妖婆伝30 「の毛子はさすが若いだけにもの言いがきびきびしておる、あれほど感に触った声色がまるで可憐な鳥の鳴き声にも聞こえてしまうのだから、ひとの心持ちなぞいい加減なものだわな。けれど、それで安寧が得られるのであれば、そのさきは過分よなあ、愚痴めいた言い訳に堕するだけじゃ。 愚痴ではないが最近では鏡のなかの顔に小じわを認めてしもうた、これは自然の理であるのだろうが、一抹の哀しみは拭われん、うなぎの寿命はいかほどやら、わしにも老醜の影がさしている、これは変な思考だが、小夢に転生してのち、全身にみなぎっておった溌剌とした若さを久遠と取り違えていたのがよく分かるようになって来た。月並みの生き方でないだけに日々に向かう気持ちは些細な変化を機に、何やら強迫めいた焦りに転じたようだわ。わしは生き急ぐというより、ときの連鎖に殊更疎まれているようで仕方ない。これが宿命なのか、子憎たらしかったの毛子の妙齢がうらやましい、かといって嫉妬の情まで生じさせてはおらん、老人が大木のささくれに触れながらも新緑の香りを嗅ぎつけるように、ある種のあきらめを肝に銘じているつもりじゃわい。 小夢さん、この間ね、お師匠さまがこぼしてましたよ。わしも高齢である、出来ることならごん随に家元を継がせたいのだが、いかんせん、まだまだ未熟もの、わしの精髄を授けるには器が足りんし、風格も備わっておらん、かくなるうえはおまえら弟子たちの協調、一致団結が流派の存亡にかかっておる。 これには仰天したわ、かつてこうした話題がわしの耳朶に伝わった試しは一度もなかった、それが鳥のさえずりのように庭先の梢から何気に聞こえて来る錯覚となったのだから。果たしての毛子は斯様に重大な事柄を安気に口にしてよいものやら、聞かされたわしの方がどぎまぎしてしまうわな。それとも如何にも牧歌的で平穏な日々に紛れるふうな思惑がひしめているのやら。つまり、わしは試されている。またして疑心の顔をもたげざる得なくなり、身をこわばらせた。ところが、白糸も似たようなことをあたかも世間話しみたいに話しだした。跡目はそれは大変でしょうねえ、わたしらも増々荷が重くなるでしょうに、、、 更には阿可女さえ、お師匠さまにもしものことがあったときにはどうなるのでしょう、と口々からもれるのは向後の懸念ばかり、いくら奥の間との隔たりがあるとはいえ、食事どきに噂するにはことが深刻であるし、こうも開けっぴろげな言いぶりはどうであろう、これまでの生活にはあり得ん放埒な雰囲気、取りあえず疑心はさておき、ときの推移が内弟子らをふてぶてしゅうさせたのやら、逞しくしたのやら、あれほど感の鋭い随門師に挑むふうな意気にすっかりのまれてしもうたわ。 そして数日経ったよく晴れた朝、ついにごん随女史から打診を受けた。小夢さんはここに来てもう何年でしょうかねえ、家元はめっきり衰弱してまいりました、年には勝てません、どうでしょう、そろそろ華道を学ぶべきだと思うのですけど、、、別にあらたまった口調で言われたのでない、ごくありきたりな一室で向かいあったくらいだからのう。しかし、この情況が却ってわしに緊張を強いた、いよいよという思いは突風のごとく駆け抜け、あたかも死地に赴く厳粛な覚悟が要請され、それが日常の何気のない部屋での当たり障りない口ぶりと来れば、あらたまった式典に臨席するより遥かに堅苦しさを禁じ得ない。 結局、ここの流派は何故にこれほどまで少数にて維持されたのだの、いつもながら季節の折々に招聘される高貴で富裕な人々は何を所望しているのだの、ことの始まり、公暗和尚は一体どんな配慮でもってわしをこの地へ向かわせたのだの、これまで疑問であったけれど封印してきた事柄が一息に噴出したんじゃ。内心しどろもどろ、虚脱しているのか、高揚しているのか、狼狽しているのか、確かめようもなかった。