Tea-House Moon 7



「……すっかり遅くなっちゃったね。」  二人が丘の上に着いた頃には、もう日の光が地平線辺りに霞み、天には星が瞬き始めていた。
 街からずっとゆっくりな歩調で歩いてきたのだ。飛影なら、ずっと速く移動することが出来るだろうに、蔵馬に合わせてここまで一緒に歩いてきてくれた。
 蔵馬は嬉しかった。こんな時に、そばにいてくれる誰かがいて、それが飛影なのだから。
 涙はいつのまにか乾いていた。
 店内には当然のことながら、昼間いたみんなはもう帰ってしまっていた。しかし、その時使われていた食器はちゃんと調理場に集められ、カウンターにはそれだけのお金が集められていた。彼らの精一杯の思いやりだった。
「飛影……今夜も、ご飯食べていくでしょ?……そうだ、今日は隣の方のガーデンハウスにしましょう!貴方はそこで待っていて下さい。」
「……?」
 いつも飛影と食事をする時はお店のカウンターだったけれど、今日は特別に場所を変えることにした。そこは、蔵馬が飛影と初めて会った場所でもあった。
 色んなことを、飛影に話したい。彼は耳を傾けてくれるだろうか?本当のことを知って、飛影はどう思うだろうか……?そんなことを考えながら、蔵馬は簡単な食事の用意を進めていた。

「…………。」
 飛影はずっと黙ったままでいた。今まで人付き合い……じゃなくて、動物付き合いのなかった彼だったから、こんな時何を言えばいいのか全く分からなかったのだ。だからここまで来るのに、手を繋いでいることしか出来なかった。その際、恥ずかしいとか何だとかゆー考えはムリヤリ頭の隅っこに追いやってだ。
 こーゆーのって、オセッカイっつーのか、ヤッパ……?
 薄闇の中、徐々に昇っていく満ちた月を横に眺め、飛影は食事の準備が終わるのを待っていた。今日起こった出来事を考えながら。宙を舞う澄んだ風が頬をくすぐる。
 アレは昼過ぎのことだった。
 ティーハウスが近くに見える木の上で昼寝を決めようとした時、店に駆け込んでくる少年の姿に気付いた。
 オレとどっちが背が高いだろーか、などという極めて下らないことを思い付きその姿をよく見てみると、蔵馬と同じ白いウサギ少年だということが確認出来た。ということは、蔵馬の昔の家族なのかもしれない。
 蔵馬は、かつて一緒にいた家族に対し、複雑な想いを持っているようだった。それが彼の苦しみの原因だということも何となく知っている。今から何かが起こるかもしれない。少年の身長などはどうでもよくなった。
 耳をダンボにして(ペンギンの耳がどこにあるのかは知らぬが)、そのまま木の上から様子をうかがうことにした。
 先刻のウサギ少年は案の定、蔵馬の弟だったようで、彼は蔵馬に家に戻って欲しいとしきりに促していた。
 しかしそれに対して蔵馬は、少年の意志に従おうとはしないようだった。
 …………何故だ?
 お前がずっと抱き続けていた苦痛の原因がソレなのだろう?
 今まで逃げ続けていた結果なのだろう?
 このままでいて、心の中にしこりを抱いたままで、これからもずっと苦しみ続けるつもりなのか?
 それは嫌だ。オレには直接関係のないことだとしても、蔵馬の苦しむ様は、見たくない。もう御免だ……!
 そう思うといても立ってもいられなくなり、気付けばなりふり構わず蔵馬のもとに飛び込んでいた。その場には雪菜もいて、本来ならば彼女にオレの姿を見せたくはなかったことも、既に忘れていた。
『オイ、蔵馬ッ!!』
 急に目の前に現われたオレ様に、蔵馬は相当驚いた様子だったが、今はそれどころじゃない。
『お前、このままでいいのか?本当にいいのか?』
 本気で言い放った。このままで、決して終わらせるものか。そんなこと、このオレが許さない!
