妖婆伝34


打ち解けるもなにもひたすら圧倒され、さながら夢のなかにあって夢なることを自覚しているようで、もどかしくて仕方なく、だが、場面を早送りしてしまうふうな紙芝居の軽佻な加減には頷けず、やはり呆気にとられたまま、阿可女の意見を傾聴しているしか術がない。小夢のこころの片隅に巣食っている恋情が思わぬ成果をあげたからだろうし、寝起きに鏡を当てられた気恥ずかしさも手伝って、愛しき饒舌と受けとめるしかなかった。更にはその饒舌のうちにあるやも知れない疑いをはさむ余地など持ち合わせようがなく、ましてや随門師の計らいとなれば一層のこと、ふたりして交わしたであろう遣り取りは厳命に値する。
小夢の狼狽は阿可女が話した辛辣なことがらによってではなく、いよいよもってただならぬ情況が押し寄せて来よう喜びを含んでいるが為、あまりに急激な勢いに呑まれ、諸手を挙げる素直さを失ってしまったからであった。古次との契りといっても半ばおのれから言い出したようなもの、さほど理解に苦しむわけでも嫌悪するわけでもない、だが、まるで伝令のごとく努めを果たした仕草でさっと身をひるがえす前に発した言葉に、ようやく現実味を感じ、同時に気が遠くなりかけたのだった。
「直後にお師匠さまより呼び出しがありましょう、わたしの言ったことに相違ないかは、あなた自らがよく思案されるべきですぞ」
うしろすがたを見送る目線は張りつめた糸となって小夢の胸に結ばれていたものの、いつも知った阿可女そのひとではない異様な雰囲気があり、残していった肝心の忠告は空を舞ったまま中々、耳の奥に伝わらなかった。
考えをめぐらせかけた矢先に今度はの毛子がいたって朗らかな顔で現われ「小夢さん、お師匠さまがお呼びですよ、なんでしょうねえ、いいことかしらねえ」と、無邪気な好奇心で問いかけてきた。さすがに笑顔で応えるのは難しく、我ながら重苦しい表情を見せていると覚えずにはいられなかった。が、の毛子も心得ているのか、それ以上立ち入らない。そして阿可女の身のこなしとは別の素早さで視界より消え去った。例の大部屋だと知らされ、ほとんど逡巡も抵抗もなく足取りが勝手なのに変に感心している自分が不思議だったので、ふすまのまえに佇み勢いのある声が出たことも平気に思えた。
「お呼びでございますか、小夢です」
「入りなさい」
押し殺したというより、病魔に冒されたと実感できる衰えた余韻がある。ふすまに手をかけた瞬間、病床を見舞うあの悲哀と怯えが合わさったふうな一途を願いながら、実際には四方に情感が飛び散ってしまう混乱を招いており、またしても現実味がすっと遠のき心構えを逸したかけたが、ここに来て阿可女の言がこだまとなって戻ったので緊張は健全さをよみがえらせた。
「まあ、座りなさいといいたいところだが、ここではいけない、さあ、こっちへ、わしについて来なさい」
そう随門師から聞かされても小夢は一向に怪訝な顔色を示さなかった。むしろそれが当たりまえのように思えたのは、別段おかしくない、阿可女のあの一言がすでに予備の知恵となって、これから始まるであろう難問に適切な居場所を授けたのだ。一筋縄にはいきそうもない、、、肝を据えた心持ちまでに達していなかたったが、運命の別れ道は案外こうした情況で展開するものだ、深刻であるべきなのに、どこか謎めいた秘密を待ち受けている不遜な姿勢、苦悶を振り返っている平常心、覚悟という文字がさほど深みを刻んでいないという、どうにも安直な考え、そうした気持ちがちょうど治りかけた傷口を塞ぐかさぶたとなって微妙な痛みを準備していた。
随門師は期待を裏切らず、わくわくするほど遊戯じみた、それは忍者屋敷を想起させる仕掛けをたどる歩調で、まさに抜け壁とか、床の間返しから地下への梯子とか、行き着いた場は茶室そのもの、ここなら誰にも盗み聞きされるおそれはない、師は至極平然たる顔つきで「どうじゃ、ここなら安心、ごん随にさえ教えておらん」その割りにはひっそりした声色に傾きながらも老衰とは無縁の、先天的に秘められた響きであり、抑えに抑えられた口ぶりであった。で、余計に小夢の動悸が高まったのは想像に難くない、事実、その胸中には怯えを忘れた奇妙なぬくもりを感じていて、背筋や肩の辺りはぞくぞくする相反する冷感だった。
