大いなる正午15


呼吸という、生から死へと絶え間ない自律的な反芻が、仮に観念的な相貌で時折立ち現れてくるとしたら我々はその都度、呼吸困難を引き起こすか、心拍停止の危機にさらされるであろう。
薄暗い隧道を浮遊するようにして抜けて行くと、今度は薄明の夜露に濡れる暗室が白々とその全体を表出しようとして、蝙蝠たちを夜陰の名残りをとどめる、あの闇の洞窟の奥へと羽ばたかせる。すると遠い陽光は意地らしくも、堅固に規律ある精神で、山脈の稜線を濃淡で墨絵書きに浮き立たせててゆく。
森田梅男が、酸素マスク装着から開放され、上半身のわずかの起伏によって生命力というものの神秘をしみじみ感じとったのは、自分の名を呼ぶ声にかすかな反応を見せ、やがてそれが間近に佇む人影であることを認識してから数日後のことであった。黄泉の彼方から生還したという実感は、薄明の空が次第に暮色を放棄する受諾に似ていた。
白髪の軍人ミューラー大佐という人物は、梅男の容態に繊細な注意を払い、暗黒の使者が再びその魂の緒を狙い魔手が伸びるのを阻止せんが為、最先端医学の延命技術をもって奇跡的に心身が乖離から免れた後も、担当にあたった執刀医の報告通り慎重にその経過を見極め、静かに回復を待ち意識を取り戻してからも決して無闇に、梅男の傍らに近づくこともなく、本人の持つ生命と意志のほむらを見つめる以外は、時間の経緯に従った。
そして眠れる魂が復興の兆しの芽を見せ始めた頃、静寂の湖底に沈む難破船を引き上げる思いで手綱をしぼりながら、増しゆく躍動の力に介添えを施したのである。それはさざ波のように自然体でありながら、綿密に練り上げられた言葉による誘致によって本然たる水域まで牽引する、精神への起爆剤であった。
応答に多少の齟齬が生じるのは梅男の記憶や思考力が、打ち抜かれた肉体の損傷と同じく機能を著しく破損させたわけでなく、ただひたすらに現時点での圧縮され、或るいは放擲された心象が巨眼に映ずることの痙攣であり、焦燥がもたらす舌足らずといえよう。しかしミューラー大佐が語った、一幕のおそらく核心部分は判然と理解することが出来た。

背後から致命的な銃弾は心臓間際を貫通して肺や肋骨に甚大な損壊を与えて、他の臓器も血にまみれて外界を覗いて見せるという、まさに虫の息だった。だが、絶命寸前のところで、大佐始め有能な医師や救急隊員を乗せたヘリが舞い降り、ただちに応急処置がとられ生死の境を彷徨いながらも峠を乗り切った。今後も最善の治療を尽くすから完治に向けることだけに専念すればいい。疑問だらけの迷宮に足を踏み入れた心境だろうが、すべてが未知といっても過言ではないこの状態ゆえに打寄せる荒波は身体に毒と言えよう、養生に適応する案配で秘密のベールをはいで見せるのが順次というものである。焦りは禁物、命の保証は痛切に感じているはずだ、後は居直ったつもりで泰然としていればよい、つまりは信頼を寄せるということである。

梅男にとってみれば、旧態に想起を促すあの時代の親衛隊将校の軍服に酷似したその姿と、白髪と対を成すかの蒼白の面、だが双眸の色合いや切れ長に流れる涼し気な造りに特徴される東洋人的な容貌は、出自の検証を更に困難にさせ、老成した口裏と相反する青年を香らせる肌質も又、あまつさえ年齢不詳の印象を抱かせた。
「森田君、そろそろ、ここのシステムの概要と私の理念、否、来るべき未来への道程と言い直そう、君に話しても動顛して傷口が開くようなこともあるまい。長い説話になるかも知れないし、簡潔な世界像の提示で終わるかもわからない、ようは君の反応と了解によると考えてもらいたいのだが。あっ、わかっているとも、何故に迅速に助命され、今ここに居るのか、そしてここは何処で、この先、自分はどんな運命が待ち構えているという質問だろう。そう慌てなくともいい、順序よく論理的にしかも気分よく、お話する時間はくらいはまだまだある、大丈夫さ」
ミューラー大佐は、とてもはにかんだ風な笑いを満面に表すと梅男の目をじっと見つめた。すると梅男のやや茶色がかった瞳がおたまじゃくしのように素早く泳いだ。