妖婆伝40


の毛子と揃って門をくぐると、いつも沈着な白糸の顔色がただならぬ様子で待ち受けているのを認め、小走りのさなかに無心とはいえ胸騒ぎを押し殺せなかった気息が、ここに来てようよう白い吐息となった。
「お師匠さまはどちらに」
「深刻な事態ですが、傷は浅く、毅然としておられます。それにしても阿可女、大それたことを仕出かしおったわ」
怪訝な表情の奥により不穏なひかりが揺らめいている。が、返す踵も鮮やかに、うしろ姿は重圧な気品を放って、声は寒気によく透き通る。
「さあ、まいりましょう」
流派の存亡を一身に背負ったかの気勢でふたりを牽引した。このとき小夢は家元にまつわる厄難がこれから始まるような予感がし、小さく身震いした。
さて床の敷かれた部屋に入ったとたん目に飛び込んできたのは、刃傷沙汰に倒れた随門師の泰然とした様子でなく、かたわらに座したごん随女史の射るような鋭い目つきであった。部屋の空気を凍てつかすそのまなざしは自分に向けられているのではない、かといって白糸でもの毛子にでもない、どうやら特定の人間を見つめていないのが却って不気味に感じられた。
続けて視界に訴えるのはもちろん随門師であったが、小糸の言い方とはうらはらに一気に年衰えてしまって、気迫を失っているとしか映らない、事情に与らない者には老弱の有り様でしかないと思うであろう。
ごん随女史はこほんと軽く咳払いして見せたのち、
「皆こちらへ、もっと近う」
と、内弟子らをあたかも臨終間際の席に誘うがごとく、しめやかな、だがどこか焦燥を抑えきれない、哀感と怒気を含ませた声でそう言った。
するとどうだろう、
「心配いらん、わしは平気じゃ、これ傷もこの通り」
憔悴しきってしまわれたと案じていた矢先なので、皆はいっせいに驚きの表情を面にし、これも家元の演出なのか、大様に半身を起こし、おそるおそる怪我人が差し出す左腕に巻かれたさらしの薄ら血の滲みだすのを凝視する。
「わずかに腕をかすめただけよ、阿可女ごときの凶刃に倒れるわしではあるまいて。よいか、これから話すことをしっかり聞いてもらいたい」
やつれた頬から出る声にしては威勢がいいので、ごん随女史を除き、更に驚きの形相やら、拍子抜けしたふうな何とも締まりのない表情をするもの、だれかれともいわず一様にそんな顔つきをめぐらせ、ちらりと互いを見合ったりした。
そんな模様に得心がいったのか、自らの気丈振りに叱咤する按配で随門師はこう続けた。
「あの双子が謀反を起こしたのは厳然たる事実である。いや以前より阿可女ははっきり口にせなんだが、わしはちゃんと見抜いておった。近々わしは隠居し、ごん随には婿殿を迎えることと相成った、この小夢に縁のあるお方よ。これはごん随にさえ伏せてあり、つい最近知らせた機密ゆえに漏洩はなかろう、だが、阿可女は外部よりそれを得たのじゃ。断定は出来んがおそらく間違いあるまい、山脈向こうの金目流の仕業よ、逃げ失せたさきもな、、、そのまえに阿可女と古次だが、おっと古次は」
ここで小夢と目線を結び、なめくじが動くよう口もとを不浄に歪ませ、反応を待つより早いか、さっとの毛子の顔にいくぶん穏やかな目を送った。師匠の思惑が焼けつくのか、こ毛子は空き地での光景をありありと目のまえにあぶり出し、直ぐさま言葉に置きかえた。小夢のほうを見遣る猶予などないまま。
「お師匠さまの言いつけに従って尾行しました、はい、事前におっしゃられていたとおり、古次は自害しておりました」
動悸は激しくなっていたけれど、まさかこんな耳慣れない響きを口にするとは考えてもいなかった小夢は、思わず「えっ」と、むせこむよう声を出してしまった。が、その声は一同の驚嘆によってかき消されてしまい、ときを経ず観客が舞台の役者の一挙一同を見つめる要領で随門師に耳目が集まった。再び威厳を整えた顔つきで問いかけるに、
「ほう、いさぎよいな、そうか。いやな、古次には認可をあたえておいたのよ、阿可女とは一蓮托生の運命、つい先日のことでな、今まで身分の隔てで引き離してあったが、阿可女によからぬ動静が見えた以上、一度は自由にしてやり、今生の別れの機会を授けてやったのじゃ、古次はたとえ妹の意見であろうが謀反に加担するやつではない、いや、そうと知ってしまった限り、おのれは謀反人だと思いこむ質、本来ならば武家の出として妹をたしなめ、刺し違えるところ、しかしそれとて出来んわな、可哀想な男であった。で、小夢も見届けたのじゃな」
