大いなる正午21


感覚が麻痺した中、スローモーションで時間が脈打たれる。視界は白昼に時折訪れるあの無気力な限りない虚しさの明るさに包まれていた。木梨銀路は、鈴子が手にする包丁で身体中を滅多刺しにされる夢を見て、血しぶきと共に飛び起きた。
まだ夜明けには到らない時刻だろうか、窓を開けっ放しにした二階の間はまだ闇で支配され、蒸し暑さは軽減したものの真夏の夜は、銀路の汗腺に狂おしい曲調を奏でて、全身、細やかな手足の毛穴にも微かな涙に似た成分を排出させている。その潮の恐々とした揺らぎの肌合いは奇妙な波長となり、もうひとつの眼へと覚醒を促して、夜の彼方に白日夢を映写させるとでも云うふうに。そう、まさに深夜を漂白して見せたのだった。
穿いている猿股は、冷ややかだが不快な寝汗で粘着質に濡れていた。起こした上半身には動悸が、まるで興奮に覚めやらぬ銀幕の向こうからの共鳴音として高鳴り続けている。
「何で、、、す、すずこが、、、」辛うじて言葉になる臨界で、今しがたの殺戮場面が無情に凍結されたまま銀路の網膜に張りついて離れようとしない。夢魔が猖獗をきわめた脳裡は恐慌に陥り、懸命に突破口へと逃げ道を求めるのだが、反対に脳内自体が堅甲の頭蓋で防備され、魔風の一陣を遮蔽してしまう。それは底なし沼の無間地獄であり、生き埋めの土砂で異物が口内から喉元に滑り込んでくる窒息の凄惨な恐怖だった。
身動きするのも刑場に引かれる思いで萎縮しまい、本能そのものの強烈な呪縛に完全に囚われてしまっている。脱力した四肢の末端にまで、震える神経の不安が伝導していくのがわかり、このままでは、発狂してしまうのではと、思ったが、可能ならばその方が楽になるに違いないという非情の予感が同時に念頭を過ってゆく。
「誰か、助けてくれ、、、」虚しい独白が木霊のように、何度か繰り返されても、勿論この場には自分以外に誰も存在しない、例え外に飛び出して大声を上げてみたところで人は施す術を知らないだろう。鈴子にしがみついてみたとしても、その叫喚地獄からは開放されることはないと耳朶に地声が囁く。
銀路は立ち上がることも倒れ込むことも出来ない、しかし、そんな絶対の境地に今あるという強迫観念で覆われているが故、不安定な情動のこの奈落の確信となっているのだと、心の片隅で小さくうずくまる賢者から裏声らしい敬虔な祈りが唱えられていくのを覚えた。
その声は見知らぬ方向ながら一歩踏み出す行為へと僅かの教唆を能える。それは苦楽が永久不変であった試しがないことを、経験値から導き出す論理的思考により昇華した知覚の暁光であり、この幽鬼の城からの脱出への糸口をかいま見せる賜物だった。よろめくまま壁を伝い浮遊で危う気な足取りに慎重を乗じて、ようやく階段を下りて行き洗面場までたどり着くと、睡魔を払拭する仕草で頬を打つようにして強かに顔を洗い、食堂のテレビに電源を入れて深夜放送のその内容を把握出来ないままに、食い入る眼光で見つめ続けたのである。禊ぎにも似た集中をもって。
どれだけくらい経過したのだろうか、やがて銀路は少しづつ不穏な胸騒ぎが落ち着きだし、頭の中も平静を取り戻しつつある自分を認識した。

翌日、勤めに現われた鈴子の顔を見るや「あのなあ、話しがあるさかい、上に来てくれんか」といつになく沈着な音程で、そう促した。
銀路の後から階段を上りいつもの部屋に入ると鈴子は、無言のまま健気にも衣服を脱ぎだそうとし始めた。
「あっ、鈴子、今日は違うんや。わいなあ、えらい夢見てなあ、その後でな生まれてから一度もおうたことのないくらいの恐さに襲われたんや。ほんま、気がどうにかなりそうやったわ」
そうして、感じたままのことを包み隠さず話して聞かせた。すると、にわかに鈴子の顔が上気していくのが見てとれた。以前も幾度か面にしたことのある、羞恥や怒気の情感に色づく様子とは異なるかつてない可憐な、それは晩夏が見せる開花の紅潮であった。
そんな奥ゆかしげな鈴子の反応に心潤いながら、不純分子の結晶体たる股間の陰物はまたしても、蛇性の鎌首をもたげてしまい、不意に押し被さると花弁を丸裸にむしりとってその蜜へ吸いついてしまった。
昨晩の魔を調伏するかのように、その裸体に阿鼻叫喚の哀切を念じながら、弧地獄の壮絶な体験を成仏せねばと激しい腰使いの動きは勢いを増して行き、鈴子の目から真珠のような涙がこぼれ落ちるのを見遣る。そうしながらも銀路の脳裡には何故か、教師の頃、同僚から四国巡礼への報せにと送られてきた一枚の絵葉書が風に煽られ、ゆらゆらと脈絡なくその遍路の情景を浮かび上がらせていたのだった。