『お前が行かないのなら、オレがムリヤリにでも連れて行く!来い!』
 そして蔵馬の腕を引き、表に出た。自分で蔵馬の昔の家に連れて行くしかないのなら、この方法が最も手っ取り早いと考え、蔵馬を背中に乗せ、街中を跳んで行くことにした。その時は頭が一杯で、他に何かを考える余裕なんてなかった。ただただ、蔵馬がもう悲しむことがなければ……とだけ。
 蔵馬が自分の家に入るのを見届けた後、そのまま戻る気が起こらなかった。今頃、蔵馬は意を決して過去と対峙しているというのに、ヤスヤスと昼寝の続きが出来よーか、いやできまい。仮に家族とうまくいったとして、ティーハウスに帰った時独りでは、元も子もないじゃないか。
 仕方なしに、オレは塀にもたれて、蔵馬が戻ってくるのを待ち続けることにした。オレの軽はずみとも言えるこの行動は、果たして正しかったのか、彼が全てを終わらせた時、最初に会う相手がこのオレで本当にいいのだろうか、等と考えつつ。
 蔵馬が戻ってきた時、彼の顔はやけに明るかった。それは夕日のせいかもしれなかったが。
『飛影、勇気を、ありがとう。』
 蔵馬からもらった言葉。そのたった一言が、何よりも嬉しく感じられた。お前を、救うことが出来た、証し。
 オレのあの行動も、今お前の目の前にいる相手がこのオレだということも、それでよかったのだと思えた。
 ……蔵馬のそばにいたい。もう決して彼が悲しむことのないように。もし仮に、それが叶わなくたって今だけは、そばにいてやりたい。
 オレはここにいる。
 そのことを伝えたかった。
『……帰るぞ。』
 伸ばしたオレの手を蔵馬が取る。その蔵馬の心底嬉しそうな表情が夕日に染まって、驚くぐらい綺麗に見えた。
 直視出来ずに思わず顔を背けてしまったが、自分に向けられたあの蔵馬の綺麗な顔は、きっと一生忘れられないだろう。そんなことを感じながら、握った手をそのままに、丘へ向かって歩き出した。
 途中、蔵馬が泣き出してしまった。どうしてなのかも分からなければ、どうすればいいのかも分からなかった。ただ、このまま繋いだ手を決して離さないことが一番いいような気がして、その手をそっと、強く握って、歩き続けた。
 このままずっと、蔵馬と一緒にいることが出来ればいいのに……。
 お前のそばにいたい。このちっぽけなオレの存在でも許されるのなら、お前のそばにずっといたい。そしてもし出来ることなら、お前をもっと幸せにしてやりたい。
 そんなことをもし言うことが出来たなら、お前はどう思うだろうか?得体の知れないオレのことだ。迷惑に思われるかもしれない。それでも、この想いは大切にしたいと思う……。
 そこまで考えて、気付けば、視線の横を昇る月が、さっきよりやや高い位置まで来ていた。飛影はこれ以上じっと考えていたっても、しょうがないような気がした。
 隣の店の中で、蔵馬は食事の準備をしている。いつもとは違って、その様子をうかがい知ることは出来ない。
 飛影は立ち上がると、店の中に入り、蔵馬に声を掛けた。
「……何か、オレにでも手伝えるようなことはないか?蔵馬。」
 その声に気付いた蔵馬は、一瞬きょとんとした表情を見せた後、目を見開いて言った。
「……うわあぁ……あ、ありがとう、飛影!もうすぐ終わるところだったんだよ。それじゃ、そのトレイを向こうに運んで下さい。」
 何気ない飛影の一言だったが、蔵馬はいたく感動してしまった。
 やがて二人の夕食が始まった。向かい合わせに椅子に座ると、テーブルの上から湯気とともに美味しそうな匂いが漂っていた。
「今晩は、やけに空が明るいな。」
 蔵馬特製オムライスをほおばりながら、飛影が呟く。
「今日は満月なんですよ。知らなかった?」
 蔵馬は首をかしげた。
「……何か企んでるよーな顔だな……。」
「そう……?後でのお楽しみですよ。」
