妖婆伝31 小夢にとって阿可女はひとつの奇跡だった。望みが成就されるから奇跡とは限らない。村から逃れ、行く末を半ば放擲しつつも、わらにもすがる念いが沈みこみそうで浮遊していたのは、ひとえに命乞いに他ならず、それは宵待ちを欲する暗き願望に支えられ、漆黒の気配に仄明るく灯った顔を待ちわびる、出会うべくして出会った夜に透ける微笑であった。随門師に対する恐懼が何より先行される情景を塗りつぶしていたとするなら、門前に佇んでいた阿可女の風姿は片隅に描かれていよう、ほんのりした色彩である。 思いめぐらせるまでもなく、闇夜の灯明が神仏に限りなく近かったことは否めず、小夢の怖れは極寒の地で一気に凍結してしまう危うさに支配されていたのだが、本能に働きかけてくる情動は、悪夢を見事に恋心にすり替えてしまったのであろう、そうでも思わないことには一目惚れを成り立たせている謂われを何処に持ち込んでよいのやら、迷いにも終着があると信じるべきは、偽善者たる、そして高慢で不憫な心情にもっとも適しているに違いなかった。愛の不毛に嘆くより、不毛の地平を夢見る方が素晴らしいと感じたからである。 小夢の場合、危うさと居並びながらも一線を画する氷結がもたらされたので、今度は腐敗をせき止める遺体の側から見上げるような視線が、氷の世界に絶対の信頼を寄せさせた。不変の安寧は冷たいこころが長い年月をかけて溶けだしてゆくような、いわば寿命に即した現実味を会得し、あらぬ不安はなおざりにしたまま前途を切り開いた。足もとをずっと掬われ続けているよりかは、宙にぶら下がったひもに手をかけ、なおかつその手応えまで夢想することで実際の居場所を確かめたのであり、同時に心模様にも彩りを加えたのだった。 萌芽は大切に氷のなかに保存された。古次の世界が閉じていると思ったことはまさしく、自分自身の境遇に照らし合わせ、端的に言い切りたかったからで、裏を返せば近似する心境を上段から斜に眺めているふうな底意地の悪さにそそのかされていた。その分、阿可女に委ねた意識は単なる懸想にとどまらず、天の岩屋よろしく世界の開示を、ひかりの再来を、脳裡に燦然と輝かせ、これを奇跡と見なしたのである。 小夢はここに身を預けてからというもの、まるでほうき星のたなびきのごとく恋情を温存していた。だが決して口にすることなくやり過ごして来た信念が、思わぬところで綻びをみせてしまい、しかもあろうことか、くしゃみが出たふうな有り様で開陳してしまったのだ。察するまでもない、先日のごん随女史からの申し出にいたく動揺したに相違なく、積年の鬱屈が、これにはいささか語弊があるけれど、つまり習慣づけられた下働きの日常を疎んじているようで、案外よどんだ空気とは感じず、逆に目新しさもない代わりに十分と感謝の念さえ抱ける新鮮味を知らず知らずに取得していた、無論ことなかれの凡庸に甘んじていただけではない、過去における放恣なまでの欲情が封じられたまでで、実際不埒な懸想を暴露してしまうていたらく、燻っていた残り火は今だ健在で、そこへ相乗りする如くいよいよ華道という未知なる方向が開けて来た、嘘で固めた色恋をうっかり漏らしたもの、いわば方便、小夢の好奇と期待は不所存な箇所に滑り落ちるのであった。 おのれの色欲がままならぬなら、他の者らは如何に欲情を晴らしておるのやら、これは念頭に上らせ赤い野心を抱かせるより、不用意に胸裏に想い描くことを制する意識がかり出され、いつしか忘却の彼方に追いやってしまった灰色の、だが微かな火種のような発疹を肌身に残した証しといえよう。濁りきった沼底に棲息するえら呼吸の確かなうごめきは新たな息吹となって、全身の毛穴から煙のように立ちのぼって来る。