマシンが吹き出してきた。食欲はないが、味覚は二の次でアルコールなら相変わらず胃に流しこめる。みるみる内に体重は、肉塊が切り分けられる感じで分離し、身が宙に浮遊する頼りなさを覚えながら激減していった。 外出は必要限度のみ、生活リズムも恣意的なまま不眠なのか寝っぱなしなのかの判断も鈍ってきて、あきらかな心身症の病状を呈して来たのだった。 このまま、キリキリとさしこむ胃痛のように、神経がネジを巻かれるのは何とかして回避しなければいけない、朦朧とする脳裏にさっと閃いたのは、最も賢明な判断であったと言えよう。 「私にはこだわりはない、大阪さようなら、しばらく故郷に帰ろう、この空間よりの脱出劇」 そう唱えるように小さな声を出すと、簡単な身支度で大阪を後にした。賃貸アパートの解約や引っ越しは爾後行ない、加也子は都会生活に決着をつけたのだった。 |
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