 でも、その表情は『お楽しみ』とは違う、ちょっと不安の混じったような、やや複雑な感じだった。
 眼下に広がる街並みを満月が照らしていた。まだそれはそれほど高く昇っておらず、柱と柱の間から差し込むやさしい光が、お皿の並ぶテーブルを明るくさせていた。
「……いい眺めでしょ……?」
 その景色を眺めたまま、蔵馬は話しかけた。その瞳は、淋しげでもあり、また、誇らしげでもあった。
「そうだな……。」
「でも、誰もこの景色を知らない……この場所には、お昼の間にしかみんな来ないからね……。」
 お昼の間のこの場所は、みんなが集まって騒いでいるのに、その時間があまりにも楽しすぎて、夜の間はここを気に留める者は誰もいない。
 きっと、みんな……。
「誰かに来て欲しかったか?」
 ピクンっと、蔵馬の表情が一瞬強張った。
「……そうだね……。本当は、母さんに来てもらいたかった。」
「何故だ?」
 少し、返事にためらって、蔵馬は正直な気持ちを言葉にした。
「3年前……オレがあの家を出た時、ホントは……母さんに追いかけて欲しかったんだ。母さんのもとから離れようとするオレのコトを、引きとめて欲しかった……。だからわざと、同じ街にこのお店を作ったんだ。いつか、オレのところに来てほしいって……。」
 この人になら、何でも話したいと思う気持ちがあった。だから、ずっと心にしまっておくつもりだった想いも、素直に言葉にすることができた。
「随分と身勝手なものだな。自分から逃げ出しておいて。」
 飛影の意見は手厳しい言葉だった。家族に対して、一かけらの期待すら持ったことなどなかったから、正直理解しかねたのだ。
「……そうだね。オレ、身勝手だったね……。」
 そうつぶやくと、蔵馬はふふふっと苦笑いをした。
「……あ〜スッキリした……!」
 蔵馬の顔には、何か吹っ切れたような表情があった。
「……?」
 飛影は訳が分からない。まさか、さっきの言葉はまずかっただろうか……?
 そんな飛影の心配をよそに、蔵馬は言葉を続けた。
「でもね、思えばこの景色、ホントは飛影に一番見て欲しかったんだ。……ああ、もう始まる……。」
 その言葉が宙に溶けた時、蔵馬はその向こうに夜空が広がるはずの屋根を見上げた。飛影もその視線を追う。
 すると、信じられないことが起き始めた。
 オフホワイトの色をしているはずの屋根が……やがてクリスタルのように透き通り、星の空を二人に届けながらキラキラ輝き出したのだ。きっと外から見れば、幻想的な風景になるだろう。
「どう?飛影……。このティーハウスはその昔ある者の魔力をかけられて、一ヶ月分の月の光を溜めると満月の夜、こんなに綺麗に光るようになるんだ……。」
「……。」
 飛影は視線を蔵馬の方に戻した。
「……どう?」
 そう言って蔵馬は微笑む。わずかに不安げな表情を隠しきれずに。
 そこにはウサギの姿はなかった。いたのは、月と天井の光を受けたキツネさんだった。
 ウサギの蔵馬よりやや大きめの体躯に、長い髪は銀色に光を反射させていた。大きなふさふさお耳&しっぽが揺れている。
 容姿は明らかに異なるものであったが、唯一飛影を見つめる瞳の表情は同じだった。
「ふふ……驚いたでしょ。これは、オレの前世の姿。この建物の魔力の影響で、少しの間だけこう見えるんだ……。もちろんこの姿を見せたのは、飛影が初めてなんだけれど。」
 満月の夜、ほんのわずかな時間にだけ起こる魔法。はからずも母と自分を追いつめるきっかけになったこの身。
 ウサギに生まれ変わった今も、忌まわしいことにキツネとしての魔力はわずかに残っていた。自分はウサギの子だと断言できる。それでも、恐怖があった。『オレは母さんの子供じゃない』と母に思われているのではないか、という恐怖。
