晩夏11


緊急事態の警報音はおおよそ不協和音として我々に、生理的嫌悪を催させながらも、時として胸の裡へ凶事の形骸だけを知らせようとする。それこそ歌劇でも鑑賞するような安楽さを内包しつつ、しっかりと効果音だけが鮮明に耳朶に触れていく。現実感が希薄になると云うよりもそれらが捨象され、ひとつのふくよかな調べの残滓と成り果てるから。その来たるべき遠い音像に、えも言われぬロマンを聴き出すならば、きっと心地よい神経の逆なでになるに違いない。
鈴子はあらゆるものに対して耳を塞ぎ、目を瞑ったと思われるだろうが、果たしてどうなのか。蒔かれた種子が日毎に成長する姿を欠かさず見続けているより、つぼみが開花する待望の日まで待ち受ける方が、大きな感銘を得るように、過程に一切眼差しを遣らず、その先に現われる結実だけを願い通したとしたら、、、さながらタイムカプセルに封じ未来に送付したのだとすれば、、、そう、少女は必ずしも影の中だけに潜んでいたとは言えない、何故なら、真昼の強烈な陽射しは、夜ともなれば漆黒の蛇となり、冷酷な美しさの二重奏を心身に共振させていったからである。やがては、大いなる交響曲へと導かれる前奏として。
鈴子は知っていた。すべてが時間と云う曲線に閉ざされている、壮大な牢檻の圧倒的な円環を、、、そして、やがて自ずと向こうからすべてがやってくることを、、、
この夏の盛りによって、影絵はもはや濃淡だけの世界から超越し、万華鏡の色彩で描画されてゆくだろう。過去の夢魔は早熟果実の甘味に包まれた馥郁たる香りを夜気に放ちながら、あでやかな想い出となって月光の彼方へと消え去り、夜明けが始まりだす頃には、次第に魔術によって縛られた氷の箱が、朝日で汗を滴らすようにして溶けだしてゆく。
そうして現実は随分と勿体をつけて正体を曝すのだ。最初は麻酔から覚めた患者のようで、全身の感覚も思考もどんよりと停滞したままだった。だが、今はもう悠然と濃霧の膜を破り、見据えることが出来る。
上戸親子の睦まじさの向こうに見え隠れした、断片的な感情移入の何と凡庸だったこと、、、紋切り型の結婚願望、出産願望、、、生まれて始めて実物に遭遇した、そう、木梨銀路の、あまりに理想から隔絶した風貌、、、この場合は、再び現実に騙されてしまったと言える、、、ありのままに凝視することで脱力まで促し、自らを欺きかけて解凍を妨げようとした、、、しかし、すでに始まっていたのだ、、、純愛と云う重力を引き受けたあの少女は決して、別人ではなかったから。
隙間に風が吹く、、、時間に裂け目が現われる、、、少女から大人の女に成長したのなら、それなりの現実に向き合わなければならない、、、千打金融に就職、、、処女喪失、、、これが念願だったのなら、そう信じなければ何もかもが風化してしまう、、、隙間なんてない、裂け目なんてない、、、光が差しこまなければ、影穴など始めから存在しないのと同じ、、、今だって存在しない、ずっとずっと絶えることなく灯し続けてきた小さな炎は永遠だから、、、昼と夜が交互に、光と闇を演出しなければいけないのならば、それも宿命、この灯火も宿命、、、私は光になる、そして、その光で何もかも照らせばいい、、、、
鈴子は生まれて今、漸く謎が解けた開放感に激しく魂を揺さぶられた。きっかけはともあれ、麻菜の歩みよりに違いなかった。何より同一視などと思わせぶりな意想でも、はかり知れない深淵に沈潜した冒険心に感謝しなければいけないところだが、残念ながら鈴子には、そんな相手の好奇と誠意が混濁となった思いやりを感じとることは出来なかった。しかし、心の中ではこう自分に言い聞かせたのである「いつか、麻菜さんにもっと色々とお話すると思う」

数日後の夕暮れ、いつものようにグリムを訪れた鈴子は、そこに見知らぬ男の姿を目のあたりにした。カウンターに一人ぽつねんと腰掛けている風情にも見えたが、何気に横顔を窺ってみれば、喜怒哀楽のどれにも当てはめられない、何とも不気味な雰囲気を漂わせている。あまり、じろじろ視線を遣るわけにもいかず、麻菜とよく相席する奥の方に向かった。今日は他には客がいない。紅茶を注文した鈴子は一人、席に身を落ち着かせていたのだが、そのカウンター客の店主に話かける声は、聞くともなしに耳に入って来る。
「すいませんが、七時になったら電話かけてもらえませんか、ええ、三島さんに。僕は携帯持っていませんので、それからビールをもう一本」その渇いた声はとても印象深く聞こえた。
「わかりました、みつおさん」店主がそう頷くと、それから又、店内は異様な静寂に包まれたのだった。