晩夏2 西日はガラス張りの店内にまるで照明具をあてたようにして、人工的な光度を見せつけていた。 夏の日暮れ時はその時間の幅が限定されがたく、もっとも優雅なひと時となる。西に傾き沈みゆく太陽の限りない情熱に対して、辺りが一斉に哀愁の旋律を奏で始めるからであり、己の気分も又、一日の終わりに溶け込んでしまう甘美な歌声のように、或は又、寂し気な紙芝居の上に台詞を重ね合わすことが何の不自然でなくなるからであった。 そして日没が近づくにつれ時折、一条の陽光が鋭く眼窩の奥まで突き刺すようなきらめきを示すことがある。その刹那、杉山周三は斜陽に向かって心の中で声援を送り、乾杯の音頭を上げることに得も言われない快感を覚えながら、いつもの台詞を静かに呟くのだった。「夕暮れから飲むビールは麻薬的にうまい」周三は残照を斜に浴びながら、今日の午後、港から見晴らした青い海を思い浮かべた。 夏の風に話しかけてみたが、落ち着きがもうひとつで邪念が雨雲の如く沸き上がってくる。蒼穹の真下に寝転びながら潮の香りを思いっきり吸い込んでも、周三自身は追われるように乖離してしまうもどかしさにとらわれた。しかし、近くで老人が垂れた釣り糸に小鯵が面白いくらいにかかる様子を見て、ようやく気分が晴れてくるのが分かった。何のことはない、大空よりも大海よりも味覚が鮮烈に迫りよってきたからだった。そして暮れゆく胸中がすでに先んじて夜を歓待しようとしていた。黄昏時はいわば格調高い前奏曲として段階的推移の階調を謳い上げてゆく。 入れ食い状態に釣れている鯵を見て、好物の南蛮漬けをまず想起し、続いて渇いた喉を冷たく潤すビールの泡立ちが脳裡を完全に支配した。 上戸麻菜が喫茶グリムの扉を開いた時、ちょうど周三がグラスの中身を飲み干そうとしていた。 「いらっしゃい」店主の落ち着いた声に気を引き、入り口方向に目を遣ったまま、軽く会釈すると、麻菜も白い歯がこぼれるくらいの笑みで挨拶をした。 「杉山先生、今日はいつもより早いですね」と愛想よく麻菜が話しかける。「いやあ、潮風を受けながら物思いしてたんだが、どうもいけません、気分が落ち着きません」周三はどこか照れ隠しする顔つきで、ビールを新たに注文した。普段は夕食前と云うこともあり一杯にしておくのだが、今日の西日があまりに鮮やかな為か、空腹時の飲酒が早くも心地良さに拍車をかけたのか、上昇気流にように気分が高揚していくのが自覚出来た。 麻菜は時折この店で顔を合わせる杉山の、気さくなようで繊細な、飾らないようでいて常に何かと格闘している素振りが垣間見える、その居心地の悪さの微妙な加減が何故か、ほほ笑ましく思えたのだった。歳の頃は四十半ばを越えていると聞いたが、丁寧な口調と控えめな態度は品の良い好青年を彷彿とさせるところがあり、実年齢よりは幾分若く見える。 先生と以前、他のお客から呼ばれていたので、挨拶程度の距離だったにも関わらずある日、麻菜は興味本意のままに尋ねてみたのだった。 「あっ、僕はですね、別に学歴などないんだけど、近所では蜘蛛博士とか蜘蛛先生って言われてるんです。小さい頃から節足動物全般に関心があって飼育したり、図鑑で調べたりするのが好きだったわけで、そうこうするうちに蜘蛛研究に絞られてきたんですよ、女の人はほとんど嫌いでしょ普通」 「いいえ、私はそれほど嫌いでもないです。家にはこの季節いつも巣を張ってるし、確かに触ったりは出来ないけど」 団栗みたいな大きな目を開いてそう話す麻菜に、周三もある親近感を抱いた。遊び半分の子供相手に蜘蛛談義をすることはあっても若い女性に、自分の趣味見解を開陳することなどあり得なかった。同性であれ異性であれ大概の大人は悪趣味だと陰口を叩くものだ。家庭内でも妻には呆れ果てられ、娘には気味が悪いとまともに口も聞いてもらえない始末である。そんな環境に蟄居する如く、肩身の狭い思いで棲息する自分に対し、激しい叱責を向けながら、頑なに意思を貫こうと云う執念が日頃の鬱積へと堕していくのも十分に理解しているつもりだった。周三が根っからのエゴイストであれば、確実に自分以外のすべてを軽蔑し呪詛の言葉を吐きかけただろうが、元来が学者気質の透徹した見解のある彼は、穏健派を演じてみせることで、どのような場面でも人当たりよい接し方を心掛けることにより、自尊心を安定させたのである。はなから軋轢を抑制し続ける努力も研究対象に通じると、信念を抱くことで、蜘蛛博士の心の巣は強固な網となって増々、妖し気な粘着物質を育んでいったのだった。獲物と呼ぶには礼を欠くかも知れないが、捕獲されたにせよ理解者を得ることは親近感をもたらす。比喩すらがこの調子であった。 不可思議な均衡の上に乗る周三の内奥を僅かでも、伺えたのは麻菜の慧眼だったと云えよう。 |
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