妖婆伝46


開いた口がふさがらない、両の目も開いたままだし、鈍いというより金属をこすっているような鋭い耳鳴りもする。しかし、金切り声めいた異音のせいで、中左衛門が語った、家元、女史、阿可女、それに古次の言い分など粉々の散ってしまい、さながら旋盤で切り抜かれたちから強くも、不快な音響が山々にこだました。
「なんと、言われました」
小夢の声はあくびを逆さに流したふうな頼りなさでしかない。
「阿可女さまを抱いた、全裸にいたしてすべてをむさぼったのでございます」
「犯したと、、、」
「どうとなり解釈してくだされ、ただし阿可女さまは抵抗なさりませんでした」
「根図どの、わたしはいま激しいめまいと耳鳴りを覚えています。けれど、奇妙なことに申された男女の交わり、おふたかたのですね、ありありと眼前に浮かびあがって来ます」
「結構なことですな」
「そうでございますか」
根図と阿可女の裸体が明確に脳裡を支配した刹那、弓矢が射られるより迅速にふてぶてしい感情がわき上がった。
「密偵なる任務は役得があると言いた気でございましょうが、はて寝図どの、お気は確かでござりまするか」
「ほほう、それがしを気狂いあつかいされるわけですな。それは勝手が違いましょう」
「無礼な、貴殿こそくせ者、わたしはうなぎでございます、やんごとなきお方より暇を頂戴したとも知らされております、が、少なくとも目一杯、苦しんだつもりです、懊悩苦悶を逆手にずいぶんと無茶もしでかしました。でも、貴殿のような無頼漢ではありませぬ」
吐き捨てる勢いの小夢に向かって、中左衛門はこれ以上の慈しみがないといわんばかりの表情をしめし、
「問答と参りますか」
「馬鹿にされても結構、しかしお相手はいたしません」
「馬鹿も賢者もありますまい、それは金目全滅斎どのは賢人でありましょう、が、われらは如何なもの、小夢さまは転生されたそうでございますね、本来は雄うなぎとやら、で、あるとき奮起して妙齢のおなごに潜りこんだ。古次さまも左様なこと申されておりましたなあ」
「貴殿は知っておろう、意識の在り方の根源を、、、わたしはうなぎ男としてある日突然目覚めたわけでありません、あの清流の川底を知り、蛇のもろ助は知己でありました、転生の由縁は貴殿なぞに聞かせても仕方あるまい。でもこれだけは申しておきます、川底の顔炭のまじまい、やっと理解できましたぞ、随門流はあの奥義を求めておるのじゃ」
「さあ、それはどうしたことやら」
「とぼけなさるな、わたしはよく覚えています、随門師の怖れおののいた顔を」
「どのような顔でございました」
「ええい、もうよい、わたしは語らぬ、なにが金目流です、気狂いの正体が見たければ、今すぐここでわたしを斬りなさい」
「物騒ですぞ、小夢さま、それにそのように憤慨されては肝要の阿可女さまに会えませぬぞ」
さすがにその言葉は冷静にさせる効果を授けた。
「根図どの、なぜ阿可女さんと交わったのです」
「これは又、鏡に向かって問うておるみたいですな。あなたさまと同じ心持ちだからでございます。切に願ったからに他なりませぬ。たった一度、今生の願いとあたまを地べたにすりつけ一心に求め続けたのです」
「さすれば」
「わかりましたと帯をほどき、裸身をさらしてくださいました」
「阿可女さんが、、、」
「なにを不思議がっておられる、小夢さまとてご本人に申し上げたのではないのですか」
「わたしはそこまで、、、」
「阿可女さまの代わりはおられましたはず」
「それは、、、」
「別段、よろしい、さて、そろそろおいとま致しましょう」
「何処へ行かれるのでございます」
「聡明なお方とお見受けしておったつもりでしたが。小夢さまは来世を信じられますか」
「えっ、なんと申される、まさか、、、まさか、、、」
「そのまさかですから、致し方ありませぬ。少々腑に落ちませんが、、、もろ助とやら、古次さま、それがし、と来た、本来なら随門師が順次、この世にはまこと人智に及ばず事象だらけでございますな、阿可女さまをお抱きする時間だけは許されたようなので、これまた不可思議、では御免、来世でお会いいたしましょうぞ」
最期は雄叫びに近かった。密偵の役割とて分かったようでなにひとつ語れない、ただ中左衛門が武家であるのはなんとなく納得がいった気がした。あくまで気がしただけであり、武家が切腹する理由は知らない、根図中左衛門が自刃するその真意を知らない。
