妖婆伝42


ごん随の思惑は卑劣でも悪徳でもなかった。これくらい明快な託言もあるまい、あわよく死んでくれるのは小夢でも古次でもかまわなかった、生き残った方を速やかに断罪する口実は用意されていたのだから。ごん随の諭しに逆らう気概などあるはずもないと高をくくられており、阿可女のもとに馳せ参じる手立てが認められているのだ。しかし話頭に上った婿殿の覚束なさを鵜呑みにするほど蒙昧ではない、また自分と同じく正気を逸しているとすれば、あえて金目に赴かせる必要はいらないにもかかわらず、ごん随が危惧しているのは小夢の母として立場であり、我が子息が本然と目覚めた場合に集約されよう。
なんとでも言い含める自信があってのことか、たとえば母君はひとを殺めてしまったのでお隠れいただいたのですやら、家元の安泰を願えばこそ、身を引かれたなど、それこそ大義をかさにするまでもなく、すんなり訳合いはまかりとおる。だが、小夢はそんな痛恨を言葉にしようとは思わなかった。それどこか、お払い箱にされる仕打ちをものともせず、心持ちは案外すっきりして、つまらぬ騒動に関わらずに済むと内心ほっとしていたのだった。が、無論これよりさきは暗中であり、煩悶を混ぜ込んだぬるま湯にはもう浸っていれない。
「では阿可女さんを連れ戻せばよろしいのでございますね」
「そうです、しかし、あれもおいそれと舞い戻るわけにもいかないでしょう、家元として確固とした情況になった暁にと、これがわたしなりの誠意と汲んでください」
「よく分かりました、けれど、わたしは名残り惜しいのです。ここで人生をまっとうしようと考えていたのですから」
歯が浮いたようで、浮かない、小夢にしてみてもこの言い分がまんざら詭弁とは思いきれずにいたのは事実であった。が、天下泰平の世が永続されないよう、安易な余生を保証してもらうほうが不遜であろう。思えば屋敷を飛び出したのも、はっきりいえば嫌気がさしたからであって、もっと遡ればうなぎから転生した曖昧な記憶とて逃げ口上に相違ない、気狂いであったという事実は遠景に等しく、それほどしっくりこないのだから、わずらい考えあぐねるまでに至っておらず、口上を純正なものへと研磨しているのはつまるところ黙念先生に対する畏敬に他ならかった。かといって不可思議きわまる正体の解明を取り急ごうとも案じておらず、ある意味なおざりにしておくのが賢明だと判じているのは小夢の揺るぎない打算であった。
そもそも古次に襲われたとき、死を受け入れず反撃に転じた事実が歴然とそれを裏付けているし、死の見苦しさを忌み嫌うという弁明を冷笑しながらも熟知していたからである。牛太郎やもろ助が幻影であろうがなかろうが、さして究極の難題ではなかったように、ごん随の申し渡しを聞き入れたこと、これは即ちよく現実を把握した証し、そうとらえてみてもあながち間違ってはいない、寧ろそう念じた意想にこそ生が息づいているのだ。小夢の口は軽やかに傾くのを抑え気味にした慎重さで、更にこう開かれた。
「もとより尋常でない身、ずっと家元のそばに仕えとうございました、けれどこれも運命なのでしょう。ごん随さま、ところでわたしはどうした態度で金目流に臨めばよろしいのですか、いいえ、もう、きっぱりと運命に従うつもりでございます。ただ、、、こう申しますのは若輩の分際と大変恐縮ですが、ここを離れるには覚悟だけではままならなりません、ごん随さまの誠意は重々ありがたく頂戴しましたけれど、いったいどの様に、、、」
さすがに痛いところをつかれた顔色を示した女史は、消え入るふうな小夢の声を奮い立たせる意気を見せ、
「なにも案ずることはいりませぬ、そうですね、使命ではありませんけど、家元の乱心を表沙汰にならないよう気配りしてもらいたいのです。阿可女自身、古次を跡継ぎにと野心を抱いた引け目があるでしょうし、おいそれ身内の醜態を口にするとは思えません。それどころかあなたが保身、、、これは言わずとよいですね、、、古次の死を半ば予測していた節は疑いないでしょうから、きっと消沈していると思われます。小夢さん、いいですね、あなたがいたわってあげればそれでいいのではないですか」
