大いなる正午20


忌わしさというものが身に染み付いて拭いきれないのであれば、うつせみの悲愁による悄然たる陰りと同じ、光芒の恩恵を忘れ去った魂魄の如く、儚い未生なのか。
己の生き様は、幼少時の心性のままに確たる信念など建立すること能わず、今日まで飄然とやり過ごしてきたが、楽天的な性癖のみですべてを糊塗していたのではない。つまるところは何事に於いても深追いせずに適度の姿勢を保ちながら、そつなく世渡りをしてきたといえる。それは日頃から軽佻浮薄な言動で通したということではなく、相互の隔たりをある意味よく見極めてまずは乱雑な意識を単純な志向へと整頓して、その上で相手の領分なり意向なりを汲もうと努めたのである。
自己本位の快楽指向だけでは駆け引きとは言い難い、幾らかの苦渋や辛酸に対しても同様、我慢の懐に押し込む素振りで素早く刺抜きをして、柔和な物腰で楽観の住処へと誘導していくのであった。
他者から見れば狷介な性格に取られる一歩も二歩も手前で、花野西安は自他共に爽快な懐柔をもって独特の磁場を生み出すのだった。それは好青年が地球儀を指先で回して見せる軽やかさを想起させた。
しかし、あの件以来はすべての歯車が壊れはじめ、その冗談まじりの軽快な回転が大きく狂ってしまった。まるで地軸の歪んだ自転のように。
頭の整理自体が覚束ない、この天変地異ともいえる禍事に向き合っては見たものの、巨大な隕石が確実に衝突してすべてが崩壊し、最期は物質も魂も灰燼となる鮮烈な臆見に支配されてしまっている。
あの夜、貞子の眼光は何もかも言い尽くして、すでに命終が迫り来る今生の別れの如く、異様な魔性の輝きに毒づいていた。爬虫類の分泌液が醸し出す淫蕩が迸り、溌剌として肉が踊り出すのだが、それは黒魔術による禁忌を孕んだ屍肉の蘇生に似た不浄な耽溺だった。
交わりの後も、貞子はある強靭な意思で心中を真一文字に結んだのではない、身体はここにあっても心は何者かの迫害を受け暗黒の地下牢に幽閉されているのか、それとも一切に引導を渡し無常の渡海に果て投錨したというのか、そんな面妖な淀みが寒々と窺えた。だが、灯明の残り火は、目に見えない血肉の帆影を形作ろうと闇の魔手に何かを委ね、残身は理想の十文字となって精神から開放され淫逸の形骸を、西安の裡へと鋭く標していった。
闇夜の安息日、貞子自身の休日をあの夜、全霊をもって快楽を遍く虚空に返還したのである。西安にとっては凶事の浸透が深まり疲弊が濃くなっていく中、不穏と安堵が雑然としたまま、待ち人である貞子に邂逅したのは陸離たる僥倖だといえよう。
それは日蝕の曠野で言葉なく見つめ合う永遠の離別であり、脳漿の性愛の絶頂だった。

あれから日数は早瀬にのって暗渠に流れて行き、西安の思惟も無遠慮な夏風にさらわれて何処かに行ってしまった。
貞子は再び姿をかき消してしまい、渇ききった日常に独り取り残されたような気がして、じっと鏡ばかり見つめていた。性也の忠告通り、東京に戻って仕事に復帰する気分にはどうしてもなれない。
ふと、まだ結婚生活にあったあの頃の想い出が浮かんできた。数回通って口説き落としたホステスとの情事の後、妻から電話があって無視するのも勘ぐりを入れられると考え、携帯を取ってみて妻かと思いきや、まだ幼い息子が、パパ、パパとはしゃいでいる。数回の色事の相手となった、そのホステスは耳をそばだてていたが、いきなり携帯を横合いから奪いとると、じっと目を閉じ電波の彼方へと意を研ぎ澄まし西安の身上を冷徹に見抜いてしまった。
「あんた、独身って言ってたじゃないの」そう一言だけ、恨み言を投げかけた後、西安は肩の付け根から手の甲まで両腕を油性マジックで、悪戯書きされたのだった。観念してされるがままの皮膚の上には、ホステスが住まうマンションの住所と電話番号、本人の名前が大胆に書きなぐられている。
帰途、コンビニで除光液を買って近くの公園で、書かれたものを拭った。当時、内装工事店に勤務していた西安にとって、それは儚い児戯に等しかった。