青い影1


市街から国道を走行していくと、あっという間に車は山嶺の裾野から何かの意思に作動されたというふうに、うねりくねった峠へと駆け上がって行く。その様は混沌に雑然とした思惟と想念が軟体動物のように一見、無感情でうごめく姿に似ていた。
森田梅男は普段より運転のスピードを落とし、窓枠に流れていく山林の息吹に律動を合わせる感覚で寄せては返す潮騒の如く、様々に想いがよぎるまま任せていた。そして呟きにもならない声で「おれはどこにいこうとしているんだろう」それは誰にともなく唱える微少な木霊であり、言葉以前のあのため息のようなものであり、風にそよぐ草花の震えであった。

先日、夜更けのスナックで大橋性也から聞かされた、川村貞子にまつわる数奇な運命の流れに思わず背筋を電流が走り抜け深い感銘をもたらすと共に、また違った異相の領域からは不明瞭なままに蠢動する正体の知れぬ憧憬となって現れた。
語る側としても興奮を高めてゆくのか性也は「どうなんですかねえ、いくら律儀なとこがあってもああいう感じで極端に切り替え出来るというか開き直れるというか、女は底が知れないんですよ」
ことの次第は、そうあの夜の山下昇がもたらした猟奇的な事件から、後日潭へと日々の垣根を飛び越えるようにして今ここに異彩を放ち訪れた奇矯な現況の顛末である。
貞子は事件の直後、身狭の公衆便所の個室で血に染まり横たわる昇に密着する驚愕と恐慌の疾風にさらされながらも、懸命に冷静さを呼び覚ますべく沈着な意思を確認し、まずは忌みに密閉されたの扉を開放するとようやく足取りに奮いを立たせ広場へと駆け出して、悲痛に呻く夜鳥の叫びを上げた。幸い通行人もまばらながらこちらを凝視する。救急の連絡を急ぐと同時に、現場に引き寄せられた数人の見知らぬ人達によって昇の体は持ち運ばれるようにして外にそっと移動させられた。やや離れた夜影には、あの夜回り憲兵らしき姿もあった、、、
昇は意識をなくしたまま直ぐさま病院へと搬送され、一命は取り留めたのであるが、事件性重大と判断した警察の調査に対して、何と貞子は真相を述べぬままにうやむやとした返答で濁し、執拗な尋問を簡単に収束させてしまったのだ。
つまりは合意に上での行為であり、付近のものの気配に驚いて思わずの事故であったのだと。
合コンという席から、意を酌み交わしお互いの気分が高揚して性的な愛撫に発展しただけの事、失神した昇の手に忘れもののようにあったナイフは手品を見せようとして店内でも携えていた事実、密室に於いても冗談まじりで陰毛を削ぐ仕草を見せていたたわいもない遊びであり、凶器としての機能などまるで有していなかった等、貞子は悲惨な面持ちに目元を曇らせてはいるものの時折、花びらが香る優し気な笑みをかいま見せるのだった。痴女が秘める不適な媚態を匂わせるように。
搬送先の外来の医師からの報告で当局に知らされるには、幸い損傷は重篤に至っておらず血管を傷つけた為の出血であり、縫合し処置を施したので器官として重大な欠損にまでは心配ない様子で、本人もかすかに意識を取り戻して、酔いがまわって場所柄をわきまえずに思わぬ行為をとってしまった、と答えているとの言に、取り調べの署員は事態の成り行きを痴情の延長と個人間のアクシデントに還元し納得を得たようで、貞子はようやく署を後にした。

それにしても何故、貞子は事実を曲げてまで、昇を庇立てする行為をとったのであろうか。
性也は続けてこう話す「やっぱり自分自身のプライドって奴じゃないですか、やられたままなら被害者になるし、ことがことだけにどっちにしたって、同情よりかは笑いの種になるって。それよりかは、愛欲っていうんですか、色恋の結末も自分なりの悲劇で受け止めたいっていう。他人から被る危害は嫌なんですよ、きっと。それならいっその事、性欲自体を骨抜きにして喜劇っぽくさらけ出す。同じ笑いを買うのでも、こっちから売りに出すみたいな。そんな咄嗟の判断って女性特有なのかなあ、よくわからないけど。けど、貞子さんは直感的に自尊心を守ろうとしたと思うんですね。山下さんの立場を考慮してとかじゃないですよ、絶対に。僕はそう思いますけどね」

それぞれの心情は時空に定まることはない、虚空にこだますることはあっても。
貞子の生来の気性が、たとえ性也のいうように自尊心に塗装された彩色であったとしても、やはり道標はいつも不透明であり、無常である。己が世界を感じるより、世界の狭さが広大な感性を歪曲したのであった。