妖婆伝43 いつぞやの駕篭かきに似た風体だと見いってしまったのは、いや、凝視のようでありその実さほど関心をしめしたのでもなく、ただ脳裡をよぎらす情景に意味合いを付与したかったと思える。ごん随女史は伴もつけると言っていたけれど、この実用のふたりが、既視感の到来が、まさに伴であるとは思ってもみなかった。しかし不平不満をこぼす身分ではなかろう。寡黙で実直な駕篭かきらは申し分なく頼もしく、道行きを安穏な旅程にまで引き上げてくれた。 もちろん険阻な道中が以前の比でない様子は瞭然であったし、一昼夜で辿った道程、二十里らしきを早駆けた緊迫のうちにも安楽さが連れ添っていた感じとはずいぶん異なる。案の定、日の入り間際にはなだらかな道筋へ達しており、すでに懐かしく耳へ届いてくる人の気配を知れば、そこが山間の宿坊であることにあらためて驚き、また、かなり山深いところに夢うつつかと見違える、より清澄な空気に包まれた黄昏いろに浮き出た宿屋の並びに、新鮮な想いを得るのだった。夕暮れの情景は何故この様にやわらかな美しさを醸すのであろう。沈める日輪はひとの息づかいに託言を残してゆくのか、まばゆい光線を闇に眠らせるから雄大な意思はぼんやりと明るみを発するのか、それとも、明日を約束したのでひとの恥じらいを先まわりして伝えてくれるやら、天空の主は何もかもお見通しに違いない。 溶けだしそうになる想念とはうらはらに、山中での宿泊の模様を実感することが出来ず、小夢の記憶にとどまったのはひかりを失った空間を飛び交う夜光虫の羽音のような小さな、しかし払いのけ難い観念であった。 垢染みた頁をめくるがごとき過ぎ去りしときに意識が傾いたのではない、多少の名残りはとあえて感傷の刻印を記してから、開き直り随門流より逃れた身である限り、一切はかつてのうなぎにまつわる煩悶と同じ轍を踏むわけにはいかず、とはいえ、島流しや獄中に連れゆかれる心情を糊塗することも難しく、行く先がもう決定されているよう小夢の想いはひたすら阿可女へと接近するしかなかった。 想像するには容易い、金目流とやら、これまで関わった一門とは別種の忌まわしさを放っておる、家元らの言葉通り阿可女が本当に野心を持っていたのなら、実行を決意していたのなら、背後で知恵を与え立ちまわり方を指示していたのは金目と見なし間違いなかろう、現に阿可女は匿われているとの報せ、これ以上の詮索は無用でしかない、勘ぐりだしたとて埒があかない、鑑みれば我が命をあわよくば亡きものにしようとした悪辣な眷属からの告知、金目の本山とは名目だけで実際には牢獄どころか処刑場かも知れぬ、だが、そうも言い切れなかった。の毛子は金目の存在を知りうる範囲、別れの朝小夢にこう語ってくれたのである。 「わたし前に、いいえ、ここではなくて、商家にいた頃ですけどね、華道を極め尽くした仙人みたいな老爺がいると小耳にはさんだことがあります。金目幻滅斎という名です。お師匠さまの口から聞かされのは先日始めてですの。よくは知らないけど裏華道では随門流と遜色ない、そういうことらしいから、大変でしょうが、、、」 と、少なくとも架空の人物でもなければ、獄門の場でもなさそうだ。小夢はそれがたとえ根拠のない噂であったとして、の毛子の話しを信じて疑わないつもりだった。信心とは決して威容や哲理にのみ込まれるばかりと限らず、儚い花びらに舞う蜜蜂の嗅覚が、花弁を魅惑の証明してみせるよう鮮やかな色づきに宿される場合がある。 ひとときの舞いと静止が映し出す光景は追随を許さないのであろうか。小夢は理性的な判断を捨てていた。すると暗中にささやく羽音にうっすら色調が施された心持ちがし、目の前の闇に封じられたひかりが一条、心身を駆け抜けていく感じがした。迷妄の口笛がうなぎの泳ぎを促して、雑念ない牛太郎が踊りだせば恋する男は、愛しの阿可女が待ちわびた顔でいるのだから、吸引力で流れをさかのぼりひとめ会うなり激しく接吻を交わすのだと強く胸に言い聞かせた。聞かすと同時にそれより先の艶かしさを放擲して、直ちに古次殺しをあがなう為、阿可女に懐剣を手渡し、おのれの心の臓を刺し貫いてもらう。言葉はいらぬ、かっと見開いた眼がこの世のすべてのひかりを反照されるとき、信心は成就され、夜と朝が入れ替わるのだ。 