妖婆伝38 「うわ言とは申せ、ええ、はっきりとした覚えがあります。わたしがいつから蛇であったのかは知りません。一番古い記憶は地べたを這っていた、川底はどうでしょう、川縁ならあの草むらなら思い出せます」 「そうか、では千代子という名はどうだい」 「いいえ、存じません」 「なら、順序よく話して欲しい、その最古の記憶は」 「とにかく川縁を這っていたらいきなり上空にさらわれたのでございます。鷲とかに捕まって、、、でもそうじゃなかったのです。わたしを捕らえたのはからす天狗さまだったのでした。もちろん信じてもらえないでしょうけれど」 当惑気味の相手を意識したのか、古次の語調は弱まるばかり、すると小夢は素早く、そして叩きつけるように言い放った。 「信じるも信じないもないさ、おれだって山椒魚さまだからな、先を聞こう」 「からす天狗さまはわたしにこう申されたのでございます。これより山々を遥か越え、ひとの世を見聞するがよい、それはそれは威厳のある声でした、優しい響きさえ感じました。獲って食われるわけではない、言葉通り陽が沈むまでのあいだ大空を自在に駆け抜ていれば、ありありと実感がわいてきたのです。夜を迎えるまでには餌を与えられ、あとは穏やかな眠りにつきました。その繰り返しです、いくとせやら、数える余裕などはありません」 「その、ありありとっていうのはどうしたことかな」 「はい、まさにひとの世を俯瞰ながら眺めているという意味です。わたしは様々なものを見聞きしました、ときには低空を飛び回り、からす天狗さまがあれこれと説明してくれました」 「で、あの旗本屋敷へだね」 「いいえ、ある日のこと突然こう言い渡されたのでございます。これよりはおまえ独りで旅するがよい、そんな短い言葉を残し、からす天狗さまはお姿を消されてしまったのです。さあ、どうしたものやら、大方の地名は知らされておりましたので、かの地がどの辺りかは心得ておりました。ここから長い放浪が始まったのですけれど、所詮地べたや暗がりに生きてきた強みがあります、いえ、記憶としてでなくこの身が体得しているのでございます」 「転生の術もからす天狗に教わったというわけだな」 「おっしゃるとおり、これという人間を見初めたのなら、迷わず行けと忠言されておりましたゆえに」 「なるほど分かったよ、寸分違わずと言いたいところだが、もろ助よ、おれの場合は川底から始まっているしなあ、幻覚として判断すれば、神隠しだの、きつね憑きだの、おれはうなぎ憑きだな、そうなるとおまえは蛇憑きか、、、断念しなくてはいけないような気もする、、、」 小夢がすっかりうなだれてしまったので、古次は元来の優し気なまなざしを呼び覚ましこう言った。 「どうしました、しっかり話して下さい」 「おまえは聞いておらんのか、おれのすべてを」 「妹が言うには、これはお師匠さまからの又聞きになりますけど、、、もとはやんごとなきお方に添うておられましたが、高熱が災いし正気をなくしてしまわれたと」 「それで」 「はい、、、」 「もういいよ、あとはこうだろう」 小夢は先日、随門師から知らされたばかりの実情をつぶさに語って聞かせた。そして非常に無念な面持ちで古次を見つめこうつぶやいた。 「おれは心構えをしておっただけかもな。どうやら熱病幻覚のいい分が正しいと思えてきたよ」 「小夢さま、ひとつ尋ねてよろしいでしょうか、何故にそれほど女人を好まれるのでございます」 「それは、、、そうだな、やはり牛太郎が雄だから、そうじゃないか、あっ、待てよ、おれも聞き返すよ、どうして旗本屋敷に近づいたんだい」 小夢は大事なものが欠けていたのを発見し、顔色を取り戻した。 「目的はありませんでした、けれど」 「けれど」 「節句のお祭りを見ておりましたら、どうにも阿可女のすがたに魅入られてしまいまして、ああ、そうとも言い切れません、あの双子と申したほうが正しい」 「では転生を、つまり幻覚でも妄想でもかまわん、おまえは試みたのだな、しっかりとした意志を持ち」 「はい、けれども蛇の記憶は次第に薄れゆき、あくまで幻想として息づいているのでございます」 「そうだったのか」小夢は大きく舌打ちし「おれはまた双子を取り違えたのだとばかり思っていた」と、例のどじにまつわる推測を細やかに説明した。