妖婆伝7 「さあ、それからわしは茫然自失の体であったかといえば然にあらず、足取りこそ浮遊したままだったがのう、逆巻く意識は明快そのもの、さながら疾風にあおられ流れゆく風景をおもむろに眺めておる感じがして、もろ助の頓死にたじろいだものの、成る程これは春縁が末期に放った忍術の類いに相違あるまい、あの血飛沫からして意趣返しとみえようぞ、そんな冷静な判断をよぎらせつつ、暮れてきた木立の道を急いでおった。もろ助の亡きがらを葬ってやるどころか、穢れた血の匂いがもたらす嫌悪と恐怖から素早く遠のきたかったんじゃ。 夜が迫ってくる、かつてこれほどまでに夜を怖れたことがあったろうか、わしは人間が抱く本能に操られ、防衛心を頼りに、そしてこころの底にうっすらとゆらめいている得体の知れぬ情緒をぬぐわず、宵闇が背後にひしひしと追っかけてくるのを、どこか戯れにも似た感覚でとらえていた。悔恨に苛まれ、もろ助の死を悼む意識はただただ夜に被われよう、なぜなら駆けゆくさきに待ち構えているだろう春縁の壮絶な遺体を取り囲む光景へと突き進んでいるわけじゃ、わしの帰る場所はもうどこにもない、半ば捨て鉢で、半ば災難から救われた安心が、わしを裁断しかけておる。人間に転生した妙味をあたかも身をやつしたふうに解釈し、うなぎの精神ならこうも生臭い焦燥など持ち得まいて、これは娘の怯懦が引き起こしているか弱さなんだ、そんな負い目の所在を転嫁しようと躍起になっていたんじゃなあ。まったくなんたる無様さ、夜は実のところ恐怖なんかじゃない、この身を紛らわす隠れ蓑、すべてを呑み込んでは格好の情趣をこころの隅に留め置く。 が、そんな拮抗する二面を宿しながらもなんとか宵闇にさらわれるまでに屋敷に到着し、懸念した人だかりはおろか、春縁と匕首、そして夜気に触れよう生々しい血潮の気配もないのを知り、始めて我を失ったのじゃった。一体これはどういう有り様、気を取り直し門をくぐれば、寡黙な爺やがぽつりこう言うではないか、湯が沸いております、とな。いそいそと廊下を抜け湯殿へ向かい、平常心を保った仕草で返り血に染まった着物を脱ぎ捨て、湯船に穢れをにじませれば、またもや安堵に収まった情緒が湯気に香る。 なにごともなかったのだ、そう、なにもありませぬ、さっと桜色に上気した肌から囁かれた声は女人の持ちもの。塵芥にまみれた俗世間とは隔絶した趣きさえ顔を出し、その頬がちいさくゆるみ、ほくそ笑む。ほんにそつのない手際じゃて、この屋敷の者も山寺の使者も、わしのこころも、、、危難を回避したうれしさはほんのりさせる湯加減と相まって、刹那の休息を得た。 夕餉の席に僧侶殺害の話題は似つかわしくないのか、いいや、まぼろしを見ていただけのわしにとってどうして空恐ろしい話しが耳に届こう、なにもかもが世迷い言、春縁の恋情から殺意、そしてもろ助の登場、、、突き詰めてみるまでもなく、そう、今は平穏な日々をありがたく受け止めるべき。 よほど衝撃が強かったんじゃろうな、わしのこころは千々に乱れるのを避けたいが為、身重のからだをいたわるように謎めいた現実から眼をそらしてしまったわ。 決まりごとの淡白さで季節はめぐって、汗がぬぐわれ、涼風は冷気へと交替し、雪景色を白い息で眺めては張り出した腹になにやら呪文めいたつぶやき、やがて年があらたまり、わしは玉のようなおんなの児を生んだ。さきの兄妹らに対する情愛を同時にしみじみ感じ入っては、今まで乳母に任せきりだった子育てが甲斐甲斐しく思えてきてのう、ままごとの延長でありながら人形である身がありがたく、こころの持ち方に変化があらわれたんよ。たとえ諦観に裏打ちされておろうがこの過ぎゆきこそがまことの現実、飛躍した覚えもなきままに転生の身のゆらぎが生じない日々を慈しんでおった。 そのうち屋敷内の人々に転機が訪れる。長女に縁談が舞い込み、あれよあれよという間に船に乗って遠く良家に輿入れする。その年の暮れには大旦那が長患いのすえ鬼籍に連なり、残されし家人の静けさは姑の毅然たる姿勢にならうよう息をひそめ、次女の妙、十六歳の花盛りの割りには陰にこもった面持ちで、次男の満蔵はまだ十二を数えたばかりの少年振り、肝心の旦那はなお道楽にのめり込んで罪こそ起こさぬけど、わしらを顧みる余裕はないものとみえる。 