晩夏4 鈴子の願いは、そこでは何も起こらなかった。親子はしばらくの間くつろぐいでいる様子だったが、ガラス越しに夜の帳が下りる頃合いを見計らって退店してゆき、カウンターの二人も腰を上げ帰り仕度を見せている。 鈴子は帰宅時間に門限があるわけではないけれど、実家といえど居候の現状であり、夜遊びに対し口やかましく小言を頂くまでもなく、分別は自分で重々に承知しているつもりだった。それ以前に、夜のこの町に出かけた記憶がない、大阪にいた頃は歓送迎会や忘年会に参加もし、飲酒もそこそこはいける方だったが。 鈴子はグリムを後にした。町には宵闇が濃厚に迫っている。光の恩寵から遠ざかった陰翳は、過ぎ去った明るみにどのような想いを寄せているのだろうか。鈴子が鈴子らしくある為に、そして弧影の中ですべてが完結する為には、あの妄念とも云える劇的跳躍を信じ抜かなければならない。自分の影を誰よりも理解しているのは鈴子自身だったからである。そうして、我々は次の場面で矢張り奇跡に遭遇するのだった。 商店街を先程とは逆に歩みながら、家路への連なりに向かいかけた悄然とした鈴子の目に、怪し気な風体が飛び込んできた。杏色のスーツに身を包みポマードで頭に照りをつけた時代から置き忘れられたような、けばけばしく毒気のある格好は見るものをして、うさん臭さを第一に香らせ、次には恐いもの見たさにも似た興趣を、最後にはひたすらに脱力を覚えさせた。それはまるで、湿気って火の散らない玩具の花火のようだった。 ともあれ、一種異様の境地へと誘うその人物が木梨銀路であることは、一目瞭然であった。中学校内ではすでに伝説となって、鈴子らの周りでは語り継がれていったからである。教育熱心で生徒や父兄からも信望のあった教師が、ふとした弾みで階段を転げるようにして奈落へと堕ちて行ったと聞く。賭博で借金を抱え込んだとも、女子生徒を孕ませてしまったとも、海外から違法の甲虫を密輸して売買していたとも、巷間の噂は様々だった。教師時代の銀路の写真は、あたかも俳優や歌手のプロマイドの如く密かに回覧されていた。先生方の間でさえ、今だに思い返したかのように話題に上っている。大阪で金融業に専心して成功の暁には、故郷に錦を飾ると豪語していたと云う風聞も耳新しい折、つい最近、到頭その悲願が叶って商店街に店を構えたと、鈴子の両親も話していたのだった。 見れば、銀路はいかにも忙しそうな顔つきをして、貸店舗らしい古びた木造建てのガラス戸に張り紙をしようとしている。ほぼ銀路とすれ違う距離まで来た時に、その紙に書かれたものは求人案内であることが判明した。 その刹那、まったく予期さえしていなかった意味不明の激情に駆られたのは、鈴子にとって始めての経験であり、あまりの揺さぶりに足下が覚束ない様は激震のそれを想起させた。そして何よりも衝撃だったのは、かつてない程の鮮烈な黙示録が、これから自分に起こるであろう啓示となりうると直感せしめた絶大な戦きであり、さしもの完結された弧影がすっぽりと覆われてしまった、あまりの壮絶な敗北にあったのである。心奪われたのではない、影が失われたのであった。人は恋することによって心とらわれるだろうが、、、 その場から、逃れようと一人もがいてみる様子は、さながら悪夢の渦中に於けるあの脱出劇を彷彿させる。とにかく鈴子は、強烈な磁場から離れなければいけなかった。この時には自身が祈願した磁力であることに気がつくはずもなかったから。 その夜、実家で目にした、地元新聞広告欄に掲載された千打金融、木梨銀路と印字された名を思わず復唱するに至って、鈴子は銀路に恋心を宿したと認めざるを得なかった。影には影の了解があった。こう分析してみるのが、もっとも筋道の明快な解釈と思われる、、、私の帰納法的な考えは正反対だった、、、何を糊塗し隠蔽したかったというのだろう、、、吹きすさぶ嵐の中へと飛び込んで行く無謀を回避する為に、わざわざ遠回りしていたのは、そう、新居の門を潜る前に、近辺から距離をとりそこに遠望してみせる、すべてを知りたいが故のあの欲望そのものだった、、、 翌日、鈴子は千打金融に電話を入れ、午後からの面接時間を決めた。すでに、恋は燃え上がっていた。 |
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