妖婆伝37


誰も待ち受けている気配のないまま小夢は自分の部屋に戻ると、今度はとりとめもない考えがあたまをめぐり始めた。緊張を強いられた者が刹那、まるで場違いな思いを呼びつけるように。
夕餉の際に皆を顔を合わせもしたけれど、あたかもそれは最期の御膳のごとくしめやかな雰囲気に包まれ、しめし合わせたと訝ってしまうほどに口数少なく、一種ただならぬ気配が敷きつめられていた。いつもより総菜が多かったと記憶するけれど、緊縛と弛緩に支配された心許なさはその品々を思い返すことが出来なかった。湯浴みのときにもやたら湯の香りが遠い風に湿らされている気がするだけで、憂慮され、その半面では身構えを崩さなかった姿勢に降り掛ってくる異変はなにも起こらず終い。早めに床をとる、古次が忍んでくれば、これ幸い、思いの丈を巻き散らかしてやろう、内心は震えているのだけれも、家元における危急存亡に立ち会っているこの身はどこか晴れ晴れとして、さながら青空のもとに詰め腹を切る風情さえ漂わせていた。しかし、まんじりともせず、いびつに膨らんでゆく想念は反対に眠りの方へたなびいていったのか、それからせめて夢中では虚無が授けられたのか、気がつけばすでに暁を迎えており、安堵と失意が交じり合うため息がついて出たのだった。
早朝の庭掃きでようやく古次と向かい合った。彼奴の顔つきはいつもと変わることなく、ほのかに目もとに親しみさえ覗かせお辞儀する。久しく顔を見合わせていなかったふうな気持ちが愉快であった。悠長に挨拶なぞしている場合じゃない、昨夜から携えていた懐剣を突きつける勢いで、無駄のない、極めて率直な見解を用意している、だが、口ぶりは普段通りであろうと努めるのは小夢の怯懦であろう、一方的に詰問しかけたいのだが、思いのほか慎重な態度が保たれた。
そこで小夢は以前に示したことのあるか弱い悩まし気な表情をつくり、押し黙ったまま古次の目を見つめた。咄嗟の演出というより、筋書きに沿った配慮であり、懐剣をあえて悟ってもらうが為に不可欠な媚態であった。しかし、心情はいささかあの頃と異なって、いうまでもない、その美しい顔に重ね合わすよう描いた阿可女に取って代わり、もろ助が透けて出るのを力んでいる攻撃的な視線へと移行された。次第に古次の面持ちがこわばってくるのが分かると、沈黙を破る大仰さでこう切りだした。
「阿可女さんとは昨夜のうちに話し合われたようですね」
相手は眉根を寄せるがすぐに返答はしない。
「お師匠さまより認可を得たのでしょう、そう申しておりましたよ妹さんは。駆け引き、そうですね、もうご存じななず、わたしのことはすべて聞き及んでいるじゃありませんか。昨晩、どうしてわたしの閨に来なかったのです、、、えらく姑息な手段と思わしておいて間をあけるなんて、なんのつもりかしら。お師匠さまとも意見は一致しましたか、いいですとも、無理におっしゃらなくても、そりゃ、そうでしょう、こんなところで喋れませんよね」
小夢はあえて言い切る姿勢を打ち出し、有無をいわせぬよう目つきをかえた。すると、
「もちろんでございます、わたしの方からそう申し上げようと思ってましたのに」いかにも空とぼけた声色だったが、古次の口からこぼれると生真面目さがまだ生き生きしているから不思議である。
「ではどこで」
幾分か顔色を穏やかにそう聞き返せば、
「神社の裏山にまいりましょう」と静かに答え、きちんと折り目をつけるよう「許可は頂いております」そうつけ加えた。
小夢は不意をつかれた感じがし苦々しかったが、相手がそう言うならそれなりの段取りを拵えたかに思え、不審を抱くこともなく、少々距離のある裏山の景色をよぎらせたまま「ならそうしましょう」と不如意は面に出さず素直に応じる。
「それでは」
古次が庭先から駆け出しそうな迫力を見せたとき、小夢は始めて胸に痛みを感じた。もろ助よ、もうすぐ再会だな、しかし因果よなあ、こんなめぐり合わせなんて、、、痛むと同時に高熱が下がりかけたときのように、ぼんやりとした病的な健気さを微笑ましく感じた。
