「秀兄、来てくれたんだね!早かったじゃないか。」 久しぶりの自宅、ウサギ一家の南野家玄関で、先に戻っていた秀一(弟)が嬉しそうに迎えてくれた。 「うん……心配させちゃって悪かったよ。」 「母さんはそこの部屋で横になってるよ。今はだいぶ回復している。さ、行ってきて。」 そう言って秀一少年は兄を促した。 再びこの家の中に入ることになるなんて……蔵馬(以下秀一)の心の中は複雑だった。 オレはこの家で育ち、そして3年前この家を内緒で出た。もちろん自分勝手な行動だと重々分かっていた。それでもあの時、自分がこの家に居続けることはもう出来なかったのだ。あの頃の苦しかった想いが甦ってくる。 だけど、ここまで来たからには、自分の気持ちをきちんと母親に伝えなければならないし、その決意も出来ているつもりだ。 秀一(弟)が言っていた母さんがいるという部屋は、以前から彼女が寝室として使用していた和室だった。 母は、このオレの顔をみてどんな表情をするのだろう……。最悪、拒絶されたって当然なのかもしれない。 「……母さん、秀一だけど、入るよ?」 秀一はそう言うと、一つ深呼吸して部屋のふすまを開けた。 3年振りに見た母親の姿。思ったよりはずっと元気そうな顔で、心底ほっとした。 「まぁぁ秀一!ホントに来てくれたのね。」 言葉を最初に発したのは、母親の志保利の方だった。 とてもびっくりした様子で……でもその驚きの瞳には、喜びの色がはっきりと見てとれた。 「うん、秀がわざわざ知らせてくれて……。母さんの方こそ、元気そうでよかった。もしかして昔みたいに、また大変なことになったら、って不安だったから……。」 目の前にしている相手の様子を伺いながら、たどたどしく言葉を繋いだ。 志保利は自分の息子に会えた喜びから、横になっていた身体を起こした。起き上がって大丈夫?と尋ねると、もう寝ている方が疲れそうよ、と笑う。顔色もいい。。 秀一は母親のそばに腰を下ろした。 「ふふ、秀ったらものすっごい慌てて……母さんは大丈夫よ、っていくら言ってもきかないのよ。けれどお陰で、また秀一に会うことが出来たのね。」 秀一(弟)がそんなに心配性だなんて知らなかった。けれど、幼い頃に本当の母親を失っている彼だから、もしかしたらやっと得た『母親』に対して過敏になるのは、当然のことなのかもしれない。 「軽い疲れだって聞いたけれど……?」 「やっぱり年には勝てないのかしら?そうよね、秀一もこんなに大きくなったくらいだし……。でも、今日はずっと休んでいたから、もう大丈夫よ。」 志保利は何事もなかったように、以前と同じようにしゃべっていた。3年というブランクを忘れそうになるくらい。そのことが、秀一にはとても気が楽に感じられた。そのような心遣いを示してくれる母に対して、心がいっぱいになりそうだ。 「その……母さん?」 「なあに?秀一。」 「……黙って家を出てごめん……。」 母親の顔を直視できずに下を向いたままで、今日ここで一番言わなければならない言葉を口にした。きっとボソボソにしか聞こえなかっただろう。それは、本当はずっとずっと、心の中でつぶやき続けていたセリフだった。 「……でも、今ここに秀一が戻ってきてくれて、母さん嬉しい。」 志保利は、実は、自分の息子が急にいなくなったショックと、それまで心に抱き続けていた想いとで、1週間くらいは食事も睡眠もままならなかった。その後も、それが心理的ストレスとなり、塵も積もって今回の件にまで至ったのだが、もちろんそんな事実は決して口には出さない。 「でもオレのこと、ずっと恐かったでしょう……?」 ずっと決して話さなかった、自分の身体のこと。それを今、初めて口にした。 「秀一……。」 子供の頃から、自分は明らかに普通のウサギの子としては変わっているんじゃないか、という自覚があった。何だか不思議な能力を持っているということも……。そしてそのことは決して周りに知られないように注意して生活していたけれど、自分にとって一番身近な存在である母親には、口には出さなかったが知られていると気付いていた。 「……あ、誤解しないで。オレ、本当に母さんから産まれてきたって信じているから。母さんと父さんの子供じゃないと、こんなキレイな毛並みにならないもんね。」 秀一は微笑む。この、生まれ持った身体は、自分の誇りなのだから。 