大いなる正午18


血生臭さが強力な脱臭剤で消臭されるという現実味に欠けた、あの事件から二週間が過ぎていった。木梨銀路にとっては、ひとつの変化が日常に中に投げ込まれた。
二階部屋の片隅で今も目を爛々と輝かせながら、食い入るようにしてパソコンの画面に向き合っている、画像はおろか文字の大小にいたるまで見逃すことのないような、野獣が獲物を狙う貪欲さでもって。
鈴子に案内させた喫茶グリムでの体験は、よほど大きな荒波となって銀路の胸中をさらっていったのだろうか帰途、新型の携帯に関心を見せ購入意欲を高まらせながらも、同時に高波となって迫り上がってきた股ぐらの膨張に素直に従属して、又してもすぐさま鈴子の下半身に発熱した陽根を突き立てたのだった。しかし、熱帯特有の停滞し続ける蛇性のとぐろは、いつになくその執拗さの本性をむき出しにせず、銀路にしては淡白なまぐわいに果てた。
いつもならことの後、鈴子の湿った肉襞を紙できれいにしてやり、それから未開民族の儀礼よろしく大地に頭をひれ伏すようにして、今一度、太腿を大きく開かせ、女の部分をしばらく舐め尽くすのだが、その日の性交は放尿後に平常心を即座に取り戻す感覚によく似ていた。というのも、射精と一緒になってある気合いが放出されたからである。
銀路は普段の口調で「さあ、早よせーや、今からパソコン買いに行くでー、どれがえんかお前も品定めしてくれや」とまだ下着姿の鈴子を追い立てる勢いで家電ショップへと急いだのだった。

こうしてすぐ横で銀路が、根をつめる性分ゆえ短期間で使用手順を習得してしまうと、もうあまり説明の必要も少なくなって、ひたすら寡黙に情熱を傾けている姿を見るにつけ、鈴子は心のなかで大きく深呼吸した。するとその呼気と吸気は左右一対の肺へと、自らも知り得ぬ分別となって循環していった。そのひとつは、これで安泰だというひなどりを気遣う母性本能に似た微笑み。もうひとつは編みかけのもつれがある瞬間、元通りとまではいかないけど、思いがけずにほぐれたような小さな安心。
片方はパソコンを自宅で操る以上、銀路がグリムへ足を踏み入れないで済む、という事に裏打ちされているのだと実感出来た。が、もう一方は見つめ続けるのを忌諱する、生理的嫌悪を包摂する技巧的な安定感によるものだった。しかし鈴子はその平衡を揺さぶる悪鬼の陰影までは、夢想だにしなかった。

銀路が本来の家業を放擲しそうな熱中ぶりでパソコンに取り組んだのは、無理もなかった。本人も重々承知の上で確信的にある原風景を見つめ直す機会となったからである。この箱の中には魔法使いが棲んでいる、己が重力に逆らうくらいの反撥精神で封印してきた過去形で描かれた苦い流水の想い出が、今、逆に魔術から放たれる喜悦に身震いしているから。
教師時代にワープロを仕事用に使っていた関連上、キーボードの扱いは手慣れたもので、次から次へと脳裏を韋駄天が駆け抜ける如く、思いつくままに過ぎ去った面影を呼び戻し、そこから派生する別の流れへと身をまかせるようにして、気掛かりだった情報を仕入れては想像の両翼を大きく羽ばたかせていく。
教師時代にあった、今となってはお笑いぐさの小さな過ちに拘泥した純情、又ある日放課後、同僚の女教師から始めて夕食の誘いを受けた折の胸が高鳴る余韻が、積年を経てパステルカラーの瑞々しさで甦ってくる清冽な郷愁。
しかし最も銀路を釘付けにしたのは、教え子だった三島加也子が駅前公園の惨劇の被害者であり、現在加療の為内密に監視下にあるという風聞だった。耳子と一緒に酒飲んで、叱りつける前にとんでもないことを言い出したりして終いには大泣きで、けむに巻かれた遠い昔話に思えるあの子が、、、書き込みサイトを粒さに目を通してみれば、暗黙の裡に危険な香りが鋭く鼻をつく、伏せ字にされた加也子の名前、、、
この数日の間に、中国で大地震が発生して途方もない人命が失われた。つい先日は国内でも三カ所で相当な規模の地震が断続的に起こり、多数死傷者が出た。駅前公園の発砲事件は最初、蜂の巣を突ついた勢いで喧伝されたが、大騒ぎの幕は実際に開くことはなく凄惨な巷説だけ一人歩きしたといえる。弾圧とかいう名目にいつの間にやら、死者など出なかったというふうに、次第に尻つぼみとなってしまった。そこへ来てこの地震騒動である。
銀路は、モニターに向かってゆっくりと目を閉じてみた、教師の頃、職員室の机の上腕を組んで、ため息まじりに静かに夕暮れを感じとろうとしたあの思いで、、、