晩夏


鈴子の想いの片鱗を麻菜が感じとったのは、ここグリムでの挨拶にお互いが、何らしかの情感を含み始めるのとほぼ同じ頃であった。
まだ幼い娘を伴っている若い母親象に対して、説明することが無意味なほど、普遍的な親和と情愛を重ね合わせるのは極々自然に思えるし、何よりも母性が持つであろう睦まじさに目を背ける理由が見当たらなかった。銀路を思春期より想い続けていた本心が、どんな遮蔽物で覆われていたのか、裏を返せばどうして直情に輪郭が形成されなかったかを、問い治すのが不必要であるのと同じ心持ちで。
鈴子は女性一般の感性でそれらを汲み取ったのでななく、平均化される以前の個人の視線をもって疑うことなく了承域に収めてきたのだった。決して激しい情念として溢れ出そうとするからそこに危機を感じとり、荒廃した土地を地ならしするように、穏便に健全にことを見つめていたのではなかった、例え内奥の底に激流が逆巻いていようとも危険視するには及ばない、何故なら血の絆も、親愛の情も、無償であると信じたかったからである。
教職から追放された銀路に抱いた一方的な恋情の萌芽となる、その核の中身まで覗きこむことも然して根拠がないと思われた。所詮は断片的な志向や欲求の側面が意味あり気に提示されるだけで、それら自体に果たしてどう対処し又は期待を持てと云うのだろう、根源的な欲情とはもうそれ以上は皮剥きしてみても儚い欠片が残るだけだ。
憧れとは、いつも未知数の物語の中に立ち現われる。他人が銀路の悪徳に痛罵を浴びせ、不良と陰口を叩こうとも、鈴子にとっては遠いこだまでしかなかった。無論、負のイメージに残響するだけの、或は俗悪に染まるような単一の閉じた声域とは相容れない、幾重にも連なる幻めいた音像であり、誰にも聞こえない自分だけの独唱として鳴り響いていたのであった。しかもその音源は幸いにも、乖離した辺境の地でも、断絶された見知らぬ世界でも、ましてや黄泉の国でもない、大阪の街と云う十分に手の届く場所に存在しているのである。これが鈴子の憧憬に拍車をかけ、曖昧とした霧中に光明を与えて、戯れに流れ終わる一過性の妄想劇の土台固めとなった。それは姿知れずのこだまと、かげろうが舞台へとせり出し、やがてはその溌剌とした心身の生育と共に、あの年頃特有の不可能なき跳躍台が築き上げられると云った捷径に違いなかった。
山の彼方の都会に棲息する銀路はいつしか、きらめきの王子となり、夢中の目標点となる。だが、鈴子は恋する少女にありがちな、対象そのものへの熱情がいつの間にやら対象を乗り越えしまう、あの独善的な陥穽に嵌ることなく、その目標を強く念じて疑いを挟まなかった。道程は確信に満ちていた。ひたすらに信ずる妄念は一見、時間軸から大きく逸脱するように見えてその実、茎葉がそれぞれ地と空に根や緑を広げていくように、確実に時のうつろいに即していく。
現実的な反映される心象に緊縛され捕獲されることはあっても、目を背けたり、気まぐれとは言え途中で放擲することはあるまい。ところが、鈴子は心の襞を這い回り、もはや溢れ出すと思いきや、その恋情を封印してしまったのだった。まるで牙を抜かれた野生の動物の眠りのように。
そんな所作は実らない果実の木をあえて伐採したと云うふうに映るかも知れないが、実際は深い熟慮の末でも、夢から醒めた心変わりでもなかった。ただ単純にこう考えただけである。
「いつか成就すると、今を信じる為に、無駄なあがきはやめて胸の奥底にそっと潜ませておこう、光であるのなら、私の影に隠れて輝いていればいい、、、そうすれば永遠に失なうことがないから、、、」
他愛もない少女の揺れる感情の起伏に沿ったであろう艶消しの意想に対し、あまりに拍子抜してしてしまうのは早計と云うものだ。我々はこの様な無造作な心模様の裡に咲いた、ある恐るべき早熟を透かし見て驚かざるを得ない。
鈴子は純情なる強欲を、感受してしまったのである。但し欲望の核心までは見通せない、それ故に大方の若齢では感傷の中へすべてを投げ出すことで折り合いをつけようとする。結局、気分そのものをもう一度、曖昧にしてみせると云う汚れなき免罪符の発行なのだが、、、しかし、そんな凡庸な方法を用いることなく、この少女は見事に封じたのであった、、、悪魔と契約する不遜なる確証をもって、、、