妖婆伝6 「春縁との逢い引きが頻繁になるにつれ、そして女体の痺れるような悦びが募り、情事のあとまで熱気を失うことはなくなった頃には随分わしのこころは平安だった。転生したことを悔やむ気持ちが軽くなったのは事実じゃったし、娘の感覚に牛太郎だった領分が侵蝕されていくみたいで、これは裏側からすれば消え去る記憶に慈愛をこめていたのだろうな、あふれだした情感の飛沫を見遣っている猶予が発生しておったから。 それはそれで結構だったんじゃが、心身が安定してくると今度はおのれを取り巻いている実情のひりつきから逃れんようなってしもうた。いうまでもないわな、わしは不義密通を犯しているのじゃ、他の者らも同罪やからと高をくくっておれるほど呑気ではないわ、官能がじんわり肌に残っていながら、不穏な意識は次第にわだかまり、女体の火照りがあたかも村全体に飛び火していくような怖れを感じてた。半ば夢心地である災禍を見送っておるようにな、からだの芯が痺れていた。 若奥さまと、崩れ落ちるような儚い息で抱き寄せられる度にうしろめたさが強まってくる。お坊さまはどう思っているのやら、わしの不安をのぞきこんでは増々欲情のとりこになっている様子、修行に邪心は無用とばかりのひたむきさ、こちらの気持ちなぞとはまったく絡まるところがなく、その健気なまでの淫欲に苦笑してしもうた。そうじゃ、こころの底から念じてみてもなるようにしかならん、、、不埒な考えじゃったけど、所詮これが借りの身であることの本性、際どさの間合いはすでに勘定に入っておるのだろうて。苦笑いの彼方には薄ら寒い地平が開けているようでなあ、今日みたいな雨空の峠を、あんた想い浮かべてみい、ほうら、顔色が曇ったのう、、、いいや別にどうしたわけでもない。 で、わしはなるべくして春縁の子を身ごもってしまい、家人らに弁明する余地もなくなってしもうたんじゃ。その時点でもうほとんど開き直っていたから、旦那より、家名に傷はつけられん、母上もその旨は含んでおる、殊更に考えあぐねるまでもない、おまえはただ安産を願っておればよいのだと、さながら武士の体面をなぞる調子のもの言いでな、追々話すことになろうが、この屋敷はどうにも並みの庄屋なぞとは桁が違う、実際武家の出入りも多かったし、大旦那は甲冑や宝刀を床の間に飾っておったくらいじゃ、わしの生家だった村の庄屋と比べてみるといってもなあ、そもそもうなぎの見識では疑念の育みようもないわ、それが薄々と判じられてきたのはこの不始末に及んでなお息づいておる旦那や姑の面目でなく、春縁が残した言葉によってだった。 さてこうなれば山寺の公暗和尚もそのまま捨てておくわけもなるまい、檀家に対する謝罪が表だってあったのかどうか、特に波風が立った雰囲気もなかったでのう、結局は春縁は下山を命じられ、短い恋路はいとも容易く終わってしもうた。わしらの仲は村中の知るところだったけど、案外だれも口にすることなく驟雨のあとさきを覚える加減じゃった。 失意すらこの胸に留まらん、吐息やらも初夏の兆しに紛れて、この時期特有の楽天的な日差しにあおられ、ときは淡々と過ぎゆくばかり、思い悩む術も忘れたある夕暮れのことじゃ。追放に甘んじていたはずの、あれより一度も顔を合わせなかったお坊さまが庭先の影にじっと佇んでおるではないか、その目つきには明らかな誘いが放たれており、わしは亡者に魅入られたような按配でなんの戸惑いもないまま、浮遊した足取りにて手招きらしき素振りに虚心に応じ、日暮れとはいえ、まだまだ空の青みが失われないほの明るさのさなかを人目も気にかけず近づいていった。ほんの眼と鼻のさきまでたどる時間は不思議な力で歪められているようじゃった、ふわふわとからだが宙に舞う、両の耳はふさがれているみたいなのに妙なる音曲がどこからともなく雅やかに聞こえる、そして視線は愛しきひとを指すことにあやまりはないのだが、まったく別な光景を追っている心持ちがし、歓びは安堵に安堵は放心のなかに包まれているようじゃ。嘆きが歩み寄る場所でない。 呪縛の解けたのは、ああ、まさに呪縛だとも、痛みすら覚えぬ唐突の懇願だった。春縁いわく、若奥さま、もはや道はひとすじでございます、さあ、わたくしと共にこの村を出ましょうぞ、哀切の限りを口にしたんじゃろうが、野太いはずもなく、かといってか細くもない、震えが鉄を伝うごとく、その語尾には焼け火鉢を振りかざしたふうな一点の迸りが備わっておった。わしの返答を待たず強引に手を取る、かぶりを振る動作もうなずく意思もなにも示せない、相手は無言の拒否と感じとったのか、俄に面を曇らせると、早々に断定を下した。なんという無慈悲な言葉、人道をはみ出した言い様、こう吐き捨てよった。