色欲の意識は遠くにありて近きもの、小夢の嗅覚は内弟子らの性に関し、どうしてもっと鋭敏でなかったのか不思議に思ってみたけれど、おのれを抑制している現状に憤懣やる方ないなら、他者の色には目をくれないのが賢明であろうし、あくまで禁欲の仕組みに忠実だったに過ぎず、ただこの度のごん随女史からもたらされた意向にありきたりの、そう身分が高まっただの、平淡な日毎から解かれるだの、果てはひょっとして自由が得られる可能性だの、そういった平穏な暮らしぶりから逸脱しない事柄でなく、別な意味合いをぬめりのように抱きかかえる想念がおおいに表立ってくるのだった。 それは紛うかたなき、これまでずっと秘事であった華道そのものに対する震える関心であり、遠く謎めいていた肉欲の匂いに他ならない。薄皮一枚隔てた裸形をなぞる指先がまず不確かな輪郭を知れば、次に喚起されるのが人肌のぬくもりであり、そこに触れたい一心は着物のすそをめくり上げる淫猥に堕するけれど、情欲に本来裏表があろうもなきにかかわらず、まさに薄皮ぎりぎりのところでふみとどまる理性をひとは称揚し、陰でむせび泣いてしまうのだ。 小夢の華道への高揚はこうして閉め出された色欲の香りによって、大きくふすまが開け広げられる按配で意気盛んになっていった。実のところ、随門師の部屋に始めて呼ばれたとき、こころのふすまが同じ勢いで開けられたので不届きな予測が立派に当てはまったと、胸が踊った。 さて遂に内密であり続けた師匠と弟子らの芸に立ち会う瞬間が訪れたわけであるが、小夢の淫靡な、しかし澄み渡った意想は塵ひとつとして舞わぬ畳の清らかさを持ち合わせており、その二十畳敷きの大部屋に足を踏み入れたときはさすがに息をのんでしまったけれど、すでに師のうしろに物々しく控えている内弟子四人の顔つきに神妙さを覚えるどころか、あらかじめ示し合わせたふうな会心の笑みさえ送りたい気持ちを抑えることが出来なかった。が、広々とした室内にはいつもの顔ぶれの居住まいがあるのみで、がらんとした空気は年も明けて日数も経つというのに、どこか厳粛な雰囲気で張りつめていて、これより指導される一切の幕開けに相応しく思われた。そして畳縁の凛然とした直線が意思を裏打ちしているかに感じられ、生花も花器の影すら見当たらない殺風景な場は、なにやら家元たちの密談を予期させ、幾分かの湿り気を小夢の掌に与えた。 「そこでよろしい、そこにじっと座って我が流派をしかと見届けるがよい」 これが開口一番、随門師の言であり、あとあとはいっさい喋らずじまいであった。秘技が終了するまでの間、もっとも懇切に接してくれたのは、といっても丁寧な解説でも優し気な口調でもなく、驚愕に揺れている小夢の心情を汲んだふうな表情を細やかに送った阿可女そのひとであって、増々恋情を募らせ、あれこれ筋合いを考えあぐねたことが徒労であったと胸を打った。 座した師匠の無言の合図に気づくはずもない、小夢はそれまで灯されていなかった燭台に次々と火が点じられてゆく様を、思考が止まった状態で見送るしかなく、密談に適っていた大部屋が見る見る間に煌煌とした輝きに充たされ、始めて陽光を凌ぐまばゆいばかりの光景に臨んでいる情況を実感し、いずこより入りこんだか、僅かな微風にそよぐ灯火が月光を浴びて陰影をなす草木に思われ、はっと意識を取り戻した刹那には、一層ひかり充ちて何と華やかな女体が月と日輪のひかりをたぐり寄せる様相で迫っていたのだった。 「小夢さん、わたしたちが花なのですよ」 ごん随女史が自らの裸体を賛美しているは一目瞭然で、崇高な声でそう言うや、白糸、の毛子、阿可女、皆が着物をほどき出した。ゆるりと帯が流れ落ち、それぞれの召し物が優美な衣擦れになってふわり脱ぎ捨てられた。燦々とふり注ぐ陽光さえ必ずや弾いてみせよう純白で光沢のある裸身に、小夢は激しいめまいと、みぞおち辺りから込みあげてくる熱い悦びを知った。 |
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