妖婆伝39 刃先をかわしたつもりだったのか、小夢は腰を落とすよう後ろによろめき、尻餅をつきかけながら斜に身を逃がした。と同時に実際には意識のうえで読み取って欲しかった懐剣を抜き出し、低い姿勢から右手に掲げ陽光を反射させた。古次の表情にわずかな迷いが走ったのを幸い、片方で瞬時に握りしめた小石を数個投げつけたところ、近い距離ゆえか思ったより首尾よく、おそらく痛覚に至らずも目くらましの効果を発揮し、狙い定まった刃をくぐることが出来た。荒い息に叱咤されるよう、両手で束をつかむとほとんど体当たりの要領で古次の脇腹を突き上げる。ぐっとちから加減さえ分かぬまま。手応えを覚えるまえに春縁の面影を深紅によみがえらせれば、あのときのもろ助の憤怒の目つきも追ってきて、はらわたまで達したであろう懐剣の意義がものの見事に遠のき、おののきは近いけれど、どれだけ古次の歪んだ顔を見据えようが過去の幻影に勝るものなしといった按配、流れしたたる血の匂いなど鼻につかん、勝機を見出したりもせん、ひたすらめぐるのは春縁が絶命きわにしめした鉛色の瞳であり、北空に吸い寄せられていたもろ助の鎌首であった。 すべての光景は一巡を経なければいけない宿命であろうか、崩れるよう身をかがめた古次の苦悶と、久闊を叙した矢先に頓死したもろ助との隔たり、そこにひそむ狂おしいまでの切なさ、すべては虚しく、あからさまに激しい、すぐにでも陽気な心持ちにひたれるくらいに、、、小夢は衝撃を意識しつつも、それが相打ちでなかったことをぼんやり知る。さながら失神を忘却しており、痛手を感じる暇がまだ訪れてないといった風情で。 日差しが傾いた気配はない、臓腑を抉りあばらに食い込んでいるかの刃元をいたわるよう触れた古次の手に血潮がまとわりつく。まぶしい、眼を細めてみても、うっすらまぶたをふさいでみても、ようやく古次ともろ助が重なったすがたはまぶしかった。両ひざを地につけ、それでも上体を畳むことなく古次は光線を背に小夢を見返している。このときほど言葉が求められたことはなかった。双方にと飾りたいところだが、より欲していたのは小夢であったし、相手の願いは最早叶いそうになかったので、ためらわず口を開いた。 「まただよ、おまえを殺してしまう、、、そうさ、そうだとも、、、」 悔恨に限りなく等しいのは信じたかったれど、古次の瀕死の形相も同様に拒否を現そうと努めている。小夢は最期の言葉になる、そう見極め、こう言い聞かした。 「黙念先生がもたらした殺意じゃないよな、本当は阿可女をとられるのが憎くて仕方なかったんだろう、わかったよ、もろ助、そうだよな、もろ助」 体当たりの反動でよろけた足つきのまま、それはまるで冥土から立ち返って来た様相を香らせ、千切れかけた花緒へ微かに煙る土ぼこりとなって、曖昧な、けれども引導を渡す意気を底辺に残し、嗚咽ながらの問いかけになっていた。もろ助は決して応えてはくれまい、信念で固めたひとりごとを湿らすごとく、漉かれた状態に戻りたいが為、小夢の涙は大地を濡らした。死と対峙し、生き延びた我が身を愛でてしまう罪をあがなう為に。 深慮するまでもなく、久しく携えたことのなかった懐剣を目覚めの枕もとに見出し、その心添えは随門師によるものと至当に受け入れたのが欺瞞の始まり、ことの結末はあらかじめ推察されていた。 もろ助の目色になにかが灯ったのは錯誤だったのか。凝視する気力をなくしたのはもう二度とそんな錯誤を得たくなっかったからである。小夢は涙が血であることだけをひたすら願っていた。 風がそよぐ、裏山には潮の匂いは届かない、無造作を知り尽くしたまわりの木立に場所を譲るよう空き地は仄暗さに覆われた。見上げるまでもないだろう、陰惨とは無縁の鈍色を誇る雲間が陽を隠し、もろ助がこと切れたのを覚った。