妖婆伝41


廊下に人影がないのを感じる。古次の死からさして時間を経ていないにもかかわらず、又、たったいま呆れるほどに鮮やかで、惚れ惚れするくらいの幻滅を味わったことすら、流れの彼方にあるような心持ちがしてならない。冬の青空の冴えきった冷たさに、張りつめた温もりを感じることは不思議ではなかった。ごん随女史の双眸から光輝が放たれたのではなく、例えるなら、寒風によって生み出された湖面の細やかな波は決して凍結を覚えさせることがない、そんな微笑が静かに眠りをさまたげていた。まばたく湖水の反照に寄り添って。
「ここではなんですから」
小夢の面をかすめるように女史の横顔が近づくと、首をまわすことなく家元の按配をやんわり示し、続けて囁く。
「あなたにとってみても大事なことですよ」
転生や気狂いという障壁とは別種のまやかしに操られているのは分かっているけれど、さながら季節の真ん中に立ちすくむ忘我に似て、うつろいゆく道理を覚える間もない。足袋さきにひやりとした感覚が、しかし冷たさだけを伝えているのでなく、浮遊した陽気な気分が少しだけ運ばれる。廊下の鈍い明るみは、これまでたどった試しのない部屋のまえでぼんやり途切れるふうにして、そこが女史の書斎だと教えていた。
「こちらへ」
こうして師匠抜きの密談がおこなわれたわけであるが、小夢は霞んだあたまのなかへ「まさに予感したことが」というふわりとした苦しさをあたえ、ようやく全身に生気がゆきわたりだした。
熱いほうじ茶と草餅を遇されたのが、礼儀を忘れさせるほど、渇きと空腹を知らしめ、勢いよく交互に口にしていまい、このときばかりはごん随女史も軽い驚きを面にした。逆に小夢は胃袋が熱をもった感じで安堵したのか、顔つきは冷静に見えるのだった。口火は真正面から切られた。
「ねえ小夢さん、お師匠さまのご様子いかがと思われますやら、あなたはもう分かっているはずでしょう、そこで相談しておきたいことがあるのです。それと承知しておりましょうけど、さきほどのお師匠さまのお話しは本音ではありません、いえ、瞞着に過ぎるとも言えませぬが、すべては流派の為、多少の歪みは正されましょうぞ。あまり長話も出来ません、というのもやんごとなきお方こそ急がれているのです。家元ご自身の焦燥と見るは過ちで、、、悲しいかな、実際のところ当家への婿入りと申すは名ばかり、この度も正気の沙汰に整えし気狂いの計らい、あら、気にさわったら許して下さい、小夢さんの所以もよく存じておりますよ、けれど内情を申し聞かされし受け入れ、わたしの言わんとしてることは判じてもらえますね。婿殿はまだまだお若い、あなたのお子ですから、それだけではありません、母君とは知らされてないばかりか、おそらく母たる意味合いも通じるやら、、、覚束ないのです」
小夢はさすがに憤然とした面持ちを隠しきる必要もないと思われ、と同時に曇っていたあたまがすっきりし始めたので、女史の言い様を聞き入れる心得を忘れてしまい、
「では、ごん随さまはお覚悟のうえで」と語気をあらため「お師匠さまもでございますか」そう訊ねれば、
「左様です、家元の意志はわたしの意志、、、と、きっぱり申したいのですけど、小夢さん、汲んでいただけますね、あまり猶予はありません」
「やはりお師匠さまの容態が」
「ええ、老衰とは厳しくも儚いものです、家元は乱心したのです。さきの遺言めいた話しの内容は、このわたしが拵えました、気つけの妙薬を少々含ませまして、種本にそって語ってもらったのです。色々と厄介ですからねえ、、、急場しのぎの種本でしたけれど」
「すると阿可女さん兄妹の謂われも」古次の名を口に上らせず、語調が下がった小夢をなだめるよう、それからひと息に疾駆するもの言いで女史は説明した。
「あれは間違いなく伝えられた経緯です、難問は家元と阿可女のいざこざにあります。よいですか、小夢さん、極めて大切なことがらゆえ、しかと聞いて下さい。阿可女は凶刃など振るっておりません、家元の世迷い言なのです、騒ぎを一番に知ったのがわたしでしたから幸いだったものを、確かにふたりは同じ部屋にいましたよ、しかし刃物なんかどこにも見当たりません。この狼藉もの、といきり立ってあれこれ罵声を浴びせているばかり、しまいには斬られたと叫びだすわ、聞きつけた白糸の足音がもう少し早ければ、とんだ狂言が明るみになってしまったでしょう。わたしは咄嗟に阿可女に向かって金目に身を隠すより仕方あるまいと命じ、直ぐさま伝令を呼びつけました。一方、怪訝な顔で駆けつけた白糸の目に触れないよう家元を隣の部屋に移し、のちには打ち消せない騒ぎを本物に仕立てたのです。ところがふすまを閉めた手もとが力んでしまったのでしょう、隙間が開いており一時は終わりかと思いましたけど、上手い具合に家元は隅の方にうずくまり背を向けていましたので、覗いたにせよ、にわかに判別はつきかねるでしょう、肝を冷やしながらも、白糸に対し厳命を発する声色で、ことの次第をまことらしく言い聞かし、の毛子のもとに走らせたのでした。そのさきはあなたも存じているとおり」