あえて小夢の顔から目をそむけ、ぴしゃりと扇子を打つ調子での毛子に同意を求めた。まったく変わらぬ姿勢で「はい、小夢さんはそばにいました」と、応えた。
衰弱していたはずの随門に生気がよみがえる。瞳の奥にはまだまだ漲るものを秘めているといわんばかりの素早い目配りで、
「小夢や、なんぞ遺言めいたことは言っておらんだか、よい構わん、せめてものはなむけよ、憚りもなかろうて」
畳にしみ入るような低い声でうなる。うなると同時に小夢のあたまのなかには無数の蝿が飛びまわり、不快を越え出て振動に身をまかせている放心に堕ちていった。意識が遠のきかけたともいえるし、古次の死に際までの情景を透けた紙が幾重にも被さっているふうでもあり、また不意にの毛子に鬢つけ油が香ったりもした。闇夜を歩く心許なさ、、、ほとんどうつつの声色がこだました。
「特にございません、阿可女さんのことも触れませんでした。ただ、からす天狗さまと申しておりましたが、わたしにはなにを言っているのか一向に」
「なに、からす天狗だと、蛇と言ってはいなかったか」
「いえ、そのようなことは」
随門師は大きく頷き、ごん随を横目で見た。部屋の入った際の射るような鋭さは和らげられるまでもなく、凍てついたものは霧散していた。
「阿可女はまぎれもない下手人だが、兄の古次はおのれを葬ることで罪をあがなった、遺体は丁重に埋葬してやろう。で、あの兄妹よ、委細は語らんがさる旗本屋敷より引き取った、いわくがあってな。しかし彼奴らにでない、次に生まれた子に問題があったのじゃ、実子ではない、これまた因縁がある、次子は御三家に連なる大名が側室に生ませたのだが、世継ぎ争いであろうな、深い事情は聞いておらんし、探りを入れてもいかん、その赤子が旗本屋敷に下ったときから色々と騒動が起こったという、旗本同士の小競り合いとも、正室の策謀が尾を引いたともな。そこで暗躍したのが金目流の後ろだて、側室を擁護しておった要職の御仁じゃ、密偵を屋敷に放って情勢をうかがっていたのよ。そこに惨憺たる事件が発生した、なんと次子が暗殺されたという、これらは皆も知ろう公暗和尚よりの通達じゃ、その折に合わせて忠告があった、根図中左衛門なる若侍、事件当日に逐電せし、重要人物として探索がなされておる、だが、ようとして行方は知れん、確定したわけではないが、根図こそ側室すなわち次子の生みの親が送りこんだ密偵と思われる、けれどじゃ、おかしいであろう、首尾よく成育を見守るなり、外敵から守護してこそお役目、どうして事件に関与せねばならん、それとも我が子の暗殺を根図に申しつけたのか、合点がいかん、いや、わしもそうだが公暗和尚もそう申しておる。さあ、ここからが肝心なところよ、人相書きなど手配はされたようでの、結果どうも金目流の家元に匿われているとの報せが届いた。知らぬ者もいるだろうから話しておくけれど、金目流と随門流にこれといった諍いもなければ、取り立てて繋がりもあるでなし、そもそも技風がまるで異なる、向こうは陰茎縛りの技を駆使するからのう、ところがじゃ、阿可女に内密で近づき我ら流派を狙ったのが金目である節が濃厚になってきた、が、側室の意図はまだまだ見えてこん、古次も知り得ていたのか分からん、ともあれ、阿可女があんな暴挙に出たことは由々しき事態であろう、これに対敵するには一刻も早く婿殿に家元を継いでもらうが最上、なにせやんごとなきお方の子息だからのう、これに勝る縁組みはないわ。あとは追ってそれぞれに伝えよう」
これだけ話すと、随門師は今までの気合いがまるで嘘のように衰弱した顔色に戻って、床に身を横たえてしまった。皆が早々に立ちあがり部屋を出ようとしたとき、小夢はごん随にうしろから小声で囁かれた。
「あなたはこのままいて下さい。お話がありますゆえに」
振り向いた小夢を映しだしていたのは、感心するほどに澄み渡ったごん随の瞳だった。