あたりは静寂にさらわれ、涙が甘みを含むまで小夢はもつれた足をしっかり踏みしめ、いつまでも死者と対話していたかったが、鏡をのぞく具合にいかないことを薄ら感じており、悲愁に埋没したい熱意は毎朝目にしていた庭先の古池の光景をたぐって、穏やかであった日々の語らいを蒼然と写しだしては些少だけ泡にさせ、これまでの疑心になって浮かんでくるので、億劫なつぶやきとなってしまった。小夢に戻った声色がなによりの証しだろう。 「赤子の首はわたしがなんとしても」とか「随門師匠には早々に引退願わなければ」とか「やんごとなき方は黙念先生を、、、」とか、絡みつく事態も関与すべきでない事柄も、すべて自分に投げ出された使命だと思えてくるのだった。 どのくらい亡きがらと過ごしていたのだろう、静まり返った空き地は無念の装いをそういつまで居座らせてくれず、涸れた涙に赤い影が射すこともなければ、古次の口から蛇身が逃れ出てくるわけでなく、こころの空隙は果たしてなにを欲したのか、死が永遠であるなら、この身は無常に取り残された入れ物に過ぎない。なら耳鳴りであることを願っているこの嫌に落ち着きはらった予感は正しく、今まさに気丈な精神が雲間に達したと思われる。不吉な足音が哀しくなるほど軽快に伝わって来た。おおよその見当はついていた。 ゆっくり振り向くと、の毛子がすがた、地べたへ伏した惨状に目を瞠るより、己が急報を口にするが早い。 「大変です、小夢さん、お師匠さまが」の毛子の顔には悲愴よりときめきが張りついているように見える。「襲われました、阿可女さんに斬りつけられたのよ」急いた息に乗って飛び出したもの言いで「お師匠さまから、気取られぬようふたりのあとを着いてゆけって命じられた、途中まで来たらうしろから白糸さんが呼びとめるの、えらいことが起きたからすぐ戻りなさい、わたしの事情は知っているみたいで、とにかく家元を、、、」そこで始めて面前の情況に驚きつつも、ちょうど判読出来ない書面に目を泳がせているといった顔つきで「小夢さん、さあ」と、促すことだけに精力を傾ける。 「それでどうなったのです」 すでに小夢はあらたな装いにこころ奪われ、忘れものの在りかを思い出したような表情をつくり、の毛子に近づいて「お師匠さまは」そう言いかけ、相手の鬢つけ油の芳香を素早く嗅ぎとった。微風のせい、そんな言い訳めいた言葉と並べ、うしろめたさを隠し「無事なのですね」祈願というより確信を強めた語気で問うた。 「幸い、かすり傷ですみました、しかし」芳香の漂いを意識した戸惑いがあるのやら、 「しかし」小夢の声も重なるよう後押しすれば、 「阿可女さんは逃げてしまうし、大騒ぎ、でもお師匠さまは取り乱したりせず、皆を集めよ、っておっしゃるから、そりゃ、もう駆け足で報せに来たの」と、ことの次第をひと通り伝えた安堵か、眉間を寄せたままだったけれど、ようやく憐憫の顔色をしめした。 「古次も、、、そうだったのね」 が、家元の申しつけが肝要、成りゆきは道々に訊かせてもらうという風情で、もと来た方角へ一刻の猶予もなく引き返す素振り、仔細を語るよりこの場をあとにするべきと目が訴えれば、小夢は無言で同意し、おりしも陰った空き地に再度ひかり射しこんで、その奇妙な明るみ、さながら妖魔が退散するに相応しい、脱兎のごとく駆け出した。 途中、小夢の草履は花緒を切らし足袋のまま、勢いついたの毛子は転んでしたたか両ひじ打つやら、家元の按配も細かいところまで話せない以上、無駄口聞くより黙して帰路につくが賢明、古次の死を説明するのはの毛子にとって怖気をふるわすこと必定と、知ってか知らずか、互いの胸におさめ小走りを競った。 |
||||||
|
||||||