「さきほど阿可女がそなたに言うたであろう、古次との交わりをじゃ。いいか、手短かに話すぞ、あまりときはない、急がねばならん、阿可女のやつ遂に談判に来おったわ、それはそなたも耳にした通り、、、」
ここで随門師は黙りこんでしまったので小夢は虚を衝かれたのだが、これは探りを入れていると思いなし、あとを受けつぐ要領で語らいに流れる心情で、つい今しがたの実情を師に説明した。すると渋面に花が咲いたふうな笑顔を見せ、頷きながらこう言った。
「左様じゃ、一言も誤りはない、だがこれはあやつの策謀、よいか、あの兄妹を引き取るにあたってわしはそなたも知る公暗和尚よりあることを付け加えられた。小夢よ、古次からも色々と過去の身の上話しを引き出したであろう、どうだ、そなた信じるか、古次のことを」
「はい、そう信じて来ました、大変な不幸な境遇であったのです。同情もしております。そのうえで、、、いえ、そうなのです、わたしは古次さんを裏切ろうとしています。すべて阿可女さんはご存じでございました」
「なら尋ねるが、阿可女はそなたに如何様な情を抱いておろう」
「そ、それは、、、」
「どうした、分からぬのか、いや、別にかまわん、分からん方がよい。とにかくわしの計らいと阿可女の思惑は一致しておるし、困ったことなどでない。しかし、あやつは動きだしたのじゃ、このわしが衰弱し始めたのを機にな。この際だから包み隠しなく伝えよう、古次を適うものなら跡継ぎと口にしたのはわしなりの保身であり企てに他ならん。わしは皆が認めるようごん随を後嗣とする、ただし婿を取らせる、年齢など不問じゃ、いいか、ようようその婿が選定された、誰だと思う、そなたの子息じゃ」
これには小夢は「あっ」と叫び声をあげてしまい、まじまじ随門師の顔を射るよう見つめたまま、身をこわばらせ、その癖一刻も早くさきを促す視線に熱く変化していった。
「さるやんごとないお方とそなたの間に生まれた寵児」
再度、小夢の悲鳴にも匹敵しうる声が茶室に反響する。
「なんと、なんと申されました、なんと、、、」
「古次ら兄妹をあずかってのち、わしは公暗和尚からとても興味深い話しをされた。そなたが屋敷内で様々な問題を抱える以前よりじゃ、そもそも何故あの屋敷に嫁いだかそなたは知らぬ。そして如何なる伝手でここに参ったかもな。よいか、そなたの正体はとうに判明しておる。そこでじゃ、公暗和尚に頼みこんだのはこのわしである、よく聞くがいい。疑念とも不思議ともそれほどに感じなかったのも仕方ない、古次はここに着くなり高熱を発し、三日三晩意識朦朧であった。ごん随の言うに、あの子は妙はうわごとを口走っております、なんでも、自分は蛇であり、ただの蛇でない、ちゃんと名もある、もろ助という、わしは半信半疑ながら様子をうかがっておるとやはりそのようなことうわごとを確かに喋っておる。が、熱に冒された朦朧状態から出た妄念、格別気には留めなんだ。そう何年も忘れておったわ、ところがそなたの伝聞があの記憶を呼び覚まさせた、高貴な家柄に嫁いでひとり子息を授かったまではよし、同じくそなたは熱病に苦しみ、そのあげくに発狂した。やんごとなきお方はそなたの身を離したくなかったのだが、そこは世間体、またまた面目よ、子息はそのまま成育し、そなたは公暗が擁する結社、陰陽道やら密教を研鑽する学問所やら、あらゆる方面から調べ尽くされやがて放免、いや、なに、あの屋敷に嫁いだという次第じゃ。これで分かろう、わしは小夢のすべてを判じておるゆえに古次が怪しくなり、そうなればもちろん阿可女にも不審がわき起こる。で、この事態じゃ、もう少し詳しく話そう」