単調な毎日に飽きは来なかったと言いたいんだね、そうよ、わしの安住は井に水が湧く按配なぞではなく、いわば原体験を放擲するゆえに育まれた方便、いつこころの均衡に異変があるやも知れん、ちょいとした刺激が呼び水となって汚濁もろとも清流になだれ込む。 ことの起こりは次女妙が庭の灯籠に一匹の蛇を見たという嘆息めいた口調に始まった。生来のもの静かな性質を立証せんばかりの抜けるような色の白さ、紅なぞひけばさぞかし色香が浮きたつであろうに、この妙という娘、おぼこさを通り越して無味乾燥な印象すらあたえかねん。その妙が、お義姉さま、灯籠の影にうす気味の悪い蛇がおります、とその存在がどうのこうのというより、蛇がはらむ想像の産物に打ち震えている様子でな、それはそのままわしの忌まわしい過去を呼び返す模様でもある、まさかもろ助がさまよい出たわけでもなかろう、しかし、妙の態度に隠れた畏怖にはうなずかざるを得ない。ああ、神経を嫌らしく撫でられる思いじゃ、おそらく無心でありながら、わしの方が過敏になってしまうのも致しかたないわな。いつかはきちんと向き合うべき問題じゃて。 思えば、もろ助の死に様は不審そのもの、わしが勝手に相打ちの采配を下したまで、、、忘れかけていた黙念先生の面影が明暗を定めるよう白線となって延びてくる。しかもその線は清流の底にゆらめきながら、あたかも一条のひかりの軌跡と化して失われた過去を照らしだしておる。ほんにやるせない、生きる希望が素直なひかりなら、死せる記憶こそ斯様な明るみに応答する歪みよ。だが、この歪みを見つめないで果たして真の意識と呼べるのだろうか。わしはそのとき、すでに黙念先生が念押しした戒律を思い起こしていたんじゃ。もろ助の死は恐るべき呪詛だったに違いない、あの日、わしはあわただしくもろ助を詰問していたが、おのれの側からなんの真実を伝えてはいなかった、、、かれこれ三月になる、、、そのひとことがもろ助の生命を断ち切った、わしは焦りにかまける素振りで、運命の下敷きになる予感におびえ、しっかり黙念先生の言を守っておったんじゃな。 そこまで考えればもう上等だった。情けなさといらだちが重なり、どうにもやりきれない、もはや情緒のかけらも見当たらないわ。恨みを抱き現世に戻ったもろ助を憐れむより、妙を通して届けられた不穏な空気感染のような形状に嫌悪を覚えよう、じわじわとまわりくどい手法で呪いが伝わってくるのはなんとも気色が悪く、血塗られた帷子のひとり漂うさまが脳裡に描かれる。 このまま苦悩に従い続けるのは小夢の肉体を有したものとして、牛太郎の精神を取り込んだものとして、かくあるべき道理なのやら、もう一度考え直してみようぞ。黙念先生が地雷のごとく敷きつめてある呪いに接触しない術は警戒だけと、震える神経に即しておればよいものかのう。わしの脳みそに反転する意志が芽生えた。 これまでの意識改変とは別種の極めて自然体に即した欲動じゃった。なんの女体に縛られからといっていつまでも従属する必然などないわ、女体は女体、意識は意識、無理強いしてまで女人に生まれ変わらずとも、雄のこころで他の女体を愛でる行為こそ本来のすがたじゃないのか。蛇の言い出しにわしの食指が動いた。そう、花盛りの年頃であるにもかかわらず、朽ちてしまいそうな妙の裸身へとな。 面白いもので、そうした眼でこの純朴な娘を眺めてみれば、なるほど着物の上からは感じとれない、はちきれんばかりの旨味が覆い隠されているような気がしてくる。あとはどう料理するかじゃ、、、 一度そんな欲情が突き上がってくると、もう引き返すことは出来なかったわい。もろ助の幽霊だろうが、黙念先生の呪詛だろうが、もう卑屈で小心な思惑に屈するのは御免こうむる、逆に声高くこう叫びたいものよ、美しかな薮蛇、余分な配慮こそ豊穣の証しなり。他者への配慮なぞでない、おのれによるおのれの為の配分、小夢のからだもこれで抹香臭さを振り払える、未知の領域を遊泳するのじゃ。わしが授けようぞ、川底の泳ぎ方を、雄の嗅覚を、、、」 |
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