「……そうだったの……母さんの方が間違っていたのかもね……。秀一は、私がお腹を痛めて産んだ子供だもの、母さんは秀一がどんなでも、大好きなのよ?でも……どうして秀一がそんな身体を持ったのか、母さんはどうしても分からなかった。秀一はそのことを、決して話そうとはしなかったでしょ?」 秀一は微かに胸が熱くなるのを感じた。今まで逃げ続けていた母親から、『大好き』だと言われたのだから。 母は、自分が間違っていたと正直に告げてくれた。しかし、秀一自身も彼女に対して、何かを誤解していたのかもしれない。 「だって……母さんを困らせたくないと思ったから……。」 「母さん、本当はそれが辛かったの。秀一に何をしてやればいいのか、全然分からなくて……母親なのに、何も出来ないなんてね……。その内に、貴方の姿を見る度に辛くなるようになってしまって……それから間もなくだったわ、秀一がこの家を出て行ったのは。」 当時、母が悩んでいた理由。それは、秀一が考えていたこととは全然違っていた。いつだって、自分のことを想っていてくれていたのに……。 「ごめんなさい……本当にごめんなさい……。あの頃、母さんがオレを見る度悲しい顔をするものだから、……オレさえいなければ、もう悲しむことはないと思ったんだ……。お互い、何かを誤解しあってたみたいだね、母さん……。」 「いやね、秀一……謝らなければならないのは、私の方なのに……。それに、あの時も、母さんを助けてくれたの、秀一でしょ?腕にケガした時と、それに病気で入院してた時……あの時は言えなかったけれど、ありがとう……。」 志保利はそっと息子の手を取った。その瞳は潤んでいた。……それはきっと自分もだ。 ……バレてたんだ。オレが秘密にしていたチカラで、母さんを助けたことを……。あの時は必死で、全然気付かなかったけれど……。 「オレは、違う何かのイキモノにいつか身体を支配されるんじゃないかと思ってた。でも大丈夫。いつだって自我を保てるって分かったから。オレはもう大丈夫だ。」 ゆっくりと、しかし自信に満ちた声で伝える。 自分の中に存在する『違う何かのイキモノ』が何であるかは分かっている。どうして自分がそうなのかも。だけどそれについては、あえて詳しく触れなかった。それ以上は自分の問題なのだから。 「そう……それはよかったわ。でも秀一?」 母は言葉を続けた。 「もう、家に戻ってきてもいいのよ?離れて暮す理由なんてないもの。」 …………。 「え……。」 オレが今まで一人でやってきた、あのティーハウスを離れて、またここに……? 「母さん、気持ちは嬉しいけれど……本当に嬉しいけれど!……それは出来ない。オレ、あそこでの生活が本当に楽しいから。オレは、あの場所にいるのが本当に好きだから。……ごめんなさい。」 そこまで言い切ってから気付いた。オレ、『あの場所にいるのが本当に好き』?ずっと夜の間、独りになる時間が辛くて苦しかったハズだった。いや、今まで気付かなかったけれど、そういえば最近、全然寂しいなんて思いもしなかった。それってもしかして……? 「おーい、お前。もう大丈夫なのか?」 その時一人の男性が二人のいる部屋に入ってきた。仕事から帰ってきた、義理の父親だ。 「あ……秀一くん!戻ってきたんだね。よかった……本当によかった……。」 自分が帰ってきたこと、義父にこんなに喜んでもらえるなんて……。 「義父さんも……今まで心配かけて、すみませんでした……。この通り、母さんとも秀とも仲直りが出来たんだ。」 今日、ここにこれてよかった。本当によかった。自分一人だけでは、今までの自分では、絶対に来れなかった……。 「それじゃ、母さん結構元気みたいだし、義父さんも帰ってきたし、オレはそろそろ戻るよ。お店そのままで、飛び出して来ちゃったものだし……。」 そういうと、秀一はすっと立ちあがった。実はエプロン姿のままだったりするのだ。 「その姿、似合ってるわよ、秀一。寂しくなったら、いつでも帰ってきていいのよ。ここは秀一の家なんだから。」 志保利はすっかり馴染んだ息子の仕事姿を眩しそうに見上げた。 「大丈夫。もう、寂しいなんて思うことはないから。でも、気が向いたらまた遊びに来るよ。……それじゃ、もうあまり無理しないで。」 部屋を出ていこうとした秀一に、義父が声を掛けた。 「そういえば、さっき玄関の前の道端に、一人の男の子がツッ立っていたんだが……もしかして、秀一くんの友達じゃないか?」 