ならば仕方ありません、御一緒願えないのなら、こうして舞い戻ったすがたを知られたからには、隠れていただくよりない、覚悟はよろしいな、かつては澄みきっていた瞳の奥には冷徹な焔、激しく燃えさかり、わずかに口角が上がった表情の凄まじさ、鬼の形相に匹敵する勢い、わしはもう微動だに出来ず、後ずさりも叶わぬ、更に恐ろしいのは懐中より鮮やかな手つきで取り出し、突きつけた匕首の夕陽のきらきらと輝く異様なまでのまばゆさ、銀色に映える朱はあたかも鮮血をしたたらせ、凄惨な面持ちは迫り来る死の影を静かに、だが的確に宿しておった。 修行僧とは借り衣か、こんな翻し方まさに抜け忍じゃわ、こちらの意を読み取ったのだろう、どうしてなかなか見破られはせん、屋敷の人々こそ怪しいものよ、そう呟いてみせる。 すっと背中を降りてゆく血の気がやはり静かだったのが、最期の救いじゃった。わしの情感は激烈でない代わり一縷の怨念を線香のように燻らせた。するとどうしたものか、春縁との距離を埋め尽くしていた殺気が幽かにゆるみ、切っ先が飛んでくるのを辛うじてかわすことが出来たんじゃよ。そのわけは驚きの一瞬にひそんでいた。匕首を握った魔手に土色をしたひも状の絡まりが見える、よく眼を凝らせば、一匹の蛇がその腕を締めつけているでないか、ああ、もしかして、いいや間違いない、もろ助じゃ、あの気心知れた蛇じゃ、だが、どうしてここに、、、ええい詮議立てなぞいらん、もろ助はわしの危機を心得ておる、仲間がこのわしの命を助けようとしておる、やがて脳に伝わる、牛太郎いまのうちだ、早く逃げるなり大声をあげろと、、、よしわかった、すまん、もろ助。わしは活気がからだに戻るや、さっときびすを返し、軒先まで駆け再びうしろを振り向くと、春縁の手に刃はなく、今度はもろ助、奴の首にしっかり巻きついておった。相当きつく絡まれていると見えて、春縁両手で振りほどこうにも指先を忍ばせられない様子、苦悶と焦りの色がここからも十分うかがえる。 わしは咄嗟に走りだし、もろ助の憤怒の眼と、春縁の戦慄の眼が同じ北空に向いているのを知ると、すくさま地面に落ちた匕首を拾い、さっきの燻った怨念を一気に解放したんじゃ。真っ赤な血潮が胸元から吹き出たのは心の蔵を見事に貫いたからだろう、返り血をまともに受けたのが分かり眼を細めた。もろ助の勇姿が薄い世界に燦然と見てとれる。もういいんだよ、感謝すると同時に絶命した春縁が大の字に倒れる。大仰に歯ぎしりした按配の口から大量の血の泡がふき出しておったわ。 もろ助は全身の緊迫から脱するのにしばらくかかり、するすると地を這い出してわしの間近に寄った頃とて、山の裏には松明を束ねたよう陽は眠りつくまでに猶予が残されている。わしらは互いを認め合い、言葉以上の疎通をかわした。 やがてもろ助はあたりに人気のないのが幸いだった、一刻も早くこの場から離れよう、死骸などほっておけ、落ち着いて語れる木立を探し当てた頃合いには、ようよう天空は墨汁をはらみだして来た。それにしてもようわしのなりを見抜いたものよと問うたところ、臭いじゃ、おなごに化けようとも牛太郎には違いない、その確信は自慢気にもろ助から出たものじゃったが、わしのなかからも踊り出たような気持ちがして、涙が込み上がってきたわい。もろ助の事情はわしの推測通りだった。やはり上流に向かったまま待てど暮らせど音信がないので、あとを追うように黙念先生を訪ねたという。千代子の件もあるし、いてもたってもおれんかったのじゃな、ようわかる、けどなあ、あの川は大きな山を越えた先、ここまでたどれたのは嗅覚だけでは無理だろう、それともわしが娘のほとに潜り、この村に嫁いだのを知って着いて来たとでも言うだろうか、いったい黙念先生からどう聞いた。矢継ぎ早に疑問を投げかけたいがなかなかうまくいかない。 こうなるとわしのあたまのなかは謎だらけ、今しがたの大恩は棚上げされ、ついつい興奮してしもうた。で、もろ助が語るに、おまえがおらんようになってからかれこれ三月になる、なにを言う、三月だと、この村に嫁いではや三年になるではないかと反論しかけるが口を閉ざす。そこでなだめるようにもろ助や、川の時間と浮き世の時間に大差あるまい、一体どうしたことだ、険しく詰め寄れば、可哀想にとぐろを巻いて考えこむ始末でのう。窮地から救ってくれたにもかかわらず、おのれの気ばかり先行してしもうとる。そのときじゃ、もろ助がかっと眼を開いたかと思うとさっきの血飛沫がその口から吐き出されたんじゃよ。それからのたうちまわった挙げ句に細長い舌をだらしなく垂れたまま、息絶えてしもうた」 |
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