 蔵馬は家を出た。成長に従って、キツネの魔力を隠しきれなくなった頃だった。
 何もかもがどうでもよくなりかけた状態で、行くあてもなく歩き続け、気付けばここまで辿り着いていた。満月夜の魔法を放つティーハウス。
 この建物を、過去の自分が作ったことを思い出した。そこで一晩明かした後、蔵馬はここを住みかに決めたのだ。
 そんな昔話を、キツネの姿の蔵馬は語った。きっと飛影は驚いたに違いない。キツネは大昔から恐るべき魔力を持つとして忌み嫌われていた。今は正真正銘のウサギだとしても……。
 ところが、飛影の口から発せられた言葉は、驚くべきものだった。
「……知っている……。」
 銀髪の蔵馬は目を見開いた。
「し、知っている……?どうして?どういうこと……?」
 どう思い起こしたって、今までこの姿を他人に見られたことなんてなかったハズだ。
 飛影は蔵馬から視線をそらして語った。
「……今まで言わなかったが、オレには千里眼のような能力を持っている。それで……本当は、ここで初めてお前に会ったその前から、……お前のことを知っていた。……その姿も……。」
「ちょ、ちょっと……会う前から知っていたって……よく意味が分からないけれど、それって覗き……」
「う、うるさいッ。この力は元々必要最小限にしか使っていないし、それにお前に会ってからは一度もそんなことをしてはいない!」
 飛影は慌てて弁明しようとした。邪眼だろーが何だろーが、やはり覗き見であることには変わりなく、そのことで少なからず罪悪感を抱いていたのだ。
「……そう……オレのコト、前から知ってたんだ……。知っていて、それでもオレに会いに来てくれてたんだ……。」
 昼の間とは逆の顔のオレを、キツネの過去を持つオレを、飛影は知って受けとめてくれていたことを、初めて気付いた。
「本当は、ずっとお前に会いたかった。会って、何でもよかったから、話をしてみたかった……。」
 今なら蔵馬に言える。ずっとずっと、お前に会いたかった。そしてオレのことを知って欲しかったんだ。
「そんな……だっていつも、飛影はご飯食べたらすぐに帰っちゃうじゃないですか。だから、あまりそんな風には……。」
 飛影はいつも、せっかくご飯を食べに来ても、すぐに帰ってしまう。もっと話をしたかったのに、もっともっと一緒にいたかったのに……!だから残念だけれど、飛影は自分が思っている程オレと一緒にいたいとは思っていないのかもしれない、と考えていたのだ。
「それは……ッ。」
 飛影は急に立ち上がると、がしっと蔵馬の肩を掴んだ。彼の顔をいつもとは違う真剣な眼差しで間近に見つめる。その飛影の目には、もはや銀色のキツネではなく、本来の蔵馬の姿が映っていた。
「あまり長く……お前と一緒にいると……もっとそばにいたくなる……。離れられなくなる。お前を……抱きしめたくなる……。」
「ひ、飛影……っ。」
 飛影の腕が、蔵馬を抱き寄せていた。突然のことで蔵馬は驚いた。だけど、どんどん自分の頬が赤くなっていくのが分かる。心臓だってバクバク言ってる。だって今、好きな人に抱かれているのだから。
「……悪い、自制できなかった……。オレは……ずっとお前と一緒にいたい。ずっと一緒にいて……こうしてそばにいたいと思っている。」
 飛影の腕に、少し力がこもった。
「あ……。」
「もしお前がイヤだというなら、もう姿を現さないつもりだ……。それで、あんし……」
 飛影の言葉を、その時蔵馬が遮った。真っ赤になった顔で、飛影の瞳を見つめ返して。
「そ、そんなことないよ!だってオレ、飛影と一緒にいる時、すごく嬉しかった。ずっとずっと貴方のそばにいたい。オレ……飛影のこと、好きだから……!」



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