二泊目の宿における夢想であった。無駄な想念は排除して、何度も何度も終わることを知らず金目本山に待つ阿可女との接吻、そして死を夢見た。目覚めたとき冷たい夜気にもかかわらず寝汗が全身を濡らしており、火照った頬の色を手鏡で認めるまでもなく、寝巻きのすそをそっとかき分け、手淫を試みたけれどからだの反応は追って来なかった。小夢はたらいに張られた清水に指先を浸す、健気な波紋、底は微かに揺らめいていたが、はなから手の届く浅みだったので波紋が収まるのをぼんやり眺めていた。 翌朝、珍しく威勢のいい口調で駕篭かきのひとりがこう言った。 「あねさま、昼までには到着しますよ。もう少しの辛抱でさあ」 動揺した素振りをつくりだしたのが我ながらおかしく「あれま、東海道をゆくのではなかったのですか」などと戯れ言を返したりした。内心はたらいに浮いた枯れ葉でありたかったのかも知れない。相方の駕篭かきにも目配せしながら、感謝の気持ちはそのまま、剣呑な意想が夜に守護されていたことに抗うべきか、その揺らぎは彼らのきつく締められた帯をつかみ取りたい衝動に向かおうとして、はたと気がついた。阿可女が呼んでいる、、、感冒などとは異なる、いやどんな流行り病いとも別の熱病のさなかに小夢は生きていた。昨夜の寝汗が悪寒を招いたのか、ようやく本来の感覚を取り戻したらしく、いよいよ金目本山に近づいて来たという感慨も手伝って、無口な駕篭かき相手に饒舌になった。 「ではよろしくお願いしますぞ。ところで両人とは初見ではないような気がいたしますの、もしや随門師匠のところまで、そうです、あのときの」 ふたりが雲助根性でないのは直ぐさま返答した声色で分かった。やがてあれこれ尋ねてみれば、それどころか武士に通じる気概さえ感じられる。 「ごもっとも、この生業の風体なぞ似たりよったりでございます。たとえあねさまが見間違えようとも、あっしらには間違いはありません。此度が始めて」 「なるほど、そういうものなのですね。生業にそもそも尊卑はありません、わたしとて駕篭に乗せてもらう身分では、、、いらぬことを訊いてしまいました」 「滅相もありませんや、以前の思い出をあっしらに重ねてもらえるとはありがたいことです」 「あら、お上手ですこと」 「何をおっしゃいますやら、上手も下手もありません、ただ担がせてもらうだけでございます」 「ほほほ、これは参りました」 ここで小夢がふたりに感じたのは、無駄口を叩く暇を惜しんでいる、面をかすめたのはあくまでそつのない振りだったが、実情は受け答えそのものを頑なに拒む姿勢であり、これは的確な直感としかいいようがなかった。見落としたりしない、軽妙なやりとりに乗じながらも速やかに支度を整え、鋭利な目つきが道中を急ぐであろうわらじの上に落ちたのを。 が、小夢はここであたかも仕来りに従うあり様で喋りをやめようとしなかった。旅の恥はかき捨て、あまりこの場面に即したことわざでないけれど、ふと生のほむらが立ちのぼり、 「金目の本山ってやはり山奥なのでしょう」と何気なさを装い口にすれば「ええ、そうでございます」駕篭かきは不要なものを切り捨てるというよりか、要件に接するのは御法度である、そんな厳しい語気となる。 「由緒ある名門とうかがっていますけど、さぞかし立派な家屋敷、道場なのですか」 「よそ様の家屋をあれこれ評することは出来かねます」 「これは失言でした」 手厳しさに臆した弱々しい声音でいったん区切りながら、がらりと口調を変え「しかしながら、わたしは金目流に重大な任があるのです。是が非でもお聞きしたい、酒手ははずみましょう」 「されば、あっしらも同様、駕篭かきの重責がござります」 「わたしの身が重いと申すのですか、それとも努めが些細な口外を禁じているのですか」 それまで会話に加わらなかった相棒がいさめるふうなもの言いをした。 「両方でございますよ、あねさま、そろそろ表へ」 宿の主、女中の見送りもない。小夢は周到な道行きに感嘆と落胆を一緒に覚えるしかなかった。 |
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