妖婆伝35


まぶたの裏が真っ赤に染まった。血が逆流している、このままではいけない、、、小夢が欲したのは間合いであった。少しだけでよい、思考をきちんと正し、呼吸を整え、まなざしに平静を取り戻す。あれだけ随門師の語りに生唾をのみながらせり出していた意欲が一気に萎えてしまい、多分もうすぐその反動で意識は沸騰してしまう。そうなると、自ずとうなぎが飛び出して来るだろう、、、しかし相手はもうなにもかも承知だと言っている。仕方あるまい、牛太郎いよいよ年貢の納めどきがやってきた、が、もろ助うんぬんは解せん、まったく解せん、あいつは死んだ、わしを助けようと命がけで救ってくれたでないか、この目ではっきり見たわ、まあいい、こっちからうなぎでござる、なぞと名乗りを上げることもあるまい、もろ助の謎が先決じゃ、、、
「結局そなたは高熱が禍いし気狂いに至った、あたまの中身が破損してしもうた、きつね憑きならぬ、うなぎ憑きよ、これが学僧、学者、文人らの見解であった。荒唐無稽ではあったが中々どうして一応筋道の通った理屈と関心を寄せる者さえいたほどじゃ。川縁でおなごを物色するところから始まって女人の心情を理解しようと努めるなど、堂に入った葛藤ぶり、さながら世話物にでも出てくるような細やかさ、またある識者は、文政五年に聞書きされた平田篤胤先生の活五郎再生記聞を引き合いにし、生まれ変わりの不可思議は一笑に付されるべきでなく、丹念に調べあげるよう力説しておったそうじゃ。もっともわしは神仏には一切関わりもたん信条でのう、あの世なぞない生きてるうちだけが花である、そう念い続けてきた。だからこそ我が流派すんなり受け入れられなんだわけだが、これは今の問題でないから先に進めよう。
本来なら山奥か貧村のはずれとかに追いやられる身であったろうが、何せあのお方の心痛甚だしく、そなたを汚れた場所にやることは出来ん、かといって屋敷内に座敷牢もな、それで思案した結果、うなぎの転生からの記憶が鮮明であるのなら、そこから新たな人生を歩ませてやればよろしい、ただ余人には触れさせたくないと、ここで公暗和尚に鉢がまわってきたというわけでな、今はその由縁を説明しておる間がないがな、、、とにかくその口利きで屋敷へ嫁入りしたのは紛れもない事実よ。多少は合点はいったであろうか」
小夢は僅かながら猶予を得た、心持ちをすっきりさせることは無理であったが、もろ助に関する疑点が激しく脳裡を渦巻き、反論の機会をうかがっていた。しかし切り口を上手に持っていかなければ随門師は絶対に納得しないだろう、それどころか一段と気違い扱いされるのは瞭然、先行きを焦る師に隙が生じるのをひたすらじっと狙っていた。
「これはそなたにとって初耳だし、言い辛いことだが、拘束を解かれる際にそれまでの意識は抹消されたんじゃ、学問所での取り調べは生ぬるいものでなかったからなあ、それに嫁入りまえの父母だの、幼少の時期だの、あとからとってつけた記憶もある。要はすんなりした心持ちでやり直しが利くなら、うなぎ騒動は小夢ひとりの胸にしまっておけばよい、よってたかってなぶりもの同様にされた苦い思い出は葬り去るべきだった。なかにはうなぎの意識も消してしまえと主張した学僧がいての、一応詮議し、平たく言えばだ、それではもぬけの空になってしまう、小夢という幻想とうなぎを並べておくのが無難であろうという結論に落ち着いたというわけじゃ。そうとも、そなたの名は小夢ではない、、、」
一瞬ひりつきのような痛みが胸を走ったが、思いのほかよいきっかけが早くもつかめた、小夢は眉根にちからを込めこう尋ねた。
「では、わたしの本名をお聞かせ下さい」
「それはやんごとなき方の沽券に関わるゆえ申せん」
「わかりました、けれど妙ではありませんか、子息をごん随さまの婿殿にとは、、、どうにも理解し難いのです」
「これだけは伝えておく、その子息もある事件によって絶縁されたのじゃ、ここはそうした者の吹きだまりよなあ、詳細はいずれ明らかになろう」
小夢はいかにも殊勝な面持ちでうつむきながら、静かな、しかし毒をあおったふうな凄みを宿し「もろ助、でございましたか、古次さんのうわごとは」と巻き返しの舌先を好調に滑り出した。
「そうじゃよ、それで彼奴もそなたと同じ病魔と訝り、あの首切り騒動をもう一度詮索しておったら危惧した通り、とんだ食わせものだと、、、」
小夢は師の言葉をさえぎった。
「実はもろ助と懇意だったのです。はい、うなぎの頃から、そしてお師匠さまもご存知でありましょう、春縁殺しの折にも」
「どういうことかな、そなたは幻覚を見ておったのじゃよ、もろ助など出会うはずがなかろう、あれは古次の幻覚よ、どうして別々のまぼろしが知り合いなのだ、馬鹿馬鹿しい。それともおぬし変なあおりを食らったか」