決して早足ではなかったけれど、先をゆく古次の歩調には確固とした意思があらわになって、鬱蒼とした木立の脇を抜け、漁師小屋のまえを通り過ぎれば、早くも潮の匂い、滅多に外にでる機会のなかった小夢には新鮮な光景と映り、先陣を切られた気分を塞ぐことが出来なかった。とはいえ、算段を用いているのは彼奴らが一枚も二枚も上手、いまさら詰まらぬ意地を張るまでもなし、どう転んでみても行き当たりばったりも同様、ならば転生の先達としての気概を発揮するのは誰にも邪魔されないであろう、裏山が相応しく、道行きを急いでいるかの古次のうしろすがたは実にいさぎよい。そう思いなすのが今の心許なさを埋めるせめてもの判断であり、後手にまわった素振りであることの弁疏となった。
河口ふきんからは港が望め、そのさきに連なる遊郭の家並みが覗ける。が、橋を渡り左に折れれば、天空をさえぎるふうに茂りに茂った大楠の巨木の陰に紛れ、そのまま再び雑木林に閉ざされて視界からきらきらとした海原の青みが失われた。束の間の爽快な色合いに目を休める暇がなかったのが却って、心持ちを持続されてくれた気がし、山の麓へ、ほとんど人気のない場所へと、歩を進めるのがまるで家路をたどるような親しみに成りすましているのだった。この親和こそ、小夢の胸を去来する不安の拡散であり、強烈な負の郷愁であったのだ。名もなく居場所もなく、当てもない、ひとでなしをうなぎに見立てた偽善者の帰ってゆく故郷への夢見に他ならない。
まったく同等のことを古次に当てはめるのは容易かった。それゆえのひりつく親和であった。
賛同しているのか、ただの偶然か、枯れ木の伸び具合、その放埒な枝ぶりは刺々しさもさることながら、ひとの侵入を頑なに拒み、宥和なきもの言いが山道をいっそう狭めていたので、袖を払いつつ抜け出た待ち針のあたまのような空き地に踏み込んだときには、安心感が歪められ、むしろ神々しく荒くれる厳然とした難所に追い込まれたふうな感じをあたえられて、それは鷹揚に振り向いた古次の容姿にも言えた。何故なら無性に気弱な表情を隠し切ろうとしていない、ここが如何にもな場所のごとくに怯えているのが見てとれたからである。
日差しは遠慮なかった。仄暗い空き地に適切な陽が注がれ、一陣の風にも会釈はない、あるのは煤けた山肌の寂しさを慈しんでいる照りつけ方だけだった。
ぞんざいな言葉を使いだしたのは、やはり小夢の先制攻撃であろう、しかし古次は微動だにしない。蛇のもろ助、うなぎの牛太郎、積年の邂逅に対する呪詛が互いの足もとの土に染みこむなか、太陽は審判を買って出たのか冬の空から燦々とかがやく。影は身じろぐことの出来ぬ刻印となった。
「もろ助よ、もうお芝居はやめようじゃないか、時間ならあるんだろ、言い分は聞くつもりだよ。それにしてもふざけた家元だなあ、おれもおまえもたぶらかされていると思わんか。で、条件はなんだ、もうまわりくどいのはうんざりさ、言ってくれよ」
風が吹き抜けるのを待っていたのか、しばらく真顔でこちらを見返していた古次は、語気をあらためこう返事した。
「もろ助でございますよ、しかしお芝居とはどういう意味なのでしょう、わたしは芸ごとにいそしんだ覚えはありません、それにしても乱暴な言葉づかい、どうされたました。いくらおなご好みとはゆえ、、、」
ここは日向、虚言は通用しない、が、古次の顔つきに嘘くささが嗅ぎ取れない、ふっと嫌な予感がよぎったけど、構わず牛太郎で通した。
「まあ待て、うなぎの件は知っておるだろう、それとも信じてないのかい」
「はい、昨夜、妹より聞かされました」
「では何故そんなによそよそしいのだ、おれを忘れたとでも言うつもりじゃないだろ、いいんだよ、もう川底に戻って」
「少し、少し、話しが、、、いえ、こういう意味です。わたしは確かにもろ助と名乗ったそうでございます。けれどもそれはこの港町に来てすぐ発熱した折に、、、」
「ほう、では幻覚というんだな」
「そうかも知れません」
「まあいい辛抱するよ、だがおれはこの喋り方でいくぞ、おまえはおまえでいい、化けの皮がはがれそうになってからでも、意識が戻ってからでも、どうでもかまわん、とにかく、これだけは譲れんからな」
「ええ、分かりました」
「では聞くが、もろ助の幻覚とやらを教えてくれんか、まさかそれも忘れたとは言わせんからな」
ここでようやく古次は観念した顔色を見せ、さきほどの怯えに明快に連なったのであった。