「……え?」 まさか……? 「真っ黒い、ペンギン少年だったよ。」 ……やっぱり……! 「まあ、お友達を待たせているのなら、早く行っておやり。」 「う、うん!」 ほんの少しの動揺を抱いて、母と義父といた部屋を後にした。すると、玄関へと続く廊下に弟がいる。オレが出てくるのを待っていたのかもしれない。 「秀、オレは帰るよ。……母さんのこと、オレに代わって頼んだよ。」 兄として発したコトバだった。でもホントは、こんな簡単なセリフでさえ一生言えるコトはないと思っていた。 すると、秀はためらいがちに口を開いた。 「秀兄……今度、秀兄の店に遊びに行ってもいい?」 ……彼はずっとオレのお店に来たかったのだ。オレの店は、地元の若者の間でもちょっとした人気で、もし今までのオレ達の関係がもっとよいものであったなら、その喫茶店の主が自分の兄だということをきっと仲間に言うことが出来ただろうに……。 「もちろん大歓迎だよ。負けてやるから友達も誘いなさい。オレのコト、自慢の兄貴だって言うんだゾ?」 「……うん!」 秀一少年にとって、義理とはいえ、兄は自分の一番の誇りだった。進学校でトップの成績だったし、容姿だって誰にも負けない(女の子のみならず男の子にまで、ラブレターをもらっていることだって知っている)。その上性格は穏やかで、家ではよき話し相手だった。学校の友達は誰だって羨ましがった。 そんな兄が急に消えた時、きっと兄にはそれなりの訳があったのだろうと納得しようとした。決して軽はずみな行動に出るような性格ではないことを、自分が一番よく知っているつもりだった。それでも、自分が一番近くにいたにも関わらず、家を出た理由が分からなかったことと、当然のことながらその後ひどく義理の母親が落ち込んでしまったこととで、秀一少年は兄に対してどう感情を整理すればいいのか、ずっと思い悩んでいたのだった。 それから数ヶ月後、風の噂で、兄が丘の上の『ティーハウス』と呼ばれている東屋で喫茶店の経営を始め、それが結構好調だということを知った。元気にやっていることに安堵しながらも、正直、心中穏やかではなかった。 だけど、これからは違う。憧れだった兄に一歩近づくことが出来た。今日、思いきって兄に会いに行って本当によかった。 蔵馬は慌てて玄関を飛び出した。その先に、自分を待っている人がいるかもしれないのだから。 大陽が街を眩しいオレンジ色に染めていた。家の門の先に人影が見える。 「……やっぱり飛影だったんだ……。」 飛影は腕を組み、じっと塀にもたれかかっていた。 「まさかオレのコト待っててくれてたなんて思わなかったから、ビックリしたよ。」 そう言って微笑むと、飛影は蔵馬の方を向いた。 「……もう終わったのか?」 その飛影の一言が、心の中に染み透っていった。『終わった』のだ、今までのあの苦しみが……。 「……うん………。飛影、勇気を、ありがとう。」 それは、今蔵馬が一番飛影に伝えたかった言葉だった。勇気を、ありがとう。もう一度心の中でその言葉を噛み締めた。 「……帰るぞ。」 「え……?」 飛影が手をさし伸ばしていた。オレの顔をじっと見つめて。 「…………。」 無言のまま、蔵馬はその手を取った。そっと握ってくれる、飛影の手がとても暖かく感じられた。オレンジ色に染まったこの瞬間を、忘れない。この瞬間を、決して忘れはしない。 飛影は何も言わなかった。やがて、蔵馬の手を引くように、日の沈む丘の上へ向かって歩き出した。その歩みはゆっくりで、まるで自分の心を気遣ってくれるかのようだった。 飛影の優しさが、繋いでいる手から伝わってくるようで、いつのまにか、蔵馬は訳も分からず涙が溢れていた。 胸がいっぱいだった。 寂しい夜の時間を、ちょっとだけ一緒に過ごしてくれた飛影。オレに家族と再び会う勇気をくれた飛影。そして今、オレの手を引いて、導いてくれている飛影。 さっき、家にいた自分のことを、飛影が待っていてくれていたと知らされた時、胸が踊った。家から出て、飛影の姿を確認した時、すごく嬉しくなった。他の誰でもなく、飛影だったから……。 飛影のことが好きなんだ。オレ、飛影のことが、こんなにも好きだったんだ。今頃気付くなんて……。 繋がれた飛影の手にぎゅっと握り締められて、蔵馬は泣きじゃくりながら、彼のあとを歩いていった。 |