晩夏12 その夜、事件は起こった。一夜にして町中へと異常事態発生の悲報は伝播していった。様々な憶説や流言飛語は熱風となり、夜気は忽ちに蒸発してゆくところだったが、寝た子も叩き起こす巷間の反響が一気に過密度の沸点に達すると、水蒸気は乱層雲になってあまねく地上に降り注いだ。その雨脚は集中豪雨を思わせる勢いで、人々の足下に泥濘となり押し寄せたのである。皆が立ち往生するまで然して時間は必要としなかった、恐慌はいつも迅速にやって来るものだ。 木梨銀路の死も又、目撃者により界隈から広まっていった。最初は大惨事の片隅に小さく報じられる新聞記事のように見なされていたのだが、次第に事の成り行きが明らかになると、大きな見出しの中に本文として組み入れられ、同時多発の惨劇として語られだした。流れ玉の悲運に見舞われた死亡記事となって。尤も実際にはひき逃げだったのであり、新聞はおろかすべての情報は封鎖され、報道など一切あり得なかったのだが。 悲報を受けた鈴子の衝撃は、筆舌に尽くし難い。と云うのも悲嘆にくれる有様、ひたすら号泣だけが延々と連なる態を書き写してみたところで、果たして一体、彼女の何を説明出来るのであろうか。 我々はこれまで、小高鈴子と云う女性の心象風景に分け入ろうと微に入り細に入り考察を重ね、不可分な領域に関しては、臆見と独断をもって冷徹にひとつの方向性へと突き進むことで、その重責を全うして来たのだった。もうこれで十分ではないか、、、否、そうではない、冷徹などと言いながら、最後の詰めに於いては、ご都合主義の感傷に流され深追いを避けようとしている、、、その先に光芒を見いだすことが徒労に終わると云わんばかりの面持ちで、、、ならば十二分な挑戦をもって、鈴子の深海成層へと大胆に潜水を試みることで漸く我々は真の終息を得る。 絶対の暗黒、まさに影の中の影、漆黒の海洋底まで深く降りて行けるのも、不謹慎ながら銀路の死がもたらした恩恵であった。 人々を震撼とさせた事件から3日後の夕時、麻菜は娘を連れてグリムへと向かった。途中、千打金融の建物を窺って見たが、人の気配もなく店先はまるで釘で打たれたみたいに厳重に閉ざされている。 グリムには杉山周三がカウンターで一人、いつになく気難し気に目を細め、首を傾げて何やら考えこんでいる様子だった。周三が口にしているビールに必要以上の苦みが感じられたものの、麻菜は軽く会釈をして、少し間を空け席に座った。世間は不気味なほど見た目が静まりかえっていたが、この店の空間はいつもと同じく独特の停滞感に包まれているので、さほど普段と違った雰囲気ではない。 異なるものは、そう、麻菜自身の心持ちだった。そこから投げかけられる視線が時のすべてとなる。気分の高揚も意欲の低下も、そして体調の善し悪しも同様にまわりを変貌させる。それが壁や天井、食卓、テレビ、衣服、風景、対人であってもやはり、恐ろしく忠実に背景を際立たせてながら、全景へと溢れ出す。ちょうど、丼鉢の中身をひっくり返した時のように、取り返しのつかない不注意にも似て、後の祭りとも呼ばれる。祭りでなくとも実際は実際に違いない。とは云うものの、常に謝罪なり反省をもって、不始末をありありと喚起させ、反芻させる直情とは比較出来ない。何故なら、丼の中身は一目瞭然だが、心の中身は本人でさえ意識不可能な場合が往々だからである。 先日、鈴子に対する一方的な会話の奥底に感じとった、結果つかみきれず、自らの言葉にも当てはまらない齟齬が生じたのは、どうしょうもない現象であり、そこからあえて納得を、手応えを、得ようとするのは我田引水以外の何者でもなかった。しかし、それでも人は他者の向こうにある糸口を探り出しながら、どうにか体裁を取り繕うことに執心して、思索とやらの名のもと、時には倫理的、道徳的、情愛的な本来的な関心を示そうとする。つまりは、料理のようなものであった。それぞれの素材を選び、名のある品に調理して美味しく頂く、たまには失敗もするけれど、最初から不味い食べ物を目指したりはしないものだ。 気がつけばいつの間にやら、麻菜は周三と一緒になって銀路を含めたあの惨劇の話題に、堰を切ったようになだれこんでしまっていた。当然と言えば、当然である。そして麻菜が一番気掛かりだったのは鈴子の身上だった。高熱で悪寒を覚えながらも、調理場で揚げ物を拵え続けた、アルバイトの頃の気丈な精神が不意に思い返される。終業時間が来るのをひたすら念じながら、その場から離れようとしなかった、あの熱気を、、、 |
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