妖婆伝33


「小夢さん、じっとわたしの目を見つめていましたね」
衝撃の芸道披露から数日経ったある朝、阿可女はかつてないしめやかな声色で尋ねてきた。
「はい、それは、、、もう、怖くて怖くて仕方ありませんでしから」
小夢をどぎまぎさせたのは、阿可女の問いかけにありながらも、恋着にこだわり続けた実りをようやく間近にした気恥ずかしさであった。初心な乙女などではあるまいが、古次との共感も偽善のうえに呼び覚ましているような負い目が邪魔をしている、そうまさしく邪魔なのであり、阿可女を慕う限り双子の兄は小夢の視界から消え去るべきなのだ。ひいてはごん随女史に少々潤色しながら打ち明けた片恋、穿つも穿たないもとうに阿可女に知らされているとしたら、、、
「無理もありません、あなたは蚊帳の外、わたしらの芸道には無縁でありましたから、さぞかし驚いたでしょうに」
確かにしめやかな声であるけれど、水菓子の涼し気な見た目にときに誤りがあるごとく、微かな苦みが口辺に陰っている。それにまなざしも何処となく妖しく、思わせぶりとまではいかないが、これも忸怩たる思いのゆえか。が、内心を見透かされている心許なさは慮外な反応に出た。
「ええ、そうですとも、しかし、わたしは阿可女さんの顔ばかり気になって、どう言っていいのでしょう、それが怖くて、、、」
この刹那、相手があらわにした表情を小夢は見逃さなかった。さっと朱が差したかに映ったのは思い過ごしか、けれども妖し気な目もとにあたかも針の先が閃いたよう見えた途端、急激に額から頬にかけ青ざめてしまったのだが、気丈な顔つきに正そうとする意思が直ちに普段の阿可女へ立ち戻らせたのだった。
うっかり本音を滑らしてしまった小夢は胸騒ぎを覚え、意想外の顔色を受け止めるより自分の動揺を鎮める方にすっかり気をとられる始末、増々縮こまってしまう。
短い間にかかわらず、こうなれば阿可女は分があるのをすぐに察知したのか「あら、どうしてです。あなたはお師匠さまの言いつけを聞きませんでしたの。芸道はわたしらが披露したに違いありませんけど、そうですもの、裸になったりして、けれど花を生けたのはお師匠さまなのです。それが流派、どうしてわたしばかり見つめていたのでしょうね」と、いかにも不思議な面持ちに加え、柔らかな、が、奇麗な花には棘があるを地でいかんばかりの冷徹な響きを忘れはしない。
これには返す言葉を的確に紡げなかった。そこで小夢はうなぎの心性を呼び返そうとおなごの粉飾をかなぐり捨て、いっそのこと情欲むきだしの体当たりで向かおうと考えてみた。しかし、小夢になりきってしまったのが仇になり、というのも異性として阿可女を欲しているのやら、同性として恋慕してのやら、どうにも明快な線引きが出来なくなっているおのれに新鮮な狼狽を覚えてしまい、とても以前のようにぎらついた肉欲に突き動かされる様子がなかった。これほどまで身もこころも変わり果ててしまったのだろうか。愛しの阿可女と夢見るごとく、あるいは熱病に冒されたごとくに、さながら念仏を唱えるよう胸に言い聞かせていたのは、情愛とは似て異なる何か別種の情念だったのでは。確かに悪夢をすげ替えたまでは意識の為せる技であったろうし、奇跡のからくりを看破したのも得心がいったはずだ。とはいえ、奇跡を了解し、そこに顕現する観世音菩薩の幻影にすがった以上、恋は恋であり、肉欲は肉欲のまま不変であってもらいたい、念には念を入れて氷の世界にしまいこんだのも久遠を願うが一心、嘘で固めたのはおのれの脆弱な意志であったか、、、
すっかりうなだれた小夢にさして大きな罰はくだらなかった。自業自得を覚えたものを叱責するのはこころではない、素晴らしく整然とした損得感情だけである。ところがこの場合の小夢に引き渡されたものは果たしてどう形容すればいいのだろう。小夢はただただ聞き入るしかなかった。なにせ魅惑と悲願と困惑が突然降ってわいて来たのだから。