すると古次の目が一瞬妖しいひかりを放ち話すに、 「ほぼ誤りのない考えですが、どうでしょう、わたしは古次として物覚えはしっかりしているのです、曖昧なのはもろ助のほうで、、、貴女さまに予て伝えましたよう、確かに古次という人間として阿可女を愛しているのでございます。決して蛇のまやかしなどではありません。しかしどちらにせよ、一緒ではないでしょうか、蛇が穴を間違ったのなら、悔しい気持ちから阿可女を恋慕うであろうし、蛇の毒がまわったのなら、それはそれで仕方のないこと」 「ちょっと待ってくれないか、じゃあ、いつから阿可女を慕っていたんだい、転生のあとなのかまえなのか」 「おそらくまえからでしょう」 「そうなのか」小夢は嘆息しつつも「だいぶんと事情が異なっている、おれとおまえでは、、、で、転生の際、狙いをはずしてしまったのはどうなんだ」 「まったく焦っていたものですから」 「なあ、もろ助や、おれの知っているおまえは、川底の頃さ、千代子を人間に生け捕りにされた怨念から、ほとだろうがしりの穴だろうが復讐の為にもぐりこんではらわたまで食いちぎってやると叫んでいたんだ。あの激情がきっかけになっておれは転生を求め、黙念先生をはるばる尋ねていった。おまえにはいつかいい知恵をさずけてやるからな、そう説き伏せたんだよ、思い出せないか、、、」 小夢の哀願に近い口ぶりを凄まじい勢いで退けるよう、古次は声を張り上げた。 「なんと申された、黙念先生とな」 あまりの豹変ぶりに足もとがぐらついた。そして口調も控えめになってしまい、 「黙念先生だよ、知っているだろ、阿可女は口にしてなかったのかい」 「知りません」 「おい、どうして急に大声を出すんだ」小夢の問いかけに覇気はない。 「そういや、随門師匠もまったく似た反応だった、いったいどうなってるんだよ」 「小夢さま、もう一度お聞きします、黙念先生と出会ったのですか」 「ああ、出会ったとも、そこで秘伝を授かったのさ」 「お師匠さまには話されたのですね、それ以外の者にも」 立場はいつしか逆転していた、古次の語気は鋭く、日差しをもひんやりさせてしまう。 「話した、、、けど、学問所でもどこでも、ほかには一切話してないよ」 この急転劇に思わぬとまどいを見せてしまい、態勢を回復せねばと、これまで古次に隠しておいた春縁殺しの経緯に始まり、もろ助の奇跡的な登場やその頓死までを残さず言葉にした。小夢の秘密を聞き終えた顔に異変が起こった。これほど見る見るうちに形相が変貌してゆくのは尋常ではない、小夢はついに身をこわばらせてしまって、今まで束ねてあった考えが飛び散るよう消え失せ、代わりに純然たる仮想を招き寄せてしまったのだ。 もろ助の怨念だ、、、いや、黙念先生の呪詛だ、もろ助、おまえを見捨てたわけじゃない、感謝している、先生、約束を破ってしまいました、、、しかし、この情況では、、、仕方が、、、ああ、随門にだって喋ってしまっているじゃないか、祟りは遅れてやってくるのか、そうか、そうか、高熱はどうなった、気狂いは確かだろう、、、 「小夢さま」静かだが、腹の底へと反響する声で「からす天狗さまからこう戒めを受けました、我は黙念なり、口外すなわちであると」そう言いながら懐に手を滑りこませた。 小夢はすぐに理解できた、もろ助だ、あのときは危ういところを救ってもらったが、今度は違う、殺される、なんという有り様なんだろう、、、 刃物は見事に陽光を反射し、古次の殺気に充ち満ちた眼光と居並んだ。そっくりそのままあの場面が舞い戻って来た、夕映えにきらめいた銀色の匕首、手にした人物が違うだけでまわりの空気は同質のものである。声色と同じく歩みも不気味なくらい落ち着いている。 「もろ助なんだろ、そうだろ、分かったよ、これが掟、忘れていた、黙念先生が人間であったことを、、、やはり実在の人物だった」 小夢のおののきは絶頂に達し、もろ助の背後に黙念先生の威容を透かし見ていた。命乞いのつもりであろうか、こんな文句を弱々しくもらしたのだ。 「殺すまえに教えてくれないか、旗本屋敷の赤子の首はどうなった、おまえがもろ助なら、、、あれは嘘だったのか」 「もうなにも答えるつもりはありません」刃が喉もとに迫っている。 「もろ助、よくも今まで化けていたもんだ、、、」これが、小夢のひねり出した精一杯の抵抗であり、こころからの面詰であった。 |
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