もとよりわけを質そうとして尋ねたもの言いでなかったが、小夢はたやすく確約を得た気がし、増々浮き浮きしてきた。女史の盗人猛々しさに呆れるより、虚言を貫き通した姿勢に感服していたのだ。これで念押しが穏当になる。
「では、わたしの随意でよろしいと申されるのでございますね」
浮いた心持ちとはうらはらに口調は床に沈みこめるごとく低く、的確だった。
「はい」
返事に覇気を持たそうと構えてみたけれど胸中のくもりが露呈している。もはや小夢に未練はなかった。
「なるだけ早いほうがいいでしょう、支度は整えますし、伴もつけますから安心を」
「たいそうな心づくし、感謝いたします」
こうしてごん随は流派の安泰を得ることが出来た。事後の懸念は一切ぬぐわれ、白痴の婿取りは支障を来すことなく成就、ひとりの若者の死を代償にしたのみで、自らの手を血に染めた覚えもない、実に十全な手まわしであった。
出立の朝、見送りより早く、の毛子が思いつめたような、しかし、口もとにほのかな笑みをたたえながら小夢のまえに現われた。
「戻って来るのでしょう」些細な隠しごとを滑らした言い様に胸が熱くなり「ええ、いつか必ず」そう答えながら、目頭を押さえた。
「わたしも色々聞いてもらいたいことがあったのですよ」
の毛子の睫毛はまるで朝露が垂れたような潤いがあった。
「込み入った話しは出来ませんでしたからね」
「あら、そうかしら、古次や阿可女さんとは身の上を語りあったのでは」
「ええ、それは、、、」
「いいのよ、今更どうしょうもないし、ちょっと言ってみたかっただけですの」
「の毛子さん、いつかあなたに頬を打たれ、かっとなり手荒くしてしまったことありましたね。ごめんなさい」
「なにをいうのですか、もう忘れました。あれはわたしが悪かったの、新参者なのにわたしより奇麗だったから、、、」
「の毛子さん」
小夢は思いもよらぬ言葉に身がこわばってしまい、小柄なつくりの娘のまえで棒立ちになって、その瞳から目をそむけられずにいた。例の香りを覚えるよりも、自分の両目がかすみだし、涙が頬をつたうのを知り、視界がにじみ始めたとき、咄嗟にの毛子のからだを抱き寄せてしまった。そして乾いた土塀に果実味が塗りこめられたふうな髪油の匂いをためらい勝ちに嗅ぎ、頬を寄せ合いって互いの温もりを確かめ合う。
不意にの毛子の唇が重なった。朝露に濡れた睫毛は伏せられ、眉間には悩ましい筋が走って、呼吸は止まり、柔らかな弾力と湿った感触に溺れてしまい、抱擁と接吻の魅惑が束の間であることを忘れてしまった。どちらともなく唇が離れたとき、狐につままれた顔をしていた小夢とは反対に、の毛子の表情はとても晴れやかで憂いの片鱗もなく、「その気があるって本当だったですね」と、無邪気な笑みを浮かべる始末。
「まあ、の気子さんったら、、、」小夢も微笑で返す。
「わたしはここへ厄介になるまえ、ある商家の若夫婦の手慰みものだったです。だから女人の色香は分かってしまうの。生娘だったわたしにとってあの頃は苦痛でしかなかったけど、今となっては懐かしい思い出、あら、ごめんなさい、変なこと話してしまって」
「いいんです、わたしになぞ話してくれてうれしい」
すると、再度の毛子の顔つきは険しさを増し、
「きっとですよ、きっと帰って来てくださいましよ」
小夢の手を握りしめ、哀願の声を発した。
「ありがとう、それまでお元気でね、あなたのことは忘れません、可愛いの気子さん」
感極まった双方の目には大粒の涙があふれだし、うなだれ嗚咽を上げたの気子のすがたに妙の面影が一瞬よぎると、後悔の念も加わって増々悲しく、いよいよ門口にて皆に暇を乞うたとき、泣き腫らした顔が居並んだ心持ちがした。
普段は見せたことのない白糸の寂し気な面は冷ややかでなく穏健であり、ごん随女史の目もとには勝ち誇ったひかりはない、の気子は変わらぬ愁いを保ち続けている。随門師匠とは部屋でむせる挨拶を済ませていた。
「皆様、本当にお世話になりました。金目へ参りますけれど、こころはこの流派にございます」
暇乞いの言葉にこめられた情は素直なものであったが、各人の壮行の声を小夢はよく耳にすることが出来なかった。別離とはこうもひとを感傷にひたらせるのだろうか。いや、そんな内省も遠雷のようこの身に届いたのはしばらくしてからであった。