表情こそ苦虫を潰したようであったけれど、その目もとにほんの少しだけ動揺の影がかすめた。小夢はそこから自分でも驚くほどの早口で、春縁殺害に至った経緯はもちろん、へびのもろ助のあっぱれな死に様をとうとうとまくし立てた。そして遂にうなぎであった頃の川底の光景や黙念先生の教えまで語り尽くしてしまうと、急に容態が悪化したふうな顔色の師と対峙している自分を知り、次にくるであろう反応を大いに期待する構えでいた。
「今なんと言うた、えっ、黙念とな」随門師のまごつきはすでに隠しきれない。
「はい、黙念先生と申し上げました」
「このたわけが、どこからそんな秘密を盗んできた、えっ、どこからだ、古次か、阿可女か、いや彼奴らが知るよしなどあるまい、、、ならば一体」
「お師匠さま、ひとつお尋ねしてもよろしいでしょうか、学問所やらでわたしは黙念先生のことを語らなかった、そうでございますね」
「もうよい、わしのあわてぶりがなによりの答えだろうて。すまなかった大声を張り上げたりしてしもうた」
「随門さま、わたしに出来ることならどんなことでもお役立て下さいませ。失礼ながら黙念先生はお師匠さまの幻覚ではないのでしょう、そうなんですね、実在されたのですね」
じりじりと詰め寄る言い方ながら、小夢の顔色には見事なまでに粉飾された憐れみと、女人ならではの切ない色香が漂い、あたかも枯れ木に注がれる恵みの雨といった趣きを呈している。小夢は突破口を見出した、そう確信すると「それほどの大事、わたしなぞにお話しされなくてもよいのです。しかし、どうした情況にせよ古次がもろ助と名乗ったのであれば、これはわたしにとっても一大事、蛇のもろ助、その辺にありふれた名とも思えません。偶然にしては出来過ぎております、これにはきっと裏がありましょう。ちょうどよいではございませぬか、もし古次があのもろ助であるなら、どうして今までわたしに気がつきませんのでしょう、理由はあるはずです、お師匠さまはあくまで公暗さまより仔細をうかがったのみ、事実は別かも知れません。わたしの転生を信じて下さいとは申しませぬ、けれども黙念先生はよほどの人物なのでしょう、ええ、そうですとも、わたしも熱病によって意識があやふやだったのでしょうが、黙念先生はおそらく山椒魚なんかではありません、わたしがうなぎでないように」
「そうか、黙念に関してはまだ話すことは出来ない、が、古次の件はそなたの耳に入れておこう、そして約束してくれるか、阿可女の発案に即した振りで彼奴らの正体をあばいて見せるから、わしに助力して欲しい」
「なにをあらたまって、そう申しあげているではありませぬか、随門さま。それよりあの兄妹の奸計を阻止しなくてはいけないのでございますね」
「よく言った感謝するぞ小夢。わし亡きあと、家元に収まる企てに相違ない。その為にそなたを手なずけようとしておる、いいや、そなたの方から歩み寄ったも同じ、わしとごん随はあの秘技の際、阿可女が異様な妖しさを振りまいておるのを確認し、それまでの邪推から明確な陰謀へと考えを正すことにした。いやいや、攻めておるのではない、逆に的外れの懸想のお陰で事態が収拾できそうではないか。これも話しておこう、そなたを今まで芸道に導かなかった訳はこうだ。跡目がしっかり定まってなかったこと、ええい、正直に言うわ、おぬしの白痴ぶりこそわしの求めていたもの、うなぎうんぬんは関係ない、芸道に染まればおそらく快楽に溺れてしまい、わしの申し出に躊躇いを見せると思ったからじゃ、それにごん随が迎えることになろう婿殿もわしに相応しい、やんごとなき血筋、面目、体面を忌み嫌いながら結局わしは不動の価値を願ってやまなかった。絶縁とは申せ陰の援助は計り知れない。これで家元は安泰じゃ、わしの変哲はただの気まぐれ、世情に背いてみたかっただけよ」
そこまで言うとよほど気が抜けたのか、安心しきったのか、世捨て人みたいな風情さえ面ににじませ、にっこり微笑んだ。それから最期のひと仕事に本腰を入れる口ぶりに返り、
「阿可女らはわしとそなたのやりとりを大方予想しておるだろう、なに、そんなことをな、自らの思案と。ではわしを疑ってみるか」
「畏れ多い、お師匠さま、あの双子は特別な才覚を持っていたのがようやく分かりました、わたしが阿可女に惹かれたのもあの妖しい眼光、まさに蛇の目です。わたしを欺いているのなら、この女体に賭けて暴露してやりましょう」
沸々とわき上がる熱気の出所を小夢はしっかり悟っていた。随門だろうが双子だろうが、実はどうでもよい、これまで閉ざされていた謎が開けていく悦び、これこそ生きている証しでなく何であろう。