「そうでございましたか、、、」
「不可解でありましょう」
「成りゆきはのみこめました、しかし」
「もっともです、こうしたわけがあります。家元と阿可女は単に師弟の関係ではなかった、と申せば察せらせましょうぞ、ええ、古次が身分の隔てに甘んじていたのは兄妹間の情愛もさることながら、ひとえに家元の執心ゆえの仕打ち、当人は勘づいているどころか、了承することで自らの桎梏としていたのでしょう、哀れといえばそうとも、幸甚といえばあまりに如実、結ばれない有り様こそ古次をこの世に生かせていたのです。阿可女への執着は簡潔に言えませぬけれど、家元が不能であったにもかかわらずとだけ今は耳に入れておきます。いずれ真相を知ることでしょうから。次に認めていただきたいのは、家元のかねてよりの奸計です。この時点ではまだ乱心の気配はありませんでしたし、わたしも身内ながら鳥肌を禁じ得なかったのですから、相当強い念がこめられていたに違いありません。こういう企てだったのです、あなたが阿可女に懸想しているのを察知した家元は、婿取りの見通しがつきかけた頃、大義名分であった小夢さんと、邪魔ではあるけど何ともし難かった古次とをあわよくば亡きものにしたく、何故ならそれまで阿可女のこころを掌握していたのは他でもありません、兄を流派の後継にとの金言にも等しい黙約、ところがやんごとなきお方の意向が明確になるに従い、ご破算を願ったのはいうまでもないでしょう、阿可女との諍いがあったとするなら、ここに端を発するのは間違いありません。今朝あなたと古次が外に出たのを聞いたわたしはすぐに双方の身が案じられました」
「それは方便でしょう」小夢は急に不敵な笑いをつくった。
「なにゆえに」
「ごん随さま、あなたがわたしの枕もとへ置かれたのです、古次さんを殺めた懐剣、そうでございましょう。もうよいのです、お家争いには正直申しまして辟易しているのですから。家元の奸計でもあなたさまの種本でも、ご随意にどうぞ、ここまで興味深くうけたまわってまいりましたが、わたしは古次さんの死で悟りました、金目にも旗本にも大名にも関知したくありません、ましてや婿殿にしても。あちらさまに肉親の情がないのが好都合、わたしとて気狂いのうなぎ男、いまさら親子の再会など願い下げでございます、こんなふうに申せば、叛意を抱いているとお考えなさるでしょうけれど、ご安心ください、わたしは誰に逆らったりもしませんし、ごん随さまの腹づもりを非難する立場にありません、ただ、これ以上こみ入った情況に巻き込まれたくないだけでございます。わたしがここに座らせていただいているのは万が一の比率だったのですから、十分過ぎるほどに心得ております。亡きものにされると聞かされまして怖じ気だし、屈服したとでも、欲を捨て去ったとでも、お受けください。つい先日、随門師より助勢を乞われ快諾した身でございます、過分の扱いは無用です、どうか、そつない善処を賜りたく願います」
かなり面倒な事態には相違なかろうが、家元らの腹はおおかた読めた。叛意も非難もとあらずと口にしておきながら、古次が死んだ限り、増々阿可女の艶やかな姿態が色濃く迫ってくるような気がする。それにしても乱心とは芝居がかった様相、借りに事実であるなら、阿可女は自由の身、金目流にてどう過ごしておるのやら、敗北にうちひしがれているであろうし、古次の死も耳に届いているに違いない、このわたしが刺し殺したことも、、、なにが自害だ、危ういな、非常に危うい、まだ服従の態度を示しきれてはおらん、とにもかくにもここは平身低頭でやり過ごすしかないであろう。様子窺いは決して焦らない、愛しの阿可女よ、待っておれ、もう少しだけ待っておれ、、、、おっと最後の砦があった、黙念先生よ、だが、これは堅く口を閉ざすべきであろうな。
「小夢さん、まえには不思議なひとと感心しましたが、あらためて私利私欲のない無垢なおひとと感銘しましたぞ。けれどもあなたにだって望みがあるでしょう、古次なきあと、家元乱心のちの阿可女、金目流より呼び戻すべき、どうおもわれますか」
「御意」
「これで決まったも同じでしょう、では早速、金目の本山に出向いていただきましょう」