「芸道を知ったのだから、あなたはもうわたしと一心同体、わかりますか、お師匠さまのご容態はあまり芳しくありません。これは心得ておりますね、心得ついでに、ごん随さまからお話しはうかがいましたよ、あらあら、わたしをだしにして困ったひとだこと。兄もどうやらあなたを好いているみたいです、いえ、直に尋ねたり、本人から相談されたわけではありません。双子の宿業でしょうか、今ではほとんど言葉を交わすこともなくなりましたけど、なに、意思疎通はお手のもの、わたしの考えは兄の考え、そこでいかなもでしょう、流派を見聞した小夢さんならもう理解しましたね。そうです、わたしら四人はもはや殿方を必要と致しません、あの秘技がすべての悦楽をあたえてくれるのです。けれど兄は違います、仔細はすでに承知されているはず、兄は女人を知りません、このわたしと結ばれる夢だけに生きているのです。お師匠さまは慧眼をお持ちでしたから、兄妹の血を越えた情を見極め、そのうえで最善の措置をとられました。承知して下さいますね、兄の望みを叶えてあげて欲しいのです、こんなお願いが出来るのも実はお師匠さまの計らいでもあるからなの、先日わたしを呼びこう申されたました。
わしはこれまでそなたら兄妹を鉄の掟で縛りつけてきた、そのわけは今さら言うまでもない、だがな、寿命を感じる昨今、果たして掟だけがひとの世の理であったのか、わしは善かれと裁断した、放っておけばきっとおぬしら兄妹は身を滅ぼすであろう、さすればこの家門に傷もつこう、つまるところは面目じゃ。かつておぬしらが背負わされた重圧じゃ、家元はごん随に譲るとして、これで肩の荷がおりるというものかのう、なら面目など打ち捨てたいのだが、それでは流派に顔向けが出来ん、ごん随とて後々まで精進せねばならぬ身、わしのお情けだけではどうしょうもない。おぬしらは色の道を遥かに越えた域に達しておる、が、我ら流派は男子禁制、嫡子のみが代々受け継ぐしきたりよ、わしは元来変哲な人間でのう、訳あって生涯独り身を通したいわば謀反者よ、先代の厳命に逆らうもしぶしぶ了承した挙げ句の妾腹にも恵まれなんだ、子種なしのかたわと罵られもした。世襲などという決まり事さえなければ、わしは喜んで古次に跡目を継いでもらいのじゃ。しかしこればかりは、、、
お師匠さまはそう長嘆されてから、こうおっしゃりました。小夢にはまだ秘技を授けておらん、いうなれば生娘よなあ、どうだろう、古次と契りを交わさせてみるに、おぬしへの愛着を断ち切るのは無理でも、彼奴とて男、おぬしも薄々勘づいておるであろう。わしもな幾度となくあの二人が仲睦まじ気に立ち話をしておるのを見かけたわ、その会話まで筒抜けじゃ、地獄耳だけはまだまだ達者だのう。
そこでわたしはこう申し上げたのです。お師匠さま、さればよき計らい、実は小夢には何か底知れぬところがありまして、兄を好いておるなど方便に過ぎません、このわたしに懸想しているらしいのでございます。ことの次第は詳らかではありませんが、不穏な企みとも思えません。いずれは秘技をまっとうする宿命、いっそ兄に捧げるのが名案でありましょう。それから大変恐れ入りますが、その件につきまして、ひとつお聞き入れしていただきたいことがございます。他でもありません、小夢が本当に謀りごとを秘めておらぬか、ここは禁令を是非とも解いていただき、兄にその旨を伝え真意をしかと見極めたいのです。
どうです、小夢さん、こんな敵の懐具合、いいえ、家元の名誉にかけてもあなたに承服してもらわないといけません。さあ、これでわたしとあなたはすっかり打ち解けましたね」