ただそんな最中にあってごん随女史の気構えのない目もとが異様に感じたのはあながち的外れでなかったみたいでな、要は機が熟した、それに尽きるということじゃ、随門師も内弟子らも、わしも古次も迎えるべきして迎えたときなのであろう。 張りつめていたものが、或いは脱力で失われていたものが、すうっとさり気なくこの身に舞い戻ったわ、当たりまえに戻ったようでその実、何かが異なる、わしは恬然とそれを悟った。すると思いもよらぬ言葉を口走ってしもうたが、あとの祭りよ、どうしてあんなことを言ってしもうたのかや、うなぎの本性とも思えんし、すべてに観念したとも考えられん、ああ、もはや吟味はいらぬ、これがわしの一念であったろうくらいしか脳裡に形跡は留めん。 ごん随さま、わたしは古次を愛しておりました、けれどもそれが仮想であることを認めなくてはいけません、はい、その面影を同じゅうする阿可女さんを好いているのです、あなたさまは跡目となられるお方、その旨はとうにお師匠さまから聞き及びでござりましょう、わたしの好色な性情を、、、またしても空言、はなから古次を慕っておったでない、だが、よくよく振り返ってみるにまず接近を計ったのはまさしくあの可哀想な下男、確証こそあやふやであるけれど、まるきりでたらめでもあるまいて。おのれで吐いた告白の余波にもまれている間、ごん随はまったく気色ばんだりせず、いつぞや古次が語ってくれたようなあの忌まわしい、だがいたって平淡なまなざしが想起されようひかりと化して部屋に灯されている。 忸怩として消え入りたい心許なさに傾きかけるも、須臾にしてごん随女史はこう述べた。それはそれは、風変わりで面白うございますね、それで、如何がされたし、よもや阿可女の情人になるつもりでもあるまい、戯言と聞き流しておきますから心配いりません。そのうち小夢さんの願いが報いられることもあるやら知れませんぞや、果報は寝て待て、ほほほっ、精進されたし、師は病床についていますけれど、あらためて華道の手引きをいたしましょう。それにしても小夢さん、あなたは不思議なおひとじゃ、わたくしは感心しましたぞ。 その夜、わしはひさしぶりにうなぎのすがたに返って清流を遡った。はっきりしないが、おそらく黙念先生を探していたのだろう、夢は無限に続くと感じられ、歓喜が押し寄せて来た。束の間の本家帰りと思いなし川底にそっと身を沈ませれば、夢の入り口が懐かしくもあり、遥か昔の出来事に関わっているような浮遊した感覚が全身を覆う。苔の岩、静かな意思、揺らめく川藻の優雅な調べ、水面に映れば微笑ましくも、言い難い望ましさの魚影となるであろう傍らに泳ぐ鮮やか銀鱗、やあみんな、変わりはないか、、、ひとの言葉なのだが、ひとの言葉でない、流れに溶けだす淡い響き、これほど屈託のない遊泳はいつの日以来やら、黙念先生が清流の主をあることを疑るすべもなかった遠い日々、目指すさきは永遠の向こうでもあった、、、」 自分は、老婆の表情に時代の変遷とは別次元の、それはたった今見知ったふうな驚きと悲嘆、限りない幸せが横並びに溢れ出ているのでは、そう感じさえてやまないものを受け取った。灯火の明るみをさえぎるというより、こころのうちから放たれた光輝を呑み込んでしまった、静かな、しかしとても重い閉眼が自分を夢のなかへと誘った。老婆は目を閉じたまま語りだす。不敵な笑みがむしろ反対に、そう自嘲の感情など悠遠の彼方に置いてきた様相で、親しみをたっぷり含ませた面持ちとなり、言葉の端々から響く陽炎のような光景を面前に浮かび上がらせる。切なくたゆたう情感を、ときには慄然と、あるいはときめきに変化させ、こころとこころの断面をゆっくり溶かし始めるのだった。 |
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