小夢の一帯に激しい血しぶきが舞い上がった。中左衛門はすでに正座したままの格好で前のめりの上体をかろうじて保っていたが、それが意志によるものか、尋常ではない出血をともなった激痛による昏迷か、はたまたもはや意識を喪失し、肉体のみが空騒ぎしているのか、判別つきかねた。認められたのは中左衛門は腹に刀剣を突き立てたのではなく、束を両手で下方に握りしめ、あごから首筋に添って深い傷あとを残していった紛れもない情景であった。見事なまでに直線に裂かれた傷口は、古びたのに真新しく感じる建具の亀裂を想起させた。双方のまなこは決して安らかではないが、眠りついたふうな静けさに囲まれている。のどぼとけに損傷が見られなかったので、小夢は中左衛門が遺言を呟きだすのではないかと目を凝らしたけど、見る見る間に蒼白の度合いを増してゆく顔面へさすがに期待は寄せられなかった。木枯らしめいた風がかすかに遺体の背を震わせたのが、亡魂らしくもあり、小夢の情感をからっぽにするのだった。
「根図どの」
ひとことだけささやきてはみたものの、底の底まで凍てついた水面の険しさが無言でひかりを放つよう、合図には無縁であり、指標とも関係なかった。しかし、小夢のこころは満ち足りていた。やっと到達することが出来たのだ。阿可女だって生きている、ほんの今しがた中左衛門はその肌のぬくもりを冥土へ持って行ったのだから。
金目流、、、随門があわてふためくはずよ、古次が取り乱すのも無理はない、、、黙念先生、大山椒魚の先生でなく、生身の人間としての先生、、、呪詛は必要だったのですか、これが奥義なのですか、ではどうしてこのわたしに効験が現われないのでしょう、随門にしても。
わたしはひとでなしでございます。うなぎなしでもあります、ひとの親として子なぞ可愛がった覚えもなければ、わたしを産み落としてくれた親に敬意を払った試しもありません。行き当たりばったりの情欲を仇と見なしつつ、裏ではそっと手をまわし、もう一方の手がいさめるのを待って罪として参りました。ほとんど無風に舞っている風車に時たま旋風が訪れると、盛んに意気立ち、生気を取り戻したような錯覚にとらわれるのをさわやかな生きがいと思いなしておりました。阿可女は悔やんだりしないでのしょうか、まだ、、、ああ、解けました、解けましたとも、、、黙念先生、阿可女こそ真の弟子だったのでございますね。わたしは気狂いなのですか、人間としての感性をほぼ欠落させているのでしょう、中左衛門や古次の気概がよくわかりました。先生と阿可女は人間ではないのですね、、、
そのとき聞き覚えのある声が小夢を呼んだ。もう振り返りたくはない、が、執拗に名を呼ぶ。ついには、
「いつまで茫然としているのです。さあ立ち上がりなさい、わたしを抱きたくはないのですか、わたしに会いに来たのでしょう、幻滅斎さまもご一緒でございます。しっかり見届けましたよ、中左衛門は黄泉の国に旅立ったのです、ああいう運命だったのです、しかし、あなたは違う、さあ、道場はすぐそこ、随門師の伝言、いやごん随女史のですか、承りましょうぞ」
逆光を背にまばゆく受けた阿可女は神々しいまでに清楚な微笑で佇んでいた。半歩下がる按配に人影が見えたが、強い光線のため判別がつかない。が、それも指折数える間もなかった、同じ顔、同じ笑み、古次ではないか。小夢は第一声が叫びや悲鳴やうなりでなく、言葉を選ぼうとして反対に言葉を見失っている滑稽な有り様を感じ、指先はいうに及ばず、脳天から尻の穴まで生気がゆったりと流れてゆくのが分かった。急にうれしさがあふれだして来た、涙がとめどもなくわき出し、わざとのろのろした足つきで両人のもとへと歩んでいった。そして古次の面をしみじみ見つめこう言い放った、
「なあ、もろ助や、阿可女さんをおれにくれよ、その代わりおまえと夫婦になってやるからさあ」
古次は目を細めるだけで返答がない、阿可女はおかしさを堪えているふうに見えた。
「駄目なのかい、駄目なのはおまえらだ、兄妹で祝言はあげれないんだぜ。神話の世界じゃあるまいし」と、言いかけたところではたと口を閉ざしてしまった。あとを継ぐよう阿可女が言った。
「それは名案ですね、三人仲良くってことでしょう」
まさに助け舟、だが、泥の船かも知れぬ。小夢は慎重を期する態度でこう返した。
「道中、疲れたました。湯船にゆったりつかりたいものです」
「ではご案内しましょう、小夢さん」
天にも昇る気分とは案外、こうした状況を指すのかも知れない、能天気など浮かれた情態でなく、この身震いがどこからやって来るのか確かめられないという感覚を如実に知る狭い了見のことである。陽が翳った。