晩夏


残り火を見つめる眼差しがいつも寂し気であるとは限らない。何故ならば、それが燃えかすにと見誤れる所以はないのと同じで、弱火だからと云って命尽きる末期の光景と判断するのは危険であろう。
仮にそこが発火点だとしたら、もしくは五輪の聖火に於けるような永久の種火としたら、ことの意味するものは例え時間軸に沿おうとも大きく相貌は異なり、視線そのものに付与される感情の面も又、不確かな形相となる。
哀しみの目の先に見える歓びの映像。ちょうど小さな巻貝が荒磯の波濤の下で棲息する様にも似た、我々の思惑には判然と収まりきらない詩情。巻貝には間違いなく巻貝の生命志向が宿っているはずと云う、美しい幻想、、、一体何を考察出来るのだろうか、、、身勝手な推測に於いて、、、精々、螺旋状に巻きあがるその堅牢な殻にめまいを覚えるのが私情と云うものだ、、、
しかし、いつやらのめまいとは違って上戸麻菜の眼差しが、正鵠を得ていると確信させるのは、どのような理由からなのか、、、我々はよく知っている、、、決して理由などないと云うことを、、、
片鱗、断片、風聞、浮言、そして直感、これだけでも十分であった。後は麻菜がさり気なく巧みに主導権を得たとばかりの気負いで鈴子に接した。
目立たちはしないがそこはかとない風のささやきのような鈴子の居住まいに、当初好感を持った麻菜は短期間にしては珍しく、対する彼女の裡へと次第に興趣を覚え始め、今では良き話し相手と自覚するまでに至った、尤もそう思いこんでみせているだけかも知れなかったが。
特に努め先を知るに及んでは、その意外性に依り、いつもの質とは異なる軽いめまいに襲われた。
「それってこの先にある金貸し銀路の所じゃないの、へえ、ちょっと驚いたな。鈴子さん、見かけによらないのね。あっ、ごめんなさい、そうじゃなくて、何というか、知らなかったんでしょ、もしくは紹介とか親戚だったりして」
「中学校の先生をしてらしたのも知ってます。色んな評判や噂も。この間ここの帰りに木梨先生を偶然お見かけしたんです、、、」
「先生って、鈴子さん、まだその頃は、、、私らが在校してた時までよ教師だったのは。まあ有名だしね、で、面接に行って来た訳ね」
普段は口数の少ない鈴子だったが、乗り出さんばかりの鼻息で有無を言わせぬ快活なテンポの麻菜のペースに思わず有り体のことを、訊かれるままにぽつりぽつり答えてしまった。
もちろん学生の頃からの思慕や、自分でも不透明なままにしてある中核の部分は口にしなかった。そして、先日の面接採用の折、身体を奪われてそれ以来当たり前のように関係が続いていると云う、かなり衝撃度の高い事実も当然語ることはなかった。
しかし、麻菜は独特の嗅覚で鈴子の裏側に隠れている謎めいた箇所を探りとってしまい、それがどうあれ、今すぐに白日に曝すようなことより、いつか本人から胸襟を開いて接してくるであろう到来に期待していた。興味本位な目線をこの人に向けてしまうのは仕方ないけど、罪のない草花をむしり取るようなアプローチは避けたいと願ったからである。
それに、鈴子さんは自分の方に親近感を抱いてくれる。それがこんなにも強く敏感に伝わるのは滅多にあり得ないこと、、、数少ない友人らの親密度に比較しても、更には幾度かの恋愛や行きずりの遊戯に於ける、あの虚飾に彩られた馴れ合いにも見あたらない嗅ぎ取れない、信頼にも近い清々しい香り、、、
それからもグリムへ夕刻や宵の口の時間帯に麻菜が訪れれば、必ずといっていいくらい鈴子の優しい姿に出会えた。携帯番号の交換もなく、待ち合わせでもなく、ただ、そこには麻菜も失ってきた何かが、音もなく漂っているのを感じて、それだけでもいつもの気分ではない自分を発見したのであった。
やがて千打金融の風説は嫌でも麻菜の耳に飛び込んで来る。そうすると以前と同じような会話の中にも、不純分子が紛れ込んでしまうみたいで、麻菜はまるで自分に降り懸かる埃を払うように神経質な顔色を時折覗かせた。執拗な質問が目の前の鈴子から反対に矢継ぎ早に飛んできそうな予感さえ覚え、隣の小さな娘を思わず抱き寄せたりもした。
そんなある日、遂に鈴子が愛人紛いの雇われの身であると云う幾多の伝聞が否定出来ないことを知った、そう鈴子自身の言葉として。
始めてこの場が淀んだ。麻菜は表情が暗色にくすみ、目が虚ろに後退して行く、